懐かない猫の一途な恋

 梅雨の季節に入ると長雨に憂鬱になる人もいるというけど、私はそうでもない。
 眠気を誘うような雨の音や漂うようなぬるい気温をぼんやりと感じて、雨ですくすく育つ植物を見守っている。
 最近のお気に入りは、中庭の見える休憩室の窓際でガラス越しにあじさいを眺めることだ。
「描かないの?」
 昼休みにその休憩室の窓際であじさいを見ていたら、横から声が割りこんできた。
「私は見る時はひたすら見ることが好き。描く時は描く」
「なるほどね」
 私の横の床に座り込んで、笹本は私の手元にお菓子を落とす。
「でも食べる時は食べなさいよ。はい、今日の分」
「昼はお腹空かないの」
「健康のためだと思って食べなさい。だからそんなに痩せてるんだよ」
 毎週木曜日の昼休みになると、笹本はここに現れる。そして私の横に座って何か食べ物を渡して、話していく。
「雨が続くね。和泉は雨好き?」
 窓の外で降り注ぐ霧のような雨を見やりながら、笹本はゆったりと問う。
「好き。植物がよく育つから」
「ああ、そういえばあじさいが好きって言ってたよね。あじさいを描いた絵もある?」
「あるよ」
「見せて」
 私がスケッチブックを取り出してページをめくると、笹本は少しだけ私の方へ覗き込む。前髪が流れる。
 笹本の髪は癖毛だけど柔らかそう。そんなことを、カロリーメイトをかじりながらちらっと思った。
「和泉の絵は年季入ってるな。デッサンが安定してる」
 感心したように呟いた笹本の言葉に、私は彼の顔を見返す。
「絵は幼稚園の頃から描いてるけど、専門で学んだことはないよ」
「そう? なかなか堂に入ってると思うけどね」
 笹本はスケッチブックを手にとって、大きな目を細める。
「俺も絵を描くのが好きなんだ。演劇サークルに入ってるんだけど、大道具で背景画とか描いたりするんだよ」
「初めて聞いた」
「暇ができたら見においでよ。今月は自信作だから」
 悪戯っぽく笑って、笹本はちょっとだけ首を傾けた。
 毎週木曜日の昼休み、中庭に隣接した休憩室。
 いつもこんな感じで、何か特別な話をするわけじゃない。けど笹本の聞き心地のいい声と相槌に包まれている内に、時間はあっという間に過ぎている。
 薄々と気づいている。
 私がこの時間、この場所で楽しみにしているのは風景じゃなくて、笹本の来訪なんじゃないかと。
「あ、こんにちは」
 笹本は通りかかる生徒で知った顔がいると、逐一挨拶をする。
「ドイツ語だっけ。授業どう?」
「いや、先生が面倒くさくてさ」
 そして短く会話するということを繰り返す。一回の昼休みの間で、だいたい十人くらいだ。
「笹本は誰とでも話すよね」
 何気なく言った私に、笹本はなぜか苦笑を返した。
「よくないって思う」
 私は首を傾げる。笹本は私にはとても真似できないほど人と上手に接する。
「いいことだと思うけど。分け隔てなく人と話せるってことは」
 笹本はあいまいに笑っただけだった。
 私はずっと、友達は葉月だけでいいと思っていた。けど、笹本と話すことは楽しい。
「良くないんだ」
 ぽつりと同じ言葉を繰り返した笹本に、私はやっぱり首を傾げることしかできなかった。






 私の親しい人はほんの一握り。ただ、不定期ながら家を訪ねてくる親戚が二人だけいる。
「それでさ、この部長って肩書きだけは偉いやつがまたスケベでー」
 一人が、芽衣子(めいこ)おばさん。三十三歳の独身で、都内の会社に勤めている。
 放っておけばいくらでも食べるし、実際ふくよかな人だから、最近はお茶請けに甘いものを出すのは控えている。
「新人がまた使えなくてねー。院卒の女子だけど、プライドばっかり高いんだ」
 私が何も言わなくてもひたすら話し続ける人だ。それも話題が基本的に会社の愚痴一色、話も前後してわかりにくい。
「そういえば零ちゃん、学校楽しい?」
「うん」
「そっか。それでこの間プリンターが壊れて」
 けど私はこの叔母が好きだ。両親とも祖父母も離れて暮らしている私を、昔から構って気にかけてくれた人だから。
 特別何かをしてくれるわけじゃないし、彼女もただの暇つぶし程度だとは思うけど、たびたび私を訪ねてくれる貴重な親戚だった。
 私が言葉を挟む間もないままに午後は過ぎて日は落ちる。
 暗くなってきたからカーテンを閉めようとして立ちあがった私の耳に、インターホンの音が届いた。
「おばさん。時間だから、私行かなくちゃ」
 叔母はこの家を訪ねてくるもう一人が誰か知っているから、私がこれから誰と出かけるかを察して露骨に顔をしかめる。
「もうそろそろあいつから離れたら? 金は世話になってるかもしれないけどさ、いちいち会ったり食事することないじゃん」
「おばさんとだって会って食事してるよ」
「私は女だからいいんだよ。零ちゃんは年頃なんだからさ、もうあいつと関わり合いになっちゃ駄目だって。絶対あいつ、光源氏か何かになったつもりでいるんだ」
 年頃になったからだと叔母は説明するけれど、彼女は私が五歳くらいから同じことを言っている。
 あいつに心を許すな。あいつは邪だ。あいつは男なんだと呪うように言い聞かせた。
「伯父と姪がいつまでもべたべたしてたら気持ち悪いって」
 玄関の鍵が開いて、伯父が顔を出す。
「零? どうかしたのか?」
 なかなか私が出て来ないから心配したのだろう。伯父が玄関から上がってきた。
「ごめん、おじさん。今行くから」
「いいよ。時間はあるからゆっくり支度しなさい」
 伯父は私の姿をみとめるとほほえんでソファーにかける。
「あんた、いい加減に零ちゃんから離れなよ」
 険しい顔で伯父の前に芽衣子おばさんが立つ。
「零ちゃんは私とお茶してんの。さっさと出て行きなさいよ」
「ああ、そうだろうね。それでこれから出かけるんだ。そういう約束だからね」
 伯父はうなずいておっとりと返すだけだ。
 叔母は兄である伯父を完全に敵視している。だけど伯父はその敵意に怒ったりしない。
 壁に貼った鉛筆画を見上げて、伯父は目を細める。
 彼はまるで相手にしていない。妹であるはずの叔母を、たまたま居合わせた訪問客程度にしか思っていない。
 私は親代わりである伯父を優先するしかなくて、叔母に短く返した。
「これ持ってって」
 伯父をにらみ続ける叔母にお土産を渡して何とか外に出すと、私は支度を整えて伯父と出かけた。
 イルミネーションの眩しい繁華街を、私は伯父と歩く。どこへ向かうかは、訊かなくてもわかっている。
 途中で、伯父はいつもの花屋に寄って花を一輪買った。
 高級クラブが立ち並ぶ一角に来ると、伯父はその中の青い看板の店に入っていく。私もその後ろに続いた。
 洒落た内装のボックス席に案内されると、伯父はボーイに三人分の食事と指名をした。
「先に食べていなさい」
 まもなく食事が運ばれて来て、伯父は私を促す。
 私は無言で懐石料理を食べ始めた。ここはお酒を飲むお店とは思えないほど食事がおいしい。有名な料亭で修業した板前が調理を担当していると聞いている。
 そんな料理を前にしても、伯父は手をつけずに待っていた。
 熱々で運ばれてきた天ぷらがすっかり冷え切ってしまった頃、個室の扉が開いた。
 現れたのは青い着物が似合う女性だった。実際は三十台の後半だが、少女のような空気をまとう人だ。
(さえ)
 伯父によく似た切れ長の瞳を瞬かせて、彼女……私の母は無言で伯父を見た。
「今週も疲れただろうな。さ、座って」
 伯父は立ちあがって母の手を引くと、ソファーに座らせて自身は隣に座る。
「少し冷めてしまったから、新しい料理を注文しよう」
「いいわ、これで」
 母は首を横に振って、箸を取った。
 黙々と食べ始めた母を、伯父は微笑ましそうに横で頬杖をつきながら見守る。
「冴、最近はどうだ?」
 伯父が母に向ける声は、傍で聞いているだけでも恥ずかしくなるくらい甘い。ふんわりと包み込むようにみつめる。
「体調を崩したりしてないか? 顔色はいいみたいだが」
 母は答えるどころか、ほとんど伯父に反応すらしない。けれど伯父は話しかけ続ける。
 独身の伯父が一番大切にしているのは母だと、幼い頃から知っていた。兄妹というには危ういほど、母を想っていた。
 そんなことは、伯父が母にかける言葉の調子一つでたやすくわかっていた。
 それに対して母が愛着を見せたことはなかった。けれど伯父に対してだけでなく、母は私に対しても全くの無関心だった。
 私は父を知らない。母は私を産んですぐ実家に置いて出て行って、ソープで働いていたらしい。それを伯父はどうやってか探し出した。どうしても夜の仕事がしたいなら止めないが、体を売ることだけは駄目だと説得して今のようなクラブで働くようにさせたそうだ。
 伯父は私を引き取って育ててくれた。だから私にとっては、母よりも伯父の方が親という認識でいる。
 けれど伯父は折につけ、私を連れて母を訪ねた。長い間伯父は私にお母さんだと言うことがなく、母も私に何も言わなかったから、私は母のことを伯父と親しい綺麗なお姉さんだと思っていた。
