同じバイト先で働いている新川芳樹くんの表情はいつも、少しだけ冷めていた。

 彼は高校に入学するタイミングでバイトを始めた。私は一年先輩で、同じ高校だったし、何度か話しかけようとした。話しかけるといつも普通に応えてくれる。それなのにいつも、どこか一線を引かれているようなそんな感覚があった。

 私は中学のいじめで転校してから、自分の性格を無理やり変えた。人に嫌われない接し方を研究して、高校生活でもそれを使って上手くやっていたと思う。中学の時は妬まれていじめに発展した容姿も高校ではむしろプラスに働いて、誰からも嫌われることはなかったと思う。

 だから、芳樹くんと話す時も、いつものように、彼が求めるであろう行動をとって、愛想よく話しかけたりしていたのだけど、彼は、心を開いてくれなかった。

 そんな彼のことを純粋に気になった。もっと一緒に話をする機会があれば、と思っていたけど、私はおばあちゃんと二人で住んでいて、お金に余裕があるわけでもないから、どこかに誘ったりして話す余裕はなかった。

 だから祖母が亡くなって、その間シフトを代わってくれていたと知った時はチャンスだと思った。

 どうせ私は死ぬと決めていたし、もうお金はいらない。

 そして、彼をご飯に誘った日、それは聞こえた。

 彼の肩に手を置いた瞬間だ。最初、どこかから放送でも流れているのかと思った。割れた金属音のような不快な音が耳に入ってきていた。

 ただ、音が聞こえたことに対する驚きはすぐに消え去ることになった。

 内容が、今私がご飯に誘った彼が一ヶ月後に自殺をするという内容だったから。

 まるで自分のことを言われているみたいだった。

 怖くて話をすぐ終わらせようとしている最中も動悸が収まらなくて、ただその中でもちゃんと私は続いて声を聞いていた。

 彼を救えば、それまでの関係する記憶が両者から消えるという訳のわからない内容が耳に届いていたのだ。小説みたいだ、なんて思う一方で、私はよこしまな――自分に都合の良い解釈を始めていた。
 これはもしかすると天国にいる葉月に対する償いになるんじゃないか、と思った。

 もし今聞こえてきた内容が本当なんだとしたら、そして私も葉月と同じように人を救ってから死ねば、自殺した彼女も少しは許してくれるかもしれない。

 そのための試練なんじゃないか、と。



 体力の限界で座り込む。ずっと墓から逃げるように走り続けていた。

 体が震えていた。疲れて、じゃない。事実を理解して。

 私は思い上がっていた。なにが償いだ、なにが罪滅ぼしだ。

 彼を苦しめていたのは私自身だった。

 私が、芳樹くんの姉を、葉月を、死に追いやった。自殺じゃない、殺したんだ。

 違和感が全くないわけじゃなかった。

 芳樹くんの最寄り駅と、家庭環境。お姉さんは、自殺していると言っていた。その話を聞いたときに、もちろん私の頭の中には私のせいで自殺した親友の顔がはっきりと浮かんでいた。

 たまたま似た境遇を抱えている人なんだ、と思っていた。

 だから、彼の考えていることを理解できると思った。彼が、私と同じように自殺を考えているも、納得できた。彼の苦しみは、自分が一番わかっているだなんて思っていたりもした。

 くだらない。馬鹿だ。ただの、思い上がりだった。

 私が彼の苦しみの一番の元凶なのに。

 苗字。新川……芳樹。いつもバイト中の名札でいつも目にしている。
 新川、それは間違いじゃない。

 逃げる前に聞こえた彼の言葉を思い出す。

 ああ、そうか。

 私のせいだ。私が、彼から全てを奪った。

 私のせいで、彼の苗字も変わって。

 自殺に追い込んだんだ。

 心臓が、捻れる。

 そうか。この声が聞こえるという状況。なんで私たちだけが、なんて思ってたけど、二人とも、原因が同じだから。

 彼も気がついただろう。もう近くになんていられない。私にはどうにもできない。どうせ何もできなかったのだ。

 わからない。もう私は一人で。彼には生きてほしい。もし私だけが死んだら、彼は私のことを忘れてくれるはずだ。

 けど。そんなことを願う資格さえ私にはない。

 もう、彼に会うことはできない。





 綾さんが、姉を自殺に追いやった、のか。自分で言っていた。

 ――私が自殺まで追い込んだから。
 ――墓参りに行ってきたんだ

 本当、なのだろう。

 彼女の、本性、とかじゃない。

 ずっと、姉の自殺は仕方ないものだと思っていた。

 姉のいじめに関わった奴全員――とか、考えなかったかと言われたら首を振ることはできない。けど。僕はずっとその感情を抑えていた。それに対面した所で、恨みの感情をぶつけたりした所でどうしようもないんだからって。

