「ノート、いいの?」
「あ、そうだった」
聞かれて本来の目的を思い出した。
最後の授業で座った席の机の中に、わたしのノートを見つける。
取り出して、もう一度彼の方を向いた。
「いつも、みてるの?」
「え?」
「水槽。水族館にいたよね。2週間前の、土曜日」
2週間前......と、彼は少し考えを巡らせる表情を見せていたが、「あぁ」と思い出した様に言った。
「いたね。会った?」
「会ったっていうか、すれ違ったっていうか......」
「2週間前は、殆ど大水槽の前で過ごしてた」
あの日、わたしが水族館を2周してる間、彼はずっとあの水槽の前にいたのか。
何をそんなに見るものがと思うけど、それはちょっと失礼なのかと思い、「好きなんだね、魚」と聞く。
「うん。魚も好きだし、水槽も。まぁ、生き物全般」
「おぉ、博愛主義者だ」
「そんなんじゃねぇけど」
ははっと照れた様に笑う彼の、ちょっとした言葉遣いやその表情は、今まで透明に近かった彼のイメージに色をつけていく。
「今は一応、部活中」
「え?部活?」
「そう、生物部」
「部員、一名」という彼に、今度はわたしがあはっと笑った。
「活動中、お邪魔しました」
「いえ」
「あ、あのさ、名前......」
その瞬間、スマホの音がチリンと鳴る。
画面には、玲奈からの新着LINEが見えた。
カラオケの場所を教えてくれたのだろう。
名前を描こうと思ったのにタイミングを逃してしまった。スマホをポケットにしまい、「それじゃ」と立ち上がったわたしに、「浅野」と彼が言った。
「浅野奏音。2年A組」
あさの、かなと。
口の中でもう一度今聞いた名前を反復していたら、「春日井さん、であってる?」と、今言おうとした自分の名前を告げられた。
「え?なんで名前......」
「ノートに書いてある」
「あ、そっか!」
丁度彼の視線の前に、わたしの持つノートがあった。
もしかしてわたしのこと知ってたのかな、なんて、早とちりした思考が恥ずかしい。
「春日井ひな。2年C組」
改めて名前を告げると、彼、浅倉君は少しだけ口角を上げて言った。
「またいつでも見に来てね、春日井さん」
彼が言うのはきっと、水槽の中にいるウーパールーパーのことだと思うけど。
また会いに来て、と言われた気がして、ほんの少しの高揚感を得る。
わたしは彼のそれよりもう少し口角を上げ、「うん!」と返事をした。
次の日、早速2年A組の教室を覗いてみた。
A組とC組は校舎が離れているのであまり親近感がない。
それでも見知った顔は何人かいて、「あれ、ひなじゃん珍しい!」と声をかけられる。
「やほ!」と返事を返しながら、くるりと教室を見回してみた。
規則正しく並ぶ机の合間に目を滑らせていたが、その人はすぐに見つかった。
教室の後ろの方の席。昼休みの喧騒の中で、机に座って冊子を眺めている。
ここからは何の冊子なのかはわからないけれど、水色の表紙に赤い斑点が見えたので、恐らく金魚関連のものだと思われる。
「浅野!」
喧騒に紛れて呼んでみたら、思いの外すぐにその顔は持ち上がった。
入り口にいるわたしを目にし最初誰だかわかっていない様な表情を見せていたが、やがて思い出してくれた様で、少し驚いた表情を見せる。
わたしはヒラヒラと手を振ってみせ、浅野は少しだけ戸惑いながらも軽く笑っていた。
声をかけてくれた友達は、わたしが浅野と知り合いだったことに目を丸くする。
「ひな、いつの間に浅野君と知り合いになったの?」
「ん?こないだたまたま」
「ひなの交友関係広すぎるよ〜」
「あ、彼氏別れたんだっけ?」とここでもまた、突っ込まれる。
いつも思うけど、こうした情報の流れる速度は流れ星よりも一瞬だ。
「そーなの。誰か紹介して」
「俺なんてどう?優良物件」
「だまれー」
冗談を交わしながら友達と笑い合う中で、ふと視線を浅野に戻す。
彼は何事もなかったかの様に、冊子に視線を戻していた。
何の本?どんなことが書いてあるの?
なんて、聞いてみたかったけど、なんとなく教室の中では憚られる。
放課後生物室を覗いてみよう。
教室の中、2人の間に感じる距離は少しもどかしく、コポコポと鳴る水槽の音を思い出しながら友達と談笑を続けた。