――零ちゃんを産んだのは冴よ。あいつ、零ちゃんを産み捨てたの。サイテー。
 口汚くはあったが、母を母として、伯父を伯父として教えてくれた叔母には感謝している。
 私は伯父にかわいがられた。母は私に無関心であるが私を傷つけたりはしなかった。
 母は子どもを産んだとは思えないほど華奢で、透明な少女の雰囲気を持ち続ける人で、どうしても嫌いにはなれなかった。
 兄弟のいない私にとって一番近い親戚は、一方通行な三兄妹だった。敵意と好意と無関心を向け合う。三人は決してお互い同じ感情を返しあうことがない。
 それとも感情というのはいつでも一方通行なものなのだろうか。
「独立したいならいつでも資金を出すからな。不動産の手配や人集めも任せてくれていいから」
 だけど伯父は母といる時心から幸せそうだから、私には何も言うことができない。
「大変なら仕事をやめてもいいんだぞ。お前を養うくらいの金はあるんだから」
 たぶん伯父の本音では、母に仕事をやめさせて一緒に暮らしたいのだろう。
「今のままでいいわ」
 母はふいに手を止めて、きっぱりと首を横に振って拒否した。
 伯父は少しだけ苦い表情になって口をつぐむ。
 母は伯父から物を受け取ることについてかなり神経質で、ほとんどを拒否する。今食べている懐石料理だって、後でお金を置いていく。
 予約の時間が残りわずかとなった頃、伯父は優しく言った。
「今日も来てくれてありがとう」
 伯父は買ってきた一輪の花を、そっと母に差しだす。
「冴。私はいつでもお前を応援してる」
 母は何も言わずに、一輪の花を受け取った。
 どんな高価なものより花が好きであること。それは、母と私の共通点だった。








 木曜日になって、私はここのところ毎週そうするように中庭の隣の休憩室に向かって歩いていた。
 昨日、水彩で描いた中庭のあじさいの絵が完成した。いつもは葉月か伯父に真っ先に見せるスケッチブックの絵だけど、今回は少し気が変わった。
 笹本に一番に見せてみたいと思った。毎週ここで笹本と並んで見たあじさいだったから。
 休憩室の扉を開いて、窓際を見やった。
 今日は笹本の方が先に来ていた。私はそちらに足を向けようとして、足を止める。
 笹本は一人じゃなかった。誰かと立って話をしていた。
 別に珍しいことじゃない。笹本はいろんな生徒と分け隔てなく話す。
 ただ、今日の相手は女の子だった。それだけのことに、私は胸の中にもやもやしたものがこみ上げた。
「うん。そうだね」
 いつもの窓際で、私に対するのと同じ優しい相槌をその子にも返した笹本の声が、遠くで聞こえた。
「あ、いず……」
 私に呼びかけようとした笹本から、私は目を逸らしていた。
 笹本に気づかなかったふりをして、一番近かった扉から外に出た。足早にその場を後にする。
 足運びは勝手に加速して、最後は走っていた。
 校舎の裏まで来た時、私の息はすっかり上がっていた。
 息を整えながら空を仰ぐ。
 どうしてこんなことをしたのかわからなかった。笹本がいろんな子と話すのは知っているし、別に悪いことじゃないのに、私はそれを見ていられなかった。
 雨は途切れることなく降り続けていた。青々と茂るあじさいの葉は、それを受けて日に日に成長している気がする。
 結局その日は休憩室に行くことができないまま、私は一人で過ごした。
 ずっと昼ごはんは食べない性分だった私なのに、奇妙にお腹が空いた。







 葉月と休日が重なる日は、私たちはよく一緒にショッピングに出かける。
「れいちゃん、見てみて。これかわいい」
「あ、ほんとだ」
 雑貨や服を見ることは好きだけど、はしゃぐ葉月を見ていることが一番楽しい。
「じゃあ次はあっち」
「うん」
 どんなシンプルな服を着ていても葉月には似合って、何をしていても葉月は絵になる。
 葉月が笑ったら、私も笑う。泣いたら私も泣く。それは私にとっては呼吸をするくらい当たり前のことだ。
「れいちゃん?」
 それなのに葉月が笑っている今日、自然に笑顔が返せないのはなぜだろう。
 久しぶりの一緒の外出なのに、大好きな葉月が楽しそうなのに、いつもほど心が浮き立たない。
「あ、もしかして!」
 私の顔を覗き込もうとした葉月の隣で、高校生くらいの三人組が声を上げた。
「モデルのはーちゃんですか!?」
「うわぁ、すごいすごい本物だ! 雑誌よりかわいい!」
「いつも応援してます!」
 興奮して取り囲むファンの女の子たちに、葉月はにっこりと優雅に笑った。
「ありがとう。嬉しいわ」
 葉月と街で買い物していると、たびたびファンに取り囲まれる。テレビに出るようになってから、その回数はますます増えた。
「あの、よかったら一緒にケーキでも」
 男の子ばかりでなく女の子からお茶に誘われることも多い。
 けれど葉月は私を後ろからきゅっと抱きしめて、私の頭の上に顎を乗せながら悪戯っぽく言った。
「ごめんね。今日はデートなの」
 私の手を取って、葉月はファンの子たちにもう片方の手を振って言う。
「じゃあ、またね」
 私を連れて、葉月は振り返りもせずにその場を後にする。
 葉月がみつけたという小さなカフェに入って、私たちはそこの看板メニューらしいイチゴタルトを注文した。
「れいちゃん、どうかしたの?」
「どうって?」
「何か悩んでるんじゃない?」
 柔らかな風合いの木製のテーブルに、葉月は頬杖をついて私の目を覗き込む。
 濡れたように色鮮やかな黒い瞳に心配が宿っているのを見てとって、私は眉を寄せた。
「ごめん。せっかくの休日なのに」
「私のことはいいの。ねえ、誰かにいじめられたりした?」
 葉月は不快そうに目を細める。
「また叔母さんが変なこと言ったの?」
「叔母さんは私を傷つけたりしないよ」
「そうかな。あの人には悪意を感じるわ」
 叔母のことが葉月は好きじゃない。マンションで居合わせた時など、葉月は彼女のことを汚いものを見る目で見たりする。
「それとも学校で意地悪でもされた?」
 私は首を横に振って、少し考える。
 意地悪されたわけでも暴力を振るわれたわけでもない。ただ、勝手に鈍く胸の奥が痛む。
「分け隔てなく人と話せることは、いいことだよね」
 私は運ばれてきたイチゴタルトに目を落としながら、ぽつぽつと話す。
「社交的なことは、きっといいことで」
 話すことが苦手な私の言葉は、どうにも拙い。
「それを見ていて悲しいって思う私は、変だよね」
 葉月は私の言葉を聞いていて、ふいに苦笑した。
「そっか。れいちゃんは、好きな人ができたんだね」
「え?」
 私は葉月の言葉がわからなくて、首を傾げて言う。
「違うの。時々話すだけの子だもの」
「でも、好きなのは間違いないんだと思う」
 葉月は長い睫毛を伏せて、思案するように口元に指を置いた。
「社交的って、他人ならいいことね。でも好きな人が自分以外の誰かと親しく話しているのを見るのは、胸が痛む。全然変なことじゃないわ。誰でもそうなることよ」
「葉月も?」
「私?」
 桜色の唇に指を当てながら、葉月は私を見やった。私はそっと尋ねる。
「彼氏が自分以外の女の子と話してたら、胸が痛む?」
 葉月は表情を消して少し考えた。
 私の問いに葉月は答えず、コーヒーに口をつけて独り言のように言う。
「苦いわね」
 葉月はイチゴタルトに手を伸ばす。
「私は甘い方がいいわ」
 久しぶりに晴れ渡った日の昼下がりのことだった。







 次の週の木曜日も、私は休憩室に行かなかった。
 笹本が来るかどうかもわからなかったけれど、顔を合わせたら何か余計なことを言いそうで嫌だった。
 親友の彼氏に好意なんて持ちたくない。もしそれをどこかで葉月が知ったりしたら、彼女を傷つけてしまう。
 それならいっそのこと、もう中庭に行かなければいいと思った。話さなければいい。クラスが一緒なだけなのだから、いろんな人と親しい笹本ならすぐに私のことなど忘れる。
 梅雨もそろそろ終わりだった。鮮やかに咲き誇っていたあじさいも、雨が途切れれば自然とその華やいだ時を終える。
 休憩室に行くのはやめて、私は銅像の横で絵を描いていた。絵を描く時のお気に入りの場所だ。
 傘をさして芝生の上に座りながら、いろんな場所で目に焼き付けた風景や花をスケッチブックに再現していく。
「なぁ、なんで絵ばっかり描いてるんだ?」
 ふいに声が上から降りかかった。知らない男の声だった。
 時々私に声をかけてくる人がいる。雨の中でもひたすら絵を描いている私は、彼らにとってみれば変なのだから。
「おい。質問してるんだから答えるくらいしろよ。失礼な奴だな」
「失礼な奴はそっちだ」
 私は目を上げて淡々と返す。
「ただ質問をしているのか、馬鹿にするつもりで声をかけてきたかくらいの区別はつく」
 息を飲んだ男に、私は言い捨てる。
「そこをどいて。邪魔だから」
 それで大抵の男は捨て台詞と共にどこかに去る。