 許せないし、納得してないけど、そこは間違ってないと思ってた。

 反省して欲しいのか、お詫びに死んで欲しいのか、そんなことを考えるのも嫌で。

 ずっと、その感情自体、不必要なものだと自分の中で決め込んでいた。そんなことをした所で自分の姉が生き返るわけでもないのだから、と。

 けど、実際、目の前に、生きてほしいと思うくらい近くに姉のいじめの原因になった人物がいるならば。ずっと保留していたから、その蓋を開けられて、停滞していた醜いけど正直な感情が急に動き始めていた。

 だから、彼女の姿が見えなくなってすぐ、彼女を探せなかった。



 内臓が浮いたみたいな感覚の中、僕はある場所に向かっていた。

 心の中、奥底、見えないはずの、これからも誰にも見せないはずの場所にこびりついていたどす黒いものが、ザワザワと騒ぎ出す。

 真っ直ぐに怒りを出しているよりもタチが悪かった。感情の、落としどころが分からなかった。母みたいに、他に影響を与えながらも、自分の感情に正直でいられたなら、どんなに楽だろうか。

 正しい道だと思っていたから、そうやってしっかりしていると言われるような体裁を作ってきたから、それしか方法がなかったから。

 わかってる。綾さんよりもっと悪い人もいると、理解している。

 それじゃあ、このこみ上げてくる感情はなんだ。怒り、焦り――いや、失望、だろうか。

 綾さんが姉をいじめたわけじゃない、わかっている。

 けどそんな話をしている訳じゃない。いつだって手の届く範囲のことしか考えることもできないのだ。だからこそ僕は蓋を閉めて考えることさえも保留にしていたのだ。これからもその蓋は開くことがないと思っていたのに。

 なんだ。

 なんなんだ。

 脳味噌が掻き回されているみたいで、自分の感情が理解できなかった。

 彼女のことをずっと知ろうとしてきたけれど、知らない方が、よかったのかもしれないと、始めて思った。

 ああ、そうか、僕たちが同じ能力を持っているのはそういうことだったのか。そりゃ、こんな力、みんなに生まれ始めたらキリがない。

 彼女に会えば、わかると思っていた。彼女を傷つけないために何をすればいいか。彼女に会って話して、選ぶしか方法はないと思った。けど、違った。

 もっと、わからない。

 どうすればいい。

 分からないから、その感情を、一番わかっている人に聞こうと思ったのだろうか。

 家に着くと、昨日よりもふらふらした足取りで廊下を通り、リビングへ。僕はその奥にある姉の部屋の扉を開けた。

「え……芳樹」

 リビングにいた母が、急に姉の部屋に入っていく僕に対し驚愕の声を上げる。

 その言葉は無視して、僕は扉を閉める。

 変だ。今朝は何ともなかったはずなのに、急に胸の奥からもぞもぞと悪いイメージが溢れ出す。

 深呼吸するのも忘れて、僕は久しぶりに姉の部屋を見回す。

 仏壇以外、昔見たものと何も変わっていなかった。

 埃ひとつ積もっていない勉強机。姉は高校に行くためにずっとここで勉強していた。僕はが今の学校に入ることに決めたのも、姉の影響だ。

 机の隣にある本棚に見覚えのある本が入っているのに気づき、心臓が跳ねる。

 姉も、同じ本を持っていたのか。僕も綾さんも持っている本。姉の苦しんでいるサインを見逃していたんだと、今頃になって気づく。

 の、横。

 姉が高校になったらすると言っていたメイク、その勉強のために購読していた雑誌。

 その雑誌の天の部分から栞の紐が飛び出しているのを、僕の目がしっかりと捉えていた。

 ――無くしちゃって。

 綾さんの言葉が頭の中に浮かんできて、気がつけばその雑誌に手を伸ばしていた。

 開くと、確かにそこには紅葉の栞が挟まってあった。

 ホテルのロゴ入りの、紅葉の栞。

 しおりをそのままポケットに入れる。そしてその雑誌を元あった場所に戻そうと――

 視界の端に何かが見え、ことん、と床に落ちる音が聞こえた。

 ――紙?