 だけど、今回の男はもう少し意地が悪かったらしい。
「見せてくれ」
 スケッチブックに手をかけられた。私は反射的にそれにしがみつく。
 私の飛び付いた勢いが大きかったのか、それとも男の力の方が勝ったのかはわからないけれど、何にせよ私たちの力の均衡が悪かったらしい。
 スケッチブックが宙に舞って、音を立てて水たまりに落ちた。
 ……あじさいの絵、まだ誰にも見せてなかったのに。
 あっけないほど一瞬の出来事に呆然となって、悲しみが静かに押し寄せてきた。
 立ち上がって踵を返した私に、男が声を上げる。
「待て。怒るくらいしろよ!」
「男の子に意地悪されるのは慣れてる」
 とにかくその場を離れようとした私の耳に、雨の中を駆ける足音が届いた。
「和泉」
 男の子にしては少し高くて柔らかい響きの声が私を呼んだ。
 傘をさしかけられて、私は自分が雨にぬれていたことを遅れて気づく。
「風邪ひくよ」
 目を上げたそこには、困ったなという顔をして笹本が立っていた。
 笹本はスポーツタオルを私の頭から被せて、それをわしゃわしゃと上から動かした。
「いい、これくらい」
「良くない」
 男の子の言うことなんて聞かない私なのに、笹本に言われると大人しく従ってしまうのはなぜだろう。
 笹本は私の頭にタオルをかぶせたまま、傘を私に渡して自分は傘の外に出た。
「あーあ。半分水に浸かってる」
 スケッチブックを拾い上げて眉を寄せてから、笹本は言う。
「でもすぐ乾かせば何とかなる絵もあるよ。大事なものなんだから簡単に捨てないでちゃんと拾いなさい。ね?」
 指を立てて言い聞かせる笹本に、私はこくんとうなずいていた。
 胸に満ちた感情の名前は知らなかったけど、とても温かいものであることは確かだった。
「ありがとう」
 その感情のままに笑ったら、笹本も笑い返してくれた。
 笹本は振り返ってスケッチブックを取り上げようとした男を見た。
「伊吹、謝りな」
 正直なところ、私は笹本がスケッチブックを拾ってくれたことだけが嬉しくて、それを落とした男に対しては怒りも悔しさも持っていなかった。
 私はそこで初めてそいつの姿を見た。
 肩幅の広い、背の高い男だった。真っ直ぐな黒髪をしていて、少し灰色がかった色合いの瞳を持っていた。
 中性的で優しげな笹本とは正反対の、きつそうで威圧感のある男。
 こういう男っぽい男は、苦手だと思った。
「見せてくれと頼んだだろう」
「見せたくない」
 私は跳ね除けるように言い返す。男は目を見張って、にらみ返してきた。
 感情を抱かなかったというのは、少し嘘になった。彼も今まで会った男の子たちと違う空気をまとっていて、私は居心地が悪かった。
「こんな奴を相手にすることない。行こう、笹本」
 笹本に声をかけて、私は足早にその場を後にした。
 校舎の中に入って男の視界から出たところで、笹本が立ち止まって顔を伏せた。
「笹本?」
 ふいに笹本は腹を抱えて笑いだす。
 私がきょとんとして首を傾げると、笹本は目尻にたまった涙を拭いながら私を見下ろす。
「あの伊吹にあんな顔させるなんて。和泉はすごいな、ほんと」
「どういうこと?」
「伊吹はたぶん、あんな風に女の子に拒絶されるのは初めてだったよ」
 笹本はまだ笑いながら言う。
 笹本の言っていることがまだよく理解できないでいる私に、笹本はふと笑みを収めて言った。
「ああ、ごめんごめん。雨に濡れちゃっただろ。ジャージ貸すからうちのサークル部屋までおいでよ」
「大丈夫だよ、これくらい」
「すぐそこだから。ドライヤーもあって、スケッチブックも乾かせるよ。まだ昼休みあるから、ついておいで」
 笹本はあっさりと私の抵抗を収めて、先に立って歩き出した。
 笹本の所属するサークル部屋で、私は笹本にジャージを渡された。
「紐締めれば腰で止まるはず。上は羽織ってチャック上げときな。濡れた服は乾燥機にかけるよ」
 カーテンを閉めると、笹本と区切られた空間ができた。私はぎこちなく、そろそろとジャージに足を通す。
 笹本はカーテンの向こうで、スケッチブックをドライヤーで乾かし始めたようだった。電動音が聞こえてくる。
「和泉。これは独り言みたいなものだから、答えてくれなくていいけど」
 着替えている私の耳に、笹本の静かな声が届いた。
「避けてたよね、俺のこと」
 私たち以外誰もいない、がらんとした広いサークル部屋に、笹本の声は溶けるように響いた。
「俺、今すごくうれしいんだ。誰かから逃げる言い訳でいい。和泉がもう一回俺の方見てくれたから」
 少しだけ自嘲的に笹本は笑う。
「好きだよ。和泉」
 カーテンごしに、笹本が言うのが聞こえた。
 笹本には彼女がいるじゃない。それも、皆がうらやむように綺麗な女の子なのに。
 どうして? これは冗談?
 笹本の言葉がはかれなくて、私は答えることができずにいた。 
 外はまだ途切れることのない雨が降り続いていて、あじさいが次々と花を咲かせているのだろう。
「雨、やまないね」
 笹本がつぶやいたのを最後に、私たちは黙り込んだ。
 雨音とドライヤーの音が重なり合って、鈍く漂っていた。
 前期の期末テストが終わって、夏休み。
 講義はないけれど、私はほとんど毎日大学に通っていた。
 すれ違う先輩方に挨拶をしながら、私はサークル部屋に向かっていた。
 先月から、私は笹本に誘われてアースという演劇サークルに入った。
――絵、いっぱい描けて楽しいよ。手が足らないから大歓迎。
 アースは戦前から続く有名なサークルで役者の競争が激しい反面、裏方が不足しているらしい。笹本はそこで専属大道具係として背景画を描いているらしかった。
 入部はためらった。雨の日の笹本の一言がひっかかっていて、また二人きりになったらどうしようとも思った。
 でもそこに笹本がいると思うと、私は今日もサークルに来てしまう。
「おはよう、和泉」
 倉庫代わりに使っている奥の部屋に入ると、笹本はもう来ていた。脚立を使って背景画にペンキで色をつけていた。
「さっそくだけど、その辺から色塗って」
 私は図面を見ながら下の方の色塗りを始める。
 サークルの大多数は講堂や体育館で演劇の練習をしているから、部屋には笹本と私しかいない。
「今日は何時くらいまでいられそう?」
「昨日と同じ。夕食くらいまでは」
「そっか。俺も今日は一日いけるから一緒にがんばろう」
 室内には、時々笹本と交わす言葉くらい。窓の外は木々で覆われていて、窓を閉めていても賑やかに蝉の声が聞こえていた。
「和泉、そこはもうちょっと色濃くして。客席から見ると淡く見えるから」
「わかった」
 シーン設定は決まっているけど、細かい絵柄は大道具係に任せられている。この絵も笹本と私で相談して図案を作ったものだった。
 絵を描くのはもちろん嬉しい。けど、笹本とほとんど毎日会えることはもっと嬉しいと思っている私がいる。
「よし、そろそろ休憩」
 笹本は腰に手を当ててにっこりと笑う。
 あの日以来こうして二人きりになるのは数えきれなくなったけど、私たちはあの日のことに一度も触れなかった。
 黙々と作業を続けると時間は飛ぶように過ぎていって、あっという間に昼近くになっている。
「うちのサークルは演技については熱心だけど、裏方にはあんまり力が入ってないんだよな」
 ひと段落ついて話しかけてきた笹本に、私もうなずく。
「衣装も音響も委託だもんね。デザイン部とか音楽サークルとかに」
 笹本は伸びをしながら返した。
「まあ専門技術を持ってるサークルに任せた方がいいものはできるかもしれないけどな。演劇は役者だけじゃなくて、裏方も合わせて一つの舞台を作るものだと思う」
 ふと笹本は苦笑する。
「なんて言ってると、役者でもない奴が何言ってるんだって馬鹿にされるだろうけど。伊吹に」
 一度だけ笹本が舞台に立つのを見た。たまたまその日不在にしている役者が多くて、笹本は主役の親友役を代役でつとめた。
 笹本、演技上手だ。私が率直に抱いた感想はそうだった。
 裏方だけじゃなくて、役者もできそうなのに。思わず幕の裏から食い入るように見ていたら、変なことが起こった。
 笹本はくすっと笑って私を見る。
「和泉が見てたら意地でも俺より目立つだろうし」
 あの冷たい長身の嫌な男、伊吹は演技だけは上手かった。笹本と一緒の舞台で悪役を見事に演じきって、笹本以上の喝采を受けたのだ。
 笑いを含んだ声に、私は顔を上げて笹本を見る。
「笹本」
「うん?」
「あいつ、訳がわからない」
 顔を笹本に向けながらも目を逸らして、私は眉を寄せる。
「和泉粘るなぁ。伊吹はあれだけはっきり態度で言ってるのに」
 くすくすと笑って、笹本は言葉を落とす。
「……和泉が好きなんだよ」
 扉が開く音が聞こえて、私は先輩だと思いながら振り返る。
「あら、そろそろ完成ね」
「藤原さん」
 入ってきたのはサークルの一年生の藤原(ふじわら)さんだった。華やかな美人で、あまり話すのが得意でない私にも声をかけてくれる、気さくな子だ。