 白い便箋が足元に落ちていた。手紙、だろうか。

 お姉ちゃんの字……だろうか。今まで注意して見てもいなかったのに、その字体だけで全身が懐かしい空気に包まれる。

『 綾へ 』

 その書き始めで理解する。姉で間違いない。

 そんなふうに始まった姉の手紙は数枚に渡っていた。

 姉がいつ、どういう気持ちで書いたものなのかはわからない。

 一緒にケーキのイベントに行ったこと。

 紅葉を見に行ったこと。

 ケーキを食べたこと。

 勉強をしたこと。

 図書館で話したこと、怒られたこと。
 いじめのこと、救いたかったけど救えなかったこと。

 勉強のストレスのこと。

 したかったバイトと部活のこと。

 綾さんと高校で会うことが目的だということ。

 しばらく周りの世界が泊まったかのようにその手紙を読み続けていた。

 ほぼ全て、知っていることだった。綾さんが、思い出しながら語っていたことが全て、姉の手紙と同じことだった。

 楽しかったことだけが綴られているその便箋を見て僕は。

 もう一度雑誌を開く。

 雑誌の中、いろんなところが丸で囲われていた。

 その全てに、誰かに読ませることを目的としたコメントが記載されていた。手紙と同じ字体で書かれたそれ。

 僕は急いで本棚にしまってある雑誌を見返す。

 そのファッション雑誌は毎月刊行されているもので。

 見ると、姉が死ぬ前の月の号まで全部。

 全てにその書き込みはされていた。

 二人で幸せな時間を共有していたことが、伝わる。ずっと、姉は――

 姉の言葉を見て。

 誰よりも辛いはずのお姉ちゃんのその覚悟を知って。

 どうすれば良いか分からなくなったその自分の心を、姉がそっと支えてくれている感覚になった。

 大きなため息が口から漏れる。

 安心しきっている自分に気がついた。

 今日までずっと彼女と過ごしてきて。彼女が僕のためにこの一ヶ月間考えてくれて。僕が悩んでいるから話を聞こうとしてくれて。僕のことをわかろうとしてくれて。

 そういうことが積み重なって今僕はここにいる。

 姉が死んでから長い間人と深く関わることを避けてきた僕が、彼女を信用できると思った。

 僕が、誰かに会って尊敬するなんて、積極的に人と関わるなんて。

 それも全て、彼女のおかげだ。

 気づく。

 一番大事なことを、まだ僕はわかっていなかった。

 何でこんなにも気づかないのだろう。

 こんなにも単純なことなのに。

 また自分の気持ちを押し込めて、気づかないふりをしていた。

 僕は駆け出す。



「どこ行くの!」

 姉の部屋を飛び出して家を出て行こうとすると、母親の焦った声が聞こえてきた。もうすぐ午後七時だ。一瞬止まりかけ、再び無視することを決める。

「芳樹! 待ちなさい!」

 そう叫びながら僕の腕を掴んだ母親は血相を変えていた。僕の必死そうな様子に、姉を重ねているということが容易に想像できた。

「お願い、待って」
「ごめん」

 そう言って母の手を振り払う。

 ごめん、あとで怒られるから、ちゃんと後で話すから。

 大丈夫。確認した。この僕の行動で母が自殺をするなんてことはない。

 今は、ちょっと。

「僕は大丈夫だから!」

 外に止めている自転車にまたがり、つい一年前まで毎日のように通っていた道の記憶を追いかける。

 人も車も全く通っていない。飛ばせる。

 急げば数分で着くはずだ。冷静に中学校までの道を考えている頭の端で、不安が脳を侵食するみたいにねっとり貼りついていた。

 ――もう死んでるなんてことないだろうな。

 嫌な想像から逃れるように、僕は必死に足を動かす。
 心拍数が上がっている。さっきからずっと耳鳴りが響いている。

 徐々に膨れ上がる胸騒ぎが、僕を焦らせる。

 ちゃんとペダルを踏んでいるはずなのに、足の骨が抜けてしまったみたいになって、何度もペダルを踏み外す。

 ――早く。もっと早く。早く動け。

 ついさっき通ってきた道を逆走する。

 必死に足を動かし、住宅街を抜ける。周りに意識を集中していたけれど、道を走っている間も彼女らしき人物を見つけることはできなかった。が、信号が僕に味方してくれているのか、ほとんどノンストップで墓地へとたどり着くことができた。