「……と」
「先輩がそろそろ昼だから下りてくるようにと」
 伊吹も一緒だった。すぐ側に立って、威圧感のある長身から私を見下ろしていた。
 私はぷいと顔を背けて先に歩こうとするけど、伊吹とは歩幅が違いすぎてすぐに追いつかれる。
 諦めて速度を緩めると、伊吹は隣に並んだ。特に何かを言ってくることもない。ただ、視線を感じる。
「今はどこのバイトしてるの?」
 藤原さんは笹本と、ゆっくり後ろからついてくる。
「コンビニと居酒屋。やっぱ深夜の方が時給いいんだよね」
「相変わらず崩れた生活してるわね、優希」
 彼女は笹本と子どもの頃からの付き合いらしくて、他の女の子に比べても親しげだ。
 もちろん私にとっては葉月が一番だけど、藤原さんは素直にかわいいと思う。愛想もいいし、サークルの男の子たちに人気なのもわかる。
「あれ、心配してくれてる?」
「まさか。過労してかっこ悪くなって、彼女に嫌われなさい」
「そうくるか」
 でも、笹本と親しく話せるのはうらやましいな。そう思いながら、私はずっと後ろに意識を向けていた。
「……呼ばないんだな」
 笹本たちからだいぶ離れたところで、伊吹が低い声で言ってきた。唐突だったから、私はそれが私に向けられたとは気付かなかった。
「下の名前で」
「失礼じゃないか」
「女子はけっこう呼んでるぞ」
 私も、彼がサークルの女の子たちにゆうちゃんとか優希君とか呼ばれているのは知っている。
「私は笹本でいい」
「ふうん」
 名前で呼ぶのは勇気が要る。男の子どころか女の子と親しくなったこともほとんどない私には、とてもそんなことはできない。
 どうしてこいつは私が気にしていることを言うんだろう。私が憮然としながら顔を上げると、伊吹と目が合った。
「ま、そうだな」
 口の端だけ上げて、伊吹はくっと笑う。
「彼女がいるって公言しながらいろんな女に愛想を振りまく奴に、好意を持つだけ損ってもんだ」
「笹本は優しいんだ」
「それは優しいとは言わない」
 突っかかる私を愉快そうに見下ろしながら、伊吹は揶揄するように言う。
「八方美人って言うんだよ。ああ、浮気の方が近いか?」
 私は笹本を馬鹿にされたことに、目を怒らせて言い捨てる。
「人を貶めることしか頭にないのか」
「お前は笹本を持ち上げることしか頭にないな」
「友達なんだから庇うのは当たり前だろ」
 私は足を速めて先に進む。けれどやはり簡単に追いつかれる。
「なんでついてくるんだ」
「行き先が同じだろ」
「ならもっと後ろを歩け」
「笹本とか? 冗談じゃない」
「じゃあ一人で歩け」
 顔を背ける私に、伊吹はふいに一瞬黙る。
「和泉」
 こうなったら無視しようと私が答えずにいたら、伊吹はぽつりと言った。
「昼飯食いに行こう、一緒に」
「なんでだ」
 夏休みに入ってから何度か言われた言葉に、私は怪訝な顔をして返す。
「取り巻きの女の子とでも行ってこればいいじゃないか」
 伊吹は女の子たちに大人気だ。確かに整った顔立ちをしているし、演技が抜群にうまい。性格は悪いけど。
「俺はお前を誘いたいんだ」
「だから、なんでだ」
「そんなこと、理由は一つだろ」
 私をからかいたいのか。絵ばっかり描いている変な子だと、昔から男の子にいじめられてきたから慣れている。
「ふうん。私が好きなのか」
 けれど意地悪心を出して、私はそう言ってみた。
 そんなはずはないとわかっている。私は無愛想だし、やせっぽっちで顔立ちも平凡。かわいくない自覚くらいある。
 伊吹は虚をつかれたように灰色の目を軽く見開いて黙った。
「そう言われたくないなら私に絡むな」
 私を好きになる男の子なんて、いるわけがないのだ。
「男の子は葉月や藤原さんみたいな子が好きだって、わかってるんだから」
 何気なく言い放つと、伊吹は眉をひそめた。
「俺を笹本と一緒にするなよ」
 怒ったように伊吹は少し早口で言う。
「俺を嫌うなら、ちゃんと俺のこと知ってから嫌え」
 伊吹はそう告げて、不機嫌そうに目を細めた。
 伊吹は嫌なことばかり言う。ちっとも優しくない。私の理想の男性像である伯父から完全にかけ離れた、関わり合いになりたくない男だ。
「日曜日は? 夏祭りがあるだろ」
「お前となんて、嫌に決まってる」
 だけど何度冷たくしても私に話しかけてくる、変な奴だった。

 
 
 
 

 日曜日には、家の近くで夏祭りがある。私は毎年、それに葉月と一緒に出かけていた。物心つく前から続く恒例行事だ。
「いつも私まで揃えてもらってすみません」
 その祭りのための浴衣を、伯父は毎年私と葉月に買ってくれることになっていた。
 祭りまで二日に迫った金曜日の夜、私は伯父の家で、葉月と一緒に浴衣を見ていた。
「感謝してるのはこっちだよ。独身男の道楽につきあってくれて」
「いえ、そんな。ありがとうございます。今年は雅人さんも一緒に来られそうですか?」
 幼い頃は伯父が私たちを連れて、三人でいろんな所に出かけたものだ。動物園、水族館、植物園、美術館。数えてもきりがない。
「いや、保護者が必要な年でもないからね。二人で楽しんでおいで」
 伯父は私と仲良くしてくれる葉月をかわいがっていて、葉月も伯父に懐いていた。だから成長した今でも、葉月は伯父の家を訪ねて私と一緒に過ごすことが多い。
 外は夏の日差しが照りつける。けれど、この家の中の住人には暑苦しい様子などみじんもない。
 伯父は涼やかな青いカッターシャツを着て、優雅に紅茶を飲んでいる。
 その向かい側のソファーで、葉月は軽やかな笑い声を立てながら伯父と話している。
 そして私は葉月の背中にもたれながら、スケッチブックに絵を描いている。これがいつもの定位置で、心から安らげる私の居場所だった。
「そういえば葉月ちゃん、今度ドラマに出るんだってね」
「はい。あ、今日特集の雑誌持ってきたんですけど」
「どれどれ」
 子役時代から葉月を応援してきた伯父は、葉月が開いたページを興味深そうに見下ろす。
「彼が相手役の俳優さん?」
「そうなんです。彼と共演できるって知ってすごく驚きました」
「ああ、有名だね。伊吹竜也君」
 ……伊吹?
 私はスケッチブックに走らせる手を止めた。
「へぇ。写真で見てもなかなかいい男だね」
 私は立ちあがって、感心したように呟く伯父の横から雑誌を覗き込んだ。
 見た者に冷たい印象を抱かせる怜悧な顔立ちには覚えがあった。
「あいつだ」
 灰色がかった鋭い目を雑誌の上から見て、私はぼそりと呟く。それに、伯父と葉月は目を上げて私を見た。
「伊吹。サークルで一緒なの。嫌な奴」
「どんな風に?」
 伯父の問いかけに、私は眉を寄せる。
「私に嫌なことばっかり言う」
「嫌なことって?」
 今度は葉月が問いかけてくる。私は少し考えたけどうまくまとまらなくて、覚えていることを口にした。
「一緒に昼ごはんを食べようとか」
「別に悪いことじゃないんじゃない?」
「夏祭りに行こうとか」
「二人で?」
「うん」
「あら。私、伊吹君ファンになっちゃうかも」
 葉月がころころと笑うので、私は顔をしかめる。
「なんで?」
「れいちゃんの良さがわかる男ってことだもの。いい目してるじゃない」
「そんなことない。あいつは私をからかって」
「それだったら許せないな」
 伯父は少し目を細めて雑誌に視線を落とす。
「まあそうじゃなくても私は気にいらないが」
「雅人さんは、れいちゃんに寄って来る男の子はみんな気にいらないでしょう」
 くすくすと笑う葉月に、伯父は降参とばかりに苦笑を浮かべる。
「そりゃあね。娘を持つ父親なら誰だってそう思うんじゃないかな」
「でも受け入れなきゃ。それを乗り越えてくるのが彼氏ってものですよ」
「ちょっと、葉月」
 私はむくれながら葉月に詰め寄る。
「彼氏とか絶対ない。あいつは嫌な奴。それだけだよ」
 その時、私の携帯が鳴った。私はバッグの中からそれを取り出して、着信先を見る。
 サークルの固定電話からだった。私は先輩か……もしかしたら笹本かもしれないと思いながら通話に出る。
「はい。和泉です」
 部屋の隅に向かいながら何気なく言ったら、笹本や伯父より遥かに低い声が返ってきた。
「伊吹だ」
 瞬間、私は通話を切ろうとボタンを探した。けれど用件も聞かずに切るのは大人げないと思って何とか踏みとどまる。
「何か用?」
「明後日の夏祭りのことだが」
「サークルと関係ないことなら固定電話を使うな、伊吹」
「お前、たぶん知らない番号から電話に出ない性質だろ」
 私は咄嗟に言葉が返せなかった。
「で、二人が嫌なら、友達も一緒で行かないか? 俺の方は兄貴でも連れていくから」
「私は友達と行くんだ。お前となんて行く気ない」
「せめて友達に訊いてみたらどうだ? 俺は自分が見世物になることは知ってる。お前の友達なら多少は愛想よくするぞ」
「その自信はどこから来るんだ」
「事実からだ」
 抉るような低音ではっきりと言い切る。
 思わず絶句した私の手から、携帯が抜けた。
「もしもし、れいちゃんの友達の葉月ですけど。伊吹君?」
 見上げると、葉月が私の頭の上に顎を置きながら楽しそうに携帯を持っていた。
「ああ、一緒にね……。いいですよ、私は」
「葉月!」
 あっさりと承諾しそうになった葉月から携帯を奪い返して、私は通話口に言葉を投げつける。
「とにかく、お前となんか行かない!」
 通話を切って電源まで落とすと、私は葉月を睨みつけて言う。
「なんで了解しようとしたの、葉月」
「だって伊吹君、一生懸命じゃない。あのプライドの高い彼が、友達と一緒でもいいかられいちゃんと行きたいって言ってるのよ?」
「葉月は……」
 私は少し肩を落とす。
「私だけじゃ楽しくないの……?」
 かっこいい伯父も華やかな男の子も一緒じゃないし、いい加減幼馴染とだけの夏祭りも飽きてきたのだろうか。
 葉月は私の肩を抱いてぽんぽんと叩いた。
「まさか。そんなわけないじゃない」
 葉月は私の首に腕を回して、後ろから抱きついた。
「ごめんね。からかいすぎた」
 葉月の意地悪には少しも悪意がないことを知っているから、私はすぐに許せる。
 心地よい安息の空間に訪れた一瞬の波紋も、固定席の葉月の隣に戻ればすぐに元に戻った。
 私は葉月の背中の温もりを感じながら、学校に咲くひまわりをスケッチブックに写し取っていた。







 夏祭りの前日の土曜日のことだった。
 私はサークルの大道具部屋にスケッチブックを置いてきたことを思い出して、一旦帰りかけたところで引き返した。
「あった」
 カーテンが閉まっていて少し視界は悪いけれど電気をつけるほどでもない。そんな薄闇の中でスケッチブックを見つけ出して、私はそれをバッグに仕舞う。
「……あ」
 そこで、部屋の隅で笹本が寝転がっていることに気付いた。
「また寝てる」
 サークルをめいっぱいやりながら深夜のバイトに励んでいるらしい笹本は、時々こうして部屋の隅で寝ていることがあった。
 私はそういう時にいつもするように、何かの小道具だったらしいタオルケットを笹本にかけることにしていた。
 枕元に座って、私はタオルケットをかけようとして手を止める。
 睫毛が長いし、色も白い方だと思う。けど骨格や眉の辺りが女の子とは違う。中性的ではあるけど、やっぱり男の子だ。
 私がずっと嫌いだったはずの「男の子」。でも男の子であるはずの笹本は少しも嫌いじゃない。その単純で矛盾した命題に、私は未だに困惑する。
 蝉の音も静まってきた宵の刻だった。
 私は少しの間笹本の顔をじっとみつめたまま動かなかった。
 はっと気づいて私はタオルケットをかけようと屈みこむ。
 そこで、ぐいと引っ張られた。
「……おかえり」
 一瞬の出来事だった。笹本は私の首にぐるりと腕を回して抱きついていた。
「早かったね。ねえ、聞いてよ。今日俺さ……」
 甘えるような声を出して、笹本は楽しそうに言ってくる。
 だけど私は目を白黒させていた。笹本の体温が顔に直接触れて、声がいつもよりずっと近くで聞こえる。
 そして笹本の力は思っていたよりずっと強くて、体を起こそうにもびくりとも動かなかったのだ。
「笹本、痛い」
 私がぼそりと呟くと、笹本は言葉を止める。
「え?」
 腕を少し緩めて私を覗き込んで、そこでばっと飛び退いた。
「い、和泉! うわごめん!」
 早口で一気に言って、笹本は頭を下げる。
「仕方ないよ。疲れてたみたいだし、暗かったしね」
 私も少し早口になりながら言葉を返すと、笹本は頭をさらに低くしてついに床につけた。
「どうしよう……恥ずかしくて死にそう」
 笹本は頭を両手でくしゃくしゃにしながらうめくように呟く。
「……叔母さんなんだ」
「叔母さん? 彼女じゃなくて?」
「彼女にこんな恥ずかしいこと言わない」
 笹本は焦ったように言ってから、しまったというようにまた顔を伏せる。
「うー……うん。俺とずっと一緒に暮らしてきた叔母さん、に間違えた」
 意外な言葉に私が目を瞬かせると、笹本は顔を手で覆いながら恥ずかしそうに頷く。
「今は別に暮らしてるけど。子どもの頃は、叔母さんと結婚するみたいなことけっこう言ってて。あー……さっきみたいなこと、よくしてた」
「そうなんだ」
「呆れたよね」
 私は首を傾げる。
「なんで?」
「だって俺、マザコンのガキじゃん」
 笹本は深くため息をつく。
「こんなんだから、彼女にも愛想つかされてるんだろうな……」
「はーちゃんに?」
 私の言葉に、笹本は目を上げて首を横に振る。
「いや、彼女ははーちゃんに似てるってだけで」
「笹本の彼女は葉月……ちゃんだよ」
 私ははっきりと言い切る。
「私、本人を知ってるからわかるんだ」
 たった一度見せてもらった写真であっても、私が葉月を見間違えるはずがない。幼い頃からみつめてきた、葉月なのだから。
 自信を持って私が頷くと、笹本は少し黙った後苦笑した。
「参ったなぁ。うん、確かに本人なんだ」
 笹本は困ったようにちょっと眉を寄せた。
「俺と付き合ってること、周りに知られたくないらしくて。写真も見せるなって言われてるんだけどね。でも隠されると、かえって反抗心もわいて」
 笹本は照れたように笑ってから、頭を押さえた。
「……葉月には、他に好きな男がいるみたいなんだ」
「え?」
 笹本は聞いたこともないしぼんだ声で言った。
「仕方ない。俺、釣り合ってないから」
「どうして?」
「顔とか地味だし、背も低いし、子どもの頃一緒の劇団にいただけで、今は葉月の方がずっとまぶしい世界にいるし」
 言いながら落ち込んできたようで、笹本は目をかげらせる。
「伊吹みたいな男が、葉月には合ってる。あいつを見るたびにそう思うんだ」
「やめて!」
 私はすごい勢いで首を横に振った。
「絶対嫌。葉月にあんなの掛け合わせないで」
「掛け合わせ……って」
「笹本の方が絶対いい」
 しかめ面で私は笹本に言う。
「笹本の方がかっこいいよ。笹本の方が優しい。楽しい。きっと葉月だってそう思ってる」
 笹本は苦笑して、目を押さえた。
「和泉はまったく……」
 小さく呟いてから、笹本はにこりといつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「ううん、ありがとう。ちょっと元気出た」
「そっか。よかった」
 私は笑い返して言う。
「葉月を大事にして、笹本。できるなら叔母さんより好きになって」
 笹本は目を細めて少し黙る。
「だよな。この年で叔母さんが大好きなんておかしいよな、俺」
「そんなに変かな。私だって……」
 私は焦って、よく考えないまま笹本の首に腕を回していた。
「いつも伯父さんに、こうやって」
 ぎゅっと笹本がやったように抱きしめたら、笹本が息を呑む気配がした。
「あ、ごめ……」
 自分がしたことに遅れて気づいて腕をほどこうとしたら、扉が開く音が聞こえた。
 振り向くと、長身痩躯から伊吹がこちらを見下ろしていた。
 扉が閉まって、沈黙が少しの間あった。
「何やってんだ、お前ら」
 扉が再び開いて、抑えた声で伊吹が言う。けれどその目つきは射抜くように鋭かった。
「大した意味はなくて……」
 彼女がいる笹本に変な噂をたてられたらいけないと、咄嗟に私が言いわけしようとしたら、あろうことか笹本は私を引き寄せていた。
「え」
「プレゼントもらったんだ。俺、誕生日だから」
 次の瞬間、私は笹本の腕の中に収まっていた。頭の上に、笹本の体温を感じた。
「いいだろ、伊吹?」
 悪戯っぽく首を傾けた笹本を伊吹は腹立たしげに睨みつけて、踵を返す。
「俺も大人げないね」
 伊吹の足音が遠ざかるのを聞きながら、笹本は腕をほどく。
「伊吹を見ると反射的に意地悪したくなる」
 そう言ってから、笹本はくすりと笑う。
「でも和泉にも意地悪したくなったんだ」
 笹本は私から体を離して付け加える。
「大丈夫。伊吹は噂とか流すタイプじゃないから」
「それは、うん……」
 私は動悸の収まらない胸をおさえながら、笹本の顔も見れずに俯く。
「そうだな。言っておくか迷うけど、言うか」
 一瞬、笹本の声がいつもの数倍低く感じた。
「……俺も男なんだってわかってる?」
 私が思わず息を呑んで顔を上げた。
「なんて、ごめんね。突然変なことしちゃって」
 だけどそこにあったのは、いつもの笹本の穏やかで優しげな顔。
「和泉も今日、誕生日だよね」
 いつ話したっけ。そう疑問に思って首を傾げたら、笹本は私の手にクッキーの箱を落とした。
「で、これはささやかながらお祝い。誕生日おめでとう、和泉」
 笹本は立ち上がって時計を見下ろす。
「うわ、バイト遅れる」
 私は顔を上げて、すっかり闇に沈んだ部屋の中で笹本を見上げる。
 たぶん私は、この人のことが好きなんだろう。
 気づかなかった方がよかったのかもしれないけど、そう思った。
 日曜日の昼、私も伯父と葉月に誕生日祝いをしてもらった。