 姉の墓の前に行くと、甘栗の袋は置いたままになっていた。綾さんはあの後も戻ってきていないのか。

 どこだ、どこに行ったんだ。

 彼女がまだ近くにいる可能性を考えて周りを見回す。

 空が深い藍色に染まっていた。あの日、窓から見た景色を思い出してしまう。

 体がざわつき始める。ずぶずぶと、胸の中に重りが突き刺さるようだった。

 手の汗が止まらない。

 じわりじわりと生暖かいセメントで足元を固められていくような感覚。覚えがあった。

 父の死んだ日にも感じた胸騒ぎと同じ類のものだ。

 戻り、自転車に乗り直すも、手が震えてハンドルをうまく握れない。

 僕がもっと早く動いていれば。受け身じゃなく、僕からもっと彼女に話そうとしていれば。そしたら一日でも二日でも猶予があったかもしれないのに。

 彼女がいなくなってすぐに探していたら。

 急いで見つけなければ彼女は死んでしまう。こうしている間にも。

 いや。僕は首を振る。

 後悔はあとだ。

 後悔したってなんにもならない。

 どこにいる。彼女が行きそうな場所はどこだ。

 けど普通、時間的に無理だろう。

 わからない。

 けど。僕はペダルを必死になって回した。

 どくどくと血流が暴れている。

 ほとんどスピードを落とさないまま自転車を飛ばしてきたから減速が間に合わず自転車が勢い良く転がる。かろうじて飛び降りたおかげで怪我はない。

 自転車が地面と擦れる大きな音のせいで近所の家の人が出てくるかもしれない。

 目の前にある中学校を見上げる。

 それが予想以上に小さいことに驚く。なんと言うか、全体的に背が低い。こんなに小さいものだなんて思わなかった。一年弱来ていないだけで、こんなにも印象が変わるものなのだろうか。

 校門も、校舎も、設備の整った今の高校と比べるとかわいらしく見える。



 果たして彼女は、その場所にいた。

「綾さん」

 声を掛けると綾さんはゆったりとした動きで僕の方を振り返る。

「見つかっちゃった」

 彼女は感情の抜けた声でそう言う。

「何してるんですか」
「何って」

 彼女は屋上の端に立っている。

「やめてください」

 もう、迷わない。

 彼女が姉を傷つけてないんだと確かめて安心した僕は。

 心の中では、彼女を嫌いになってしまうことが嫌だと思っていたのだ。彼女を恨まなければならなくなることを、心配していたんだ。安心したというのはつまりそういうことだ。

 簡単なことだったのに、全然わかってなかった。また勝手に想像してわかった気になっていた。

「死なないでください」

 何も言わない彼女に僕は自分の心を曝け出す。

「なんで僕だけがこんな声を聞いて、辛い環境にいるんだって。ずっと思っていたけど、その気持ちを隠そうとしてました。実際自分でも深く考えないように、誰にも話さなかった。けど、よかったって思うこと少しはあるんですよ」

 自分の耳に手を持っていく。

「こんな力なかったら、綾さんと親しくなることもなかったです。ずっと誰にも言わなかったようなことを、綾さんにだけ言ったんです。言わせてもらえたの、綾さんが初めてなんです」