 私の大好物をたくさん伯父が作ってくれて、葉月は私のお気に入りのケーキを買ってきてくれた。
 物心つく前からの、私の誕生日の風景だった。両親も兄弟もいないような私だけど、いつでも私の隣には伯父と葉月がいて、今年もそれは変わらなかった。
「あ、そろそろ始まるね」
 ただ今年は恒例の夏祭りの日が重なったから、誕生日会は夕方で切り上げた。
 葉月と二人、伯父に買ってもらった浴衣を着て出かける。小さくて浴衣に着られてしまう私と違って、葉月は堂々としていてナチュラルメイクでも着物がよく映えた。
「ねえ、葉月」
 私は伯父のマンションを出て少し歩いたところで、葉月にそっと言った。
「今年は彼氏と一緒に行ってきたらどう?」
「どうしたの、突然」
 葉月は笑って私の手を握り直す。それに、私は神妙に言葉を重ねた。
「私とならいつでも行けるから」
「れいちゃんとなら何度でも行きたいな、私」
「えと……」
 私は迷いながら、考えてきた言葉を口にする。
「今年は私……別の友達と行こうかと思って」
 葉月は迷うように口をつぐむ。
 それから彼女はくすりと笑って、首を傾けた。
「伊吹君?」
「ち、違うよ。なんであいつとなんか」
「ふーん」
 葉月は信じていないようで、悪戯っぽく頷いた。
「まあ確かに、男の子と一緒に行くなんて言ったら雅人さんが邪魔したでしょうね。うん、それなら私と一緒に行ったってことにしときましょ」
「うー……」
 不本意だけど、他に相手も思いつかないから伊吹ということにしておくしかないのだろう。
 私は顔を上げて、じっと葉月をみつめる。
「葉月。彼氏と行ってね」
 念をおした私に、葉月は苦笑する。
「私の彼氏にれいちゃんが遠慮することないのに。でも今日は誘われてもいたから、行ってくるわ。せっかく浴衣着たしね」
「うん。きっと喜ぶよ。葉月が一番きれいだもん」
「でも伊吹君にはれいちゃんが一番ね」
 憮然とする私に、葉月はくすくすと笑った。
 それから私たちは駅で別れた。葉月は彼氏の家に寄っていくと言って、私は大学に向かった。
 一人で夏祭りに行っても仕方ないし、サークル部屋に行って絵の続きでも描こうかと思ったのだ。
 時計塔の前を通りかかったら、ちょうど五時だった。これから恋人同士で夏祭りに行くためか、待ち合わせをしている人でいっぱいだ。
「じゃあね」
 その中で彼女らしき人と別れてサークル棟に足を向けた男の人がいた。どこかで見たことがあるから、たぶん先輩だろう。
 これから出かける人たちの中で珍しいな。そんなことをぼんやりと思いながら、私もサークル棟に入っていく。
 今日は日曜日だし、いくら何でも誰もいないだろう。そう思ってサークル部屋の扉を開いたら、意外なことに人がいた。
「あ」
 その内の一人は伊吹だった。
 認めたくないけど伊吹はどこにいても目立つ。背が高いし異質な空気をまとっているからすぐに目がそちらにいく。
 伊吹は私をみとめるなり少し驚いたように灰色の目を見開いて、ついで何か言おうと口を開いた。
「わぁ、和泉ちゃん来てくれたの?」
 その前に声を上げて私の前に立ったのは、先ほど見かけた先輩だった。茶髪で垂れ目の愛嬌のある顔立ちの男の人だ。
「あ、俺、竜也のお兄ちゃんなんだよ。よろしく、和泉ちゃん」
 先輩はにこにこしながら優しく頷く。
「ささ、たっちゃんと夏祭り行っておいでー」
「え?」
「邪魔者は退散するから。じゃあね、たっちゃん。今日はお夕飯に間に合わなくてもいいからねー」
 ひらひらと手を振って、先輩は私が止める間もなく去っていった。
 伊吹と二人、やたら広いサークル部屋に取り残される。
「言っとくけど、私は絵を描きに来たんだからな」
 とりあえず私がそれだけ口にすると、伊吹は椅子に座っても私とほとんど変わらない視線の高さでこちらを見てくる。
「浴衣でか?」
「友達と行くつもりだったんだけど……」
「まあ、いいさ。別に、俺に会いにきたわけじゃないことはわかってるから」
 伊吹は立ち上がると、部室の隅にあるロッカーの方に向かって歩いていく。
 そこから紙袋を取り出してくると、伊吹は私にそれを差し出してきた。
「何?」
「開けてみろ」
 あごをしゃくる態度の大きさが気に入らないが、私は渋々紙袋を開いて中身を取り出す。
「スケッチブック?」
 それも、私が長年使っているものとそっくり同じものだった。
「やるよ。俺が一冊駄目にしたからな」
 伊吹の言葉に、今更ながらひと月前に伊吹が水たまりにスケッチブックを落としたことを思い出す。
「駄目には、なってない」
 笹本が乾かしてくれたから、とはなぜか私は口にできなかった。
「それより、悪いと思ってたのか? お前が?」
「あのな、お前は俺を何だと思ってるんだ」
 伊吹は無愛想に、けれどはっきりと言った。
「落としたことは俺が悪い。すまなかった、和泉」
 このスケッチブックは、いつから伊吹のロッカーに入っていたのだろう。
 昼ごはんを一緒に食べようと言いだした夏休みの始めから、もしかしたら私に話しかけ始めたひと月以上前からだろうか。
「そのことはもういい」
「許すか?」
「うん」
 何にせよ、伊吹はちゃんと謝ることのできる人間だとわかったから、私はいつものように伊吹を睨むことができなかった。
「それと念のため言っておくが、俺が食事に誘ってたのはこのスケッチブックのためじゃない」
「え、違うのか?」
 心が読まれたかと思ってぎくっとすると、伊吹は呆れたような目をした。
「お前、わざとか? それとも本当にわからないのか?」
 ため息まじりにぼやいて、伊吹は一瞬黙る。
「……和泉、花が好きらしいな」
 唐突な言葉に私が目を瞬かせると、伊吹は静かに言ってくる。
「一緒に花を見に行かないか? たぶん、今日が一番綺麗だ」
 昨日までの私なら伊吹の言葉になど耳を貸さなかっただろう。
「話がしたい。お前と」
 だけど伊吹がただの嫌な奴じゃないとわかってしまったから、私は顔をしかめながらもすぐに切って捨てることができなかった。
「伊吹は私のこと、馬鹿にするじゃないか。そんな奴と話をしてどうする」
 今まで私が会った男の子たちは、笹本以外みんなそうだった。そう思って言うと、伊吹は頷く。
「ひと月前はそうだった。今もそう見えるか?」
 私は咄嗟に言い返せず、口の端を下げる。
「今は……そうでもない」
 確かに初対面の時は伊吹に馬鹿にされたのを感じた。でも少なくとも食事に誘い始めた頃からは、態度は横柄ではあるが私を見下してはいなかった。
「私は話が下手だ。絵や花のことしか興味がない」
「知ってる。別にいい」
 伊吹は灰色の目で私を見下ろして、僅かに口の端を上げる。
「なんならお前が最近興味津々な、笹本の話にでも付き合ってやるよ」
 私はぐっと黙って、顔をしかめる。
「一言余計だ」
 けれど結局押し切られる形で、私は伊吹と外に出かけることになった。








 大学の表にある大通りに出ると、今日は歩行者天国になっていた。
 夜が訪れようとする空の元、煌々と灯りをともした屋台が立ち並んで、無数の人が行きかう。
「まだ一時間くらいある。夕飯でも探しながら歩くぞ」
 伊吹はそう言って歩き始める。
「和泉、何が食べたい?」
 私は答えに困った。お腹が空いていなかったからじゃない。
「いや、私は食べない」
「何か食ってきたのか?」
「そういうわけじゃなくて」
 迷ったけど、私は仕方なく答える。
「一人じゃ食べきれない。だから、こういうところじゃ買うのはもったいない」
 いつも夏祭りに来た時は葉月と半分ずつ食べる。葉月はモデルとして食事制限をしているから、私と二人でちょうど一人前なのだ。
「残ったら俺が食ってやるよ。気にせず何か食え」
「そんなに食べられるのか、お前。二人前近くなるぞ」
 私が驚いて伊吹を見返すと、彼はちらっと私を見る。
「前から思ってたんだが、お前女子校出身か?」
「そうだが、それが何か関係あるのか」
「幼稚園からエスカレーター?」
「それもそうだが、だからそれに何の関係が」
「で、他校の男と付き合った経験もなし、と」
「帰っていいか? 伊吹」
 私がちょっと睨むと、伊吹はようやく私の質問に答える。
「男のいない環境で育ったんだろうと思ってな。別に男なら二人前食べる奴なんてざらにいる」
「いないわけじゃない。伯父がいる」
「和泉雅人か」
「なんで知ってる」
「会ったことがある。業界じゃ有名だ。洗練された大人だな」
 どこで会ったのかとかいろいろ問い詰めたい気はしたけど、伯父を褒められたことに私は気を良くする。
「うん。伯父は私の自慢だ」
「でもあの人は一般的な男じゃないな。かすみでも食って生きてそうだ」
「ふふ。さすがにそこまでじゃない。伯父も人間だからな」
 私が苦笑を返すと、伊吹はふいに言葉を収める。
「どうした?」
「いや、今珍しいものを見た」
 伊吹は目を逸らして歩みを進める。
 沈黙が流れた。何か言った方がいいのかとも思ったけど、私は不思議と声が出ないでいた。
「あ! 俳優の伊吹君ですよね!」
 でもそれは長くは続かず、五分もしない内に女の子たちが寄ってきた。
 よくあることで、伊吹は大学内でも隙があれば人に囲まれている。
「プライベートだから声をかけないでくれ」
「やっぱり本物だ」
「お願いです。写真とかサインとか」
「あ、よかったら一緒に」
 長くなりそうだと判断して、私はその辺の露店に何気なく足を向けようとした。
「プライベートだと言っている」
 だけどその場から動けなくて、片足を上げたまま私は止まる。振り返ると、伊吹が私の腕を掴んでいた。
「連れがいるのに一緒とか言うな。彼女に失礼だろうが」
 行くぞと引っ張られて私は半ば無理に歩き出すことになった。
 背後にきつい視線を感じながら、私は少し離れたところで伊吹に言う。
「伊吹、本当に愛想ないな。これじゃファンがいなくならないか」
「お前に愛想のことを言われたくはないが」
 灰色がかった目で私を見下ろしながら、伊吹はそっけなく答える。
「俺が業界に入った目的は演劇をやるためだ。人気者になるためじゃない」
「だが人付き合いという意味でお前は致命的だぞ」
「笹本なら少なくとも、立ち止まって優しい言葉の一つくらいはかける、か?」
 私は考えていた比較対象をぴたりと言いあてられて、少し口の端を下げる。
「わかってるなら何とかすればいいのに」
「少しも悪いと思ってないのに変える必要なんてないだろう」
 伊吹は口元に冷たい笑みを刻む。
「笹本は馬鹿な奴だな」
「なに?」
 私が剣呑な声を出すと、伊吹はわかっていたように振り向く。
「誰にでも愛想振りまいてたら、これっていう相手には本気で思われないだろうよ」
「笹本は彼女には特別だ。彼女といる時は他の子とそんなに話さないと聞いた」
「彼女って奴がよほど馬鹿じゃない限り気づくだろ」
 伊吹はちらと私を見て言う。
「お前だって本当は疑ってるんじゃないか? 笹本に遊ばれてるんじゃないかって」
「違う」
 私はすぐに否定しながら、冷たい汗が体のどこかを流れたような気がした。
 笹本はなぜ葉月というかわいい彼女がいながら私などに声をかけてきたのか。友達などいくらでもいそうなのに友達がほしいと言ってきたのか。
「笹本は優しいからだ。私みたいなのでも、放っておけないだけだ」
 つと伊吹は笑みを消す。
「私みたいなのって何だ。卑屈な奴だな」
「卑屈なんじゃない。お前の口癖を借りるなら、事実だからだ」
 私は前を向いて呟く。
「綺麗で愛想がいい女の子の方が、男の人は好きだ」
 笹本だってそう思ってるだろう。私も葉月に敵うなんて、元より思っていない。
「だったらお前は何で笹本がいいんだ。どう見たって俺の方がかっこいいのに」
 全くためらいなく言ってきた伊吹に、私はむっとする。
「お前はナルシストか。自分で言うな」
 黙っていれば顔がいいことくらい認めてやってもいいのに、こいつも懲りない奴だと口の端を下げる。
「俺は笹本に劣るところなんか一つもないと思ってる」
「ああ、はいはい。それがお前の事実なんだろ」
「ただ百歩譲って、笹本の顔の方がお前の好みだとしても」
 珍しく伊吹は一歩引いて、言葉を重ねる。
「だがあいつが本当に優しいか? あいつの「優しさ」に疑いを持ってるのは、何もお前だけじゃないぞ」
 私の心の隙間に冷たい風が入り込むような心地がした。
「うちのサークルの中でも笹本に好意を持ってる女子は多いが、同じくらいあいつがうさんくさいと思ってる奴がいる」
「何のことだ。私が笹本をうさんくさいと考えてるとでも?」
「お前は自分の恋愛感情だけで突っ走るようには見えない。周りの評価も多少は聞いてるだろう」
 伊吹はつくづく嫌な奴だと思うのはこんな瞬間だ。こいつは自分勝手なようで、けっこう人の観察をしているのだ。
――いろんな女の子に気のある素振りをするのよね、彼。
 私が笹本についてあまりよくない噂を聞いていることも、どこで知っているのか不思議なくらいだ。
「笹本を馬鹿にするな」
 私は優しい笹本を知っている。そんな噂なんて本気にしていない。
 そう胸を張って言えるほど、私は強くない。
「帰る」
 私にできることといえば、晴れない疑いから目を背けることくらいだ。
「待てよ、和泉」
「嫌だ」
 顔を背けて伊吹と逆方向に行こうとした私を、伊吹は難なく肩を掴んで止める。
 私より遥かに高い身長が視界の隅に映る。広い肩幅、大きな手、ごつごつした骨格が見える。
 どうしてこいつは私と違って、こんなに大きいのだろう。
 そしてなぜわかってしまうのだろう。その長身でもって、まるで鳥が空から虫を見るように見通せてしまうのだろうか。
「そういうことを言うから、私はお前が……」
 大嫌いなんだと言おうとして、私は胸の辺りに衝撃を受けた。
 突然人波の中で立ち止まったのがよくなかったのだろう。走ってきた男の子がぶつかったらしく、小さい私は簡単に弾かれる。
「和泉!」
 けれど私は倒れることがなかった。
 伊吹が私の背中に腕を回して抱きかかえるように引き寄せていた。
「大丈夫か?」
「……あ、ああ」
 すとん、と地面に下ろされて、私は目を回しながらも答える。
「わぁぁん!」
 だけどぶつかった男の子はまだ小学校に上がりたてくらいの幼さだったから、はずみで転んでしまったらしい。わっと泣き始めた。
「あ!」
 その声を聞き付けたのか、男の子よりもう少し年上の男の子が駆け寄って来る。私たちとその子を見比べながら頭を下げた。
「弟がごめんなさい。お兄ちゃん、お姉ちゃん!」
 何のことだろうと思って私が首を傾げると、伊吹が自分と私の胸元に指を向ける。
 見ると、私の浴衣と伊吹のシャツにアイスクリームの染みができていた。それと、ぶつかった男の子の側にいびつに崩れたアイスクリームが落ちている。
 どうやら男の子が持っていたアイスクリームが私について、その私を抱えた伊吹にもついた。そういうことらしい。
「ほら、お前も謝りな」
「だって、アイス、アイス……」
「そんなの後だって。ごめんなさい!」
 泣きやまない弟の頭を無理やり下げさせながら、お兄さんらしい男の子が一生懸命言ってくる。
「あ、いや。私は全然気にしない……」
 アイスくらい洗えば落ちるからと、私が慌てて言おうとした時だった。
 伊吹が一歩進み出て弟の方に近付く。
 私は咄嗟に、伊吹が男の子に怒ると思ってその腕を掴む。
「……怪我はしてないみたいだな」
 だけど伊吹は少し屈んで、男の子を覗き込んだだけだった。
「え?」
「ちょっと待ってろ」
 無愛想にそう言って、伊吹は近くの屋台に足を向ける。
「ほら、泣くな」
 伊吹はすぐに戻ってくるなり兄弟に一つずつアイスを持たせて、二人の頭をぽんと軽く叩く。
「前向いて歩けよ。あと、兄ちゃんをあんまり困らせるようなことするな」
 それから私を連れて伊吹は歩き出す。
 少し歩いたところで、私は伊吹に言った。
「お前、子どもには優しいんだな」
 服装にも抜群にこだわっている伊吹なら、てっきりアイスをつけられたことを怒るかと思っていた。
「別に。必死に弟を庇ってる兄貴が不憫になっただけだ」
 伊吹はそっけなく返したけど、私は少し笑っていた。
 優しさというものは言葉だけで表わされるものではないのだと、伊吹を見ていて思ったから。
「替えの服はどうする?」
「いい。洗って少しすれば乾く」
「ならジャージでも貸してやるよ。ちょうど時間だから何か買って大学に戻るぞ」
 やきそばでいいかと伊吹は問いかけてくる。それに、ああいいよと私も答える。
 帰ると言い放った時の激しい憤りは収まっていた。
 今日くらいこのわかりにくい優しさを持つ奴に付き合ってみてもいい。私はそう思っていた。







 数刻後、私は伊吹と大学の三階にある連結通路で空を仰いでいた。
「そういえば、葉月はお前の親友なんだってな」
 伊吹の貸してくれたジャージは、笹本のものより大きかった。袖など三回折らなければいけなかったほどだ。
「もしかして、それが笹本の彼女か」
「……ああ」
「なるほど。ようやくわかった」
 どうして伊吹にこんなことを話しているのだろうと思いながらも、私はぽつぽつと言葉を返す。
「親友に遠慮してるってか。別に俺なら気にしないがね」
「私にとって、葉月は特別なんだ」
 ここは隠れた花火の鑑賞スポットらしい。ちょうど木々が分かれていて、空が開けて見える。
「一番大切な子なんだ。葉月を傷つけるようなことは、絶対にしたくない」
 頬を撫でていく風に私は目を閉じる。
「確かに……好きだけど」
 私が認めないだけで、もう伊吹にだってとうに知られてることを、まだためらいながら言う。
「……でも、あきらめてるよ」
 笹本に会ったその日、葉月の彼氏だと知った瞬間に、あきらめようと思ったはずだ。どうしてかそれに踏み切れないまま、ずるずると時を過ごしてしまったけれど。
 夏祭りのざわめきが、風に乗ってここまで聞こえてくる。