 おかげで僕は自分が背負っているものをちゃんと見ることが出来た。

 そんなことを話す僕に、彼女は少し不思議な表情をして、それから息を漏らすように笑う。

 その表情の意味は、多分いつまで経ってもわからない。

 でも、彼女の口を開くことが出来た。

「うん、私もよかったよ」

 彼女も自分の耳朶を細い指で触る。

「だから、今までありがとう」
「今までじゃないです。死なないでください」
「何で? 私は芳樹くんのお姉ちゃんの敵だよ」

 彼女は本気で困惑しているようだった。

「そんなこと――」
「どうでもよくない!」

 僕の言葉は彼女の大声で遮られる。

 はっと驚いて顔を上げると、綾さんは肩で息をしていた。
「どうでもよくなんかないよ」

 彼女はもう一度繰り返す。ああ、そうか。

「知ってる。知ってます」

 彼女も姉のことをずっと背負って生きている。

 宥めるように言った後、僕は自分の心を確かめるように話す。

「……確かに、どうでもいいわけがない」

 それを聞いた彼女の瞳が微かに揺れるのがわかった。

「どうでもよくないんですよね、綾さんにとっては」

 僕も姉の死はずっと抱えている。これからもだ。ただ、彼女の考える彼女の罪はそこにはない。

 彼女は僕の言葉の意味を探っているのか、顔を歪めたまま何も言わない。

「それでいいんじゃないですか? 僕も同じ状況だったらそう思うなんて、言いません。ただ、今綾さんがどうでもよくなんかないと思っているんだったらそうなんでしょう」

 一呼吸おく。

「でも、みんながみんなそう思ってるとは思わないでくださいね」

 言い放ったその言葉は予想以上に冷たかったかもしれない。こういう風な言い方が正しいのかはわからない。ただ、その声に彼女が怯むのがわかった。僕は続けて言う。

「綾さんは自分が姉を傷つけたって考えているんですよね。けど、そう考えてない人もいるんです。というか、それぞれみんな考えることがあるんです」

 だから、今から言うことは、全て僕の勝手な意見だ。その代わり、偽りだけはないと断言できる。もしかしたらこの考え方は一般的には狂っているのかもしれないし、他の人に言ったら非難される内容なのかもしれない。けど、それでも言わずにはいられなかった。

 彼女になら信じて話せる。

「けど、綾さんが死ぬことが姉に対する贖罪になるとは思わないんです」

 僕はずっと自分が彼女のことを気にして彼女のことを知るために動いていると勘違いしていた。彼女の行動に乗っかっただけなのにそんな勘違いをしていた。彼女はそんな僕と違い、ずっと僕のことを知るために動いていた。僕がしたかったことをそのまま彼女がしていたのだ。

 だから彼女も勘違いを、してるかもしれない。

「僕はそう思ってますし、綾さんのせいで姉が死んだなんて、思わないというか思いたくない」

 だから動揺して確かめて安心したのだ。ポケットの中の便箋に触れる。

「僕は綾さんに死んで欲しくない」

 彼女の目が一層大きくなる。しかしすぐに我に返ったみたいに首を振る彼女。

「だとしても! 葉月はそんなこと思ってないよ! 嫌ってる!」

 彼女はため込んだ気持ちを爆発させる。

「最低だって、逃げやがってって! だから私は死ぬべきなの」

 その彼女の表情は抱えているものを見ないようにしてきた自分を見ているかのようだった。

 彼女も自分の気持ちを無理やりごまかそうとしてる。

 彼女に嫌われるつもりで言う。

「本当に、逃げじゃないんですよね」

 核心をつく。

「姉を殺した自分が死んだら、それで終わりだと思ってるんじゃないですよね」

 彼女が息をのむ。

「逃げじゃない! ちゃんと償うために、私はこれから死ぬの」

 依然として荒れている言葉とは裏腹に、彼女の意思が少しだけ緩んだ気がした。

 違う。彼女は、待っていたんじゃないだろうか。この場所からだと、校門のあたりがよく見える。僕の自転車が大きな音を立てて転がった音は確実に聞こえていたはずだ。その時点で飛び降りることもできたはずなのに飛んでいないと言うことは、僕が来るのを待っていた。

 そういうことなんじゃないのか。彼女も、その行動が合っているのかどうか、引っかかるところがあるんじゃないのだろうか。

 全く迷いがないなんて、そんなことはないはずだ。

 彼女の中にほんのちょっとでも迷う気持ちがあるのなら、それを彼女が見て見ないふりしようとしているのならば、まだ。

 首を振る。

「綾さんに死んで欲しくない」

 姉の気持ちを汲み取ろうなんて、そんな殊勝な思考じゃない。二人の自殺を目の当たりにして、その上でも僕は、別に自殺という選択が悪い手段だとは思えない。

 ただ、自分の心の中の感情に、正直に。

 許すのが正解、だとか許せない感情が当たり前、けどそれを抑えないことには仕方ない、そんなふうに意味づけされた行動じゃなくて。

 ただ僕は、もう。

 僕が――これまでにいろんなことを知った僕が、彼女のことを信じた僕が、彼女が死ぬと言う事実をたまらなく許せないだけ。

 綾さんを傷つけないことが、彼女に生きることを選択してもらうことと同意じゃないのではないかと疑っている自分がいて。

 そして、綾さんの親友が自分の姉だと気づいた時に、彼女のことを信じきれなかった自分がいて。

 けど、彼女が姉を傷つけたんじゃないって知って、ほっとした自分が本当で。だから。

「綾さんに死んで欲しくない」

 口から出た自分の声がすっと、身体中になじむような感覚があった。

 いつの間にか耳鳴りが治まっていることに気づく。

 正直、姉の本当の気持ちはわからない。僕がわかるのは、姉が死ぬ直前までずっと綾さんのことを考えていたということだけだ。

 姉が実際どういった経緯でいじめられて自殺したのかもよくわかっていない。綾さんのいじめと姉のいじめが全く関係していないのかどうかは定かじゃない。

 けど。

 自分の中途半端なところ、母の様子、姉と父の死、綾さんの気持ち。中学のクラスメイトや担任。

 全て納得できなくても、でも、考えた上で、納得できなくて当たり前だとちゃんと知れて。

 ずっと何か重いものを背負わないようにしなければと思っていた。けどどれだけ意識を逸らそうとしても、背負わないことなんてできない。だからたぶん、そこにあることをわかった上で、重さを忘れられただけなんだと思う。全てを諦めて、全てを認められた。

「綾さんのおかげで僕は生きますよ」

 手に触れる。

 綾さんが目を見張る。声が聞こえないのだろう。

「そっか、よかった……芳樹くん死なないんだ」
「死なないでください」

 僕は耳に届いた声に対して言う。

「いいや、私は死ぬの」

 依然として首を振り続ける彼女に姉の言葉を渡す。

 彼女は不可解そうにそれを受け取ったが、中に書かれている文字の筆跡でピンときたのだろう。やっぱり敵わない。

 彼女が視線を落としている間に、僕は歩いていく。読み切ったのを確認して、もう一歩、空に近づく。意味がなくてもいい、後少し、もう一息で彼女が僕のことを見てくれる気がした。それで僕の気持ちが彼女に見せられればいい。

 穏やかな表情を作って、彼女に言う。

「今まで、ありがとうございます」
「何してるのよ!」
「落ちるんです」

 端に立っている僕を見て声を荒げる彼女に、極めて冷静に言う。

「何考えてんの! 死なないって言ったでしょ!」

 ほら、そう言う。綾さんは絶対に止めようとする。ただのバイト仲間である僕のためにいつも考えて動いてくれて。

「だめ、戻って」

 もう、彼女の凄さは身に染みてわかっている。

 ねえ、綾さん、もっと考えてください。もうちょっとでいいから考えてください。

 それで良いんだと思う。人が死んでいるのを見て、止めようと思う。僕はそんなふうには思えないんだけど、そういうことだから。

「同じです。僕は綾さんが生きていないことを考えられない」

 これはお願いでしかない。僕は彼女の意思を蔑ろには出来ないから、頼むことしかできない。だから僕は彼女の元へと戻り、深々と頭を下げる。

「だから死なないで。お願いします」
「敬語抜けたね」

 彼女の瞳から涙が溢れる。

「生きてください」
「話聞いてくれないね。今日」
「いや、聞きますよ。けど、今日じゃないです。これからもです」

 彼女が心の拠り所がなくなってそんな勘違いをしているのなら。僕が拠り所になればいい。

「これからも、綾さんが背負っているものを曝け出してもらいます」

 どうして? と悲しそうに首をわずかに傾けた彼女はしばらくして呟いた。

「……しんどいよ」
「大丈夫です」
「重いよ」
「僕はちょっとのことじゃ動じないですから」

 もう、同じ土台に立っている。

「だから、死なないでください」

 綾さんが泣きながら笑う。今までで一番人のことを考えていない美しい笑顔だった。それでいい。

 僕は微笑む。

「一緒に、生きましょう」

 彼女に向かって彼女が無くしていた栞を持った手を伸ばす。

 彼女がその栞を見て、息を吸って吐き、手を伸ばしてくる。

 渡すとき、彼女の手に触れる。

「芳樹くん、本当に今までありがとう」

 少しだけ寂しそうに言ったその言葉の意味は、まだ僕にはわからなかった。


ーーー



 エピローグ

 随分と心地が良い朝を迎える。

 最近、すっかり耳鳴りを感じなくなっていた。最近まで慣れてしまうくらいに耳鳴りに悩まされていたからこそ、それがない生活というのは心地良いことなのだと痛感する。

 いや、それだけじゃないのかもしれない。今日はいい匂いに反応し、自然に目が覚めた。

 自室を出て廊下を進んでいくと、甘いバターの香りが鼻を刺激する。すっきりとした耳には、フライパンが熱される軽快な音が飛び込んできた。

 お母さんがこんな朝早くから料理をしているのは久しぶりだった。

「おはよう」

 少しだけ開いたリビングの扉を開ける。

「おはよう」

 少しだけ恥ずかしそうにそう言う母の挨拶。

「朝ごはん……」

 そこでどう言おうか迷う前に口から言葉が出る。

「いい匂いする。フレンチトースト?」
「……ええ」

 机の上に、皿が四枚並べられてある。その隣に本が置いてあった。僕が買った本。

「芳樹の本、借りてる」
「うん、いいよ」

 すっきり目覚めたおかげで朝ごはんを食べ終えてもまだ時間が余っていた。

 冬季講習期間に入っていたのでいつもと持っていく教材が違う。ただでさえ期末のテストが悪かったから、忘れ物までして本格的に先生に目をつけられてはかなわない。

 変則的な時間割を確認しながら荷物を整理していたら、見覚えのない箱が目に入ってきた。

 見ると、チョコレートの箱だ。リボンが付けられている。

 思い出す。ああそうか、明日はホワイトデーだ。多分部活でも今日はいつもより豪華なものを作るのだろう。

 それにしても。僕は手の中にあるその小洒落た箱を眺める。いつ買ったのだろうか。

 すぐに気がつく。僕はバレンタインの日にプレゼントをもらっていた。彼女のお返しのためにこれを購入していたのだ。

 よかった。忘れていたらとんだ失礼だ。どうしてこんなに大事なものを忘れていたのだろう。

 鞄の中で箱がずれないよう慎重に入れて、ファスナーを閉める。上着を着て自室を出た。



 講習の後、家庭科室でホワイトチョコのケーキと、スノーボールかマフィンを各自作る。

 僕はスノーボールを作った。

 部活が終わって、持って帰るお菓子を詰めてから立ち上がると、ちょうど彼女も家庭科室を出るところだった。

 追いかけて行って、声を掛ける。

 彼女はどこか緊張しているようだった。
 ここだと出てくる人みんなに見られてしまう。僕は彼女を促し、二人並んで校舎を出た。

 いつもならもっと話しかけてきてくれる彼女との間に沈黙が続くせいで、僕もなんだか気まずくなってしまう。その気持ちを振り払うように声をかけた。

「柏井」
「はいっ」

 彼女は少し肩をびくつかせて立ち止まる。

 僕は、鞄の中に手を入れ、中にある箱を探す。その箱に触れた時、僕の手は少し止まってしまう。

「……これ、バレンタインのお返し」

 今、何を迷ったのだろう。

 少し疑問に思いながらも、今朝鞄に入れたそれを取り出し、彼女に渡す。彼女は嬉しそうに受け取ってくれた。

「それじゃあ、また明日」

 彼女が笑顔のまま、早足で帰っていく。

 駐輪場で彼女に追いついてしまわないように、僕は足を緩めた。



 次の日、僕はバイト先の先輩とご飯に行く約束をしていた。少し前、彼女が祖母の四十九日のために休んだ時、バイトのシフトを交代した。そのお礼で彼女が夕食に誘ってくれたのだ。

 僕が先に支度を終えて裏口を出たところで待っていると、綾さんが遅れて現れる。

「お待たせーお疲れー」

 互いに労い合った後、僕たちはレストランに入った。落ち着いた音楽はなんとなく、聴き覚えがあるみたいだった。

「好きなの食べて、今日は私の奢りだから!」
「悪いですよ」
「いいのいいの、お礼なんだから」

 メニューを僕の方に寄せてくれる彼女を見て思う。

 嬉しいけど、バイトを交代したくらいで大袈裟だ。

「デザートも頼んでいいよー、ほら、ケーキもあるよ! 好きなの頼んで」

 彼女はあくまでも全て奢ってくれる気だ。

 閃く。

 そういえば、綾さんは確か昨日マフィンを作っていたはずだ。

 昨日家で食べなくてよかった。

 そんなことを考えていると、僕の顔を覗き込んで楽しそうに笑う彼女が言う。

「私たち、こうやって一緒にご飯食べるのは――あれ」

 首をひねる。

「私……芳樹くん誘ったの、初めてだっけ」