 沈黙の後、伊吹が口を開いた。
「和泉。この間、俺がお前のことを好きなのかって訊いたよな」
「それはもう忘れてくれ。からかっただけだから。お前だって絶句してただろう」
 私が苦笑を洩らすと、伊吹は小さく息をついた。
「そうだな。呆れて何も言えなかった」
 それはそうだなと言おうとして、伊吹の次の言葉に遮られる。
「そんな当たり前のこと、こいつはまだわかってなかったのかと。なんで俺がしつこく食事だの何だの誘ってたかだって? 理由は一つしかないだろう」
 伊吹は低く言い放つ。
「わからないならはっきり言う。こっち向け」
「……違う。お前は何か誤解してる。そんなわけない」
「怖がるな、和泉。事実はちゃんと受け入れろ」
 伊吹は私の肩に手を置いて、咄嗟に目を逸らした私を覗き込む。
「俺はお前のことが好きだ」
 灰色の目で私を捉えて言った。真剣すぎて怖かった。
「お、おかしいじゃないか。なんでお前が、私を」
 茶化すことも許されなくて、私はただうろたえることしかできない。
「和泉はまっすぐだよ。きれいだ。静かに見えて情熱的だ」
 そんな伊吹の灰色の目こそが、今は激しい光を帯びていた。まるで氷が燃えているようだと思った。
「お前に笹本程度の男なんて合わない。だから、俺にしろとずっと言っている」
 きっぱりと告げて、伊吹はようやく私の肩から手を離す。
 私はのろのろと俯いた。何が何だかまだよくわからなかった。
「和泉。笹本をあきらめたいんだろう」
 頭のねじが数本抜けたような状態だったけれど、私はこくんと頷く。
「なら、俺と付き合え。なんなら、最初は噂を流すだけでもいい」
「……なんで」
「笹本は俺のことも、俺の取り巻きも嫌いだ。俺と仲がいいとわかれば、笹本は自分からお前に近付くことをやめるかもしれない」
 確かに笹本は嫌いな人間には愛想程度も振りまかない。
「それでもお前にちょっかいを出すようなら俺が追い払う。俺にしてもあいつからお前を引きはがせるならちょうどいい」
 言葉を返すことができない私に、伊吹は告げる。
「今答えろとは言わないから、考えておくといい」
 ほらと伊吹は空を指さす。
「見てみろ。植物以外の花もいいもんだろ」
 紺色の夜空に火の花が咲く。
 それは私がいつも見つめている花とは違った。
 けれど一度目にすれば忘れられないほど鮮烈で、目も眩むほど綺麗な花だった。
 十月は、草木が鮮やかに染まる秋の盛り。
 花が主役の春とは対照的な、木の葉の季節だ。深みを帯びた葉の緑、金色の銀杏、そして真っ赤な紅葉が静かな美しさを競う。
 サークル部屋の窓の外の紅葉が、日に日に色づいていくのがわかる。焼けつくような赤に染まって……時が来たら、落ちていくのだろう。
「やっぱり四人いるとだいぶ違うよな」
 後期に入ってから、サークルの大道具には、姉妹サークル「ヘイズ」から九瀬(くぜ)君と輪島(わじま)さんという二人が手伝いにきてくれるようになった。
「衣装は九瀬に任せておけばいいし」
「面倒なことを押しつけられてる気もしなくはない」
 九瀬君は笹本の友達らしく、言うこともあまり遠慮がない。
「でも九瀬、衣装作り好きだろ?」
「まあ、そうだ」
 今までは絵だけでなく衣装作りも笹本と二人だけでやってきたけれど、裁縫が信じられないほど正確で速い九瀬君がきてくれたので仕事が一気に減った。
「輪島さんも、ありがとう。すごく助かってるよ」
 笹本が朗らかに微笑むと、輪島さんは少し俯いて頷いた。それを、九瀬君が横目で見ていた。
 たぶん九瀬君も気づいているのだろうけど、輪島さんは笹本のことが好きなのだと思う。
 気持ちはよくわかる。内気そうであまり話すことが得意でない輪島さんのような人は、笹本の気さくさと優しさに光に照らされたような魅力を感じるのだろう。
 笹本が彼女の気持ちを知っているのかまではわからない。私の気持ちを笹本が気づいているのかどうかわからないと同じだ。
「そろそろ昼だから休憩しよ。コンビニ行く?」
 笹本の言葉に、九瀬君はそっけなく、輪島さんは小さく答える。
 九瀬君と輪島さんが来てくれるようになってから、笹本と二人だけの時間はずいぶんと減った。それは残念だったけど、安堵してもいた。
 笹本とのかかわりを少しずつ減らしていけば、自然に離れていける気がしたから。
「和泉は?」
「私は……」
「おいでよ」
 笹本は以前と同じように誘ってくれる。心地よい声でそっと言う。
「私はいい。伊吹と約束がある」
 硬い声音で私が答えると、笹本は小さく頷いた。
「そっか」
 それで今日も笹本たちと私は分かれるのだ。
 私は校舎を出て、紅葉の木の下のベンチに座る。そこでスケッチブックを広げたところで、上から声が振ってきた。
「待たせた」
 低音が近付いたかと思うと、隣に腰を下ろされる。誰かはもう、振り返らなくてもわかる。
「無理してこなくていいぞ、伊吹。約束はしてないんだから」
 私はスケッチブックをみつめたままぽつんと呟く。伊吹はなんてことないように答えた。
「俺が嫌々来るほど暇に見えるか?」
 それは傲慢な言い方ではあるけれど、事実なのだ。
 伊吹は今放映中のドラマで人気を集めて、CMやら何やらで今やテレビに出ない日はないそうだ。
 たぶん大学に来るのも時間を捻出するのに大変だろうと、業界に詳しくない私でも想像がつく。
「まあ食え。だいぶわかった。お前、一人じゃなきゃ食べるんだろ」
 けれど私がここで絵を描いていると、伊吹はたびたび現れて昼ごはんを渡していく。なんだか笹本を思い出すけど、伊吹はまた違っていた。お菓子とかじゃなくてしっかりとしたものを持ってくるのだ。
「これくらいならいけるか」
 今日私に渡したのはサンドイッチだった。野菜とチーズの、油ものが苦手な私でも何とか食べられそうな具が入っていた。
「……ありがとう」
 しかも手作りだった。不器用さがにじみ出るサンドイッチは、誰かからもらったものではなく伊吹が作ったものに違いなかった。
 中身は同じだがサイズが大きい自分の分を取り出しながら、伊吹は言ってくる。
「昨日伝えたが、今日はこれから収録だから送ってはやれない。悪いな」
「いいよ。小さい子どもじゃないんだから」
「気をつけて帰れよ」
 縁日以来、伊吹は家まで送ってくれるようになった。それができない時はわざわざ知らせてくる。
「伊吹、これ」
「ん?」
 私はバッグから弁当包みを取り出して伊吹に渡す。
「よかったら夜食にでもしてくれ」
 いつも世話になっているからと続けた私を見て、伊吹はぴたりと止まる。
 伊吹はぎこちなく私と弁当を見比べる。
「いや、無理にとは言わないが」
 視線が五往復くらいして私が引っ込めようとした時、奪うように弁当を取られた。
 そのまま包みを解いて箸を取る伊吹に、私は首を傾げる。
「今食べるのか? サンドイッチはどうする?」
「それこそ夜食にでもする」
 伊吹はひと口目を飲みこんで、小さく頷いた。
「うまい」
 伯父や葉月なら笑顔と事細かな感想と褒め言葉をくれるところで、伊吹は三文字口にしただけだった。
 それは実に無愛想な態度だったが、お世辞でも何でもなく単純に思ったことを口にしただけだとわかっていたから不快じゃなかった。伊吹はそういう奴なのだ。
 そう思った自分に、いつの間に伊吹のことをそれほど知った気になっていたのだろうと不思議な心地がした。
「伊吹はこんなのでいいのか?」
 食べきった頃を見計らって、私は問いかけた。
「お前は私にいろいろしてくれる。でも私はお返しらしいものをしてない」
「弁当を作ってくれただろう」
「お前にお弁当くらい作ってくれる女の子はいくらでもいる。たぶん、もっと上手に、お前好みに」
 私は考えながら言う。
「私たちは、なんだか、その……不公平だと思わないか?」
 いい言葉が思い浮かばないまま言うと、伊吹は苦笑した。
「真面目だな、お前。じゃあお返しをくれって言われたらどうする
「伊吹は言わないのが不思議なんだ。なんでだ?」
 伊吹は一拍だけ考えてから言った。
「俺は、恋愛も勝負だと思ってる」
 どんなことでも人に勝とうとする伊吹らしいと思った。
「好きになった方が負ける。俺はお前に負けた」
 あっさりと勝ちを譲った伊吹に、私は目を瞬かせる。
「俺だってできるなら見返りは欲しいよ。でも要求できる立場にない。俺にできるのは、お前がこっちを見るように他より目立ってみせるだけ」
「そんなの、お前のプライドが許すのか?」
「どうせお前に会った時から俺のプライドはズタズタだ」
 伊吹は可笑しそうに口の端を上げる。
「俺は満足してる。競うことも好きだしな。お前といるといつも油断できなくて、他の奴に負けるもんかと思うからな」
「お前に張り合う相手がいるか? 私はモテないぞ」
 きょとんとして私が言うと、伊吹は目を鋭くする。
「笹本がいる」
 目を逸らした私に、伊吹は語気を強めた。
「あいつを甘く見るのもどうかと思う」
 伊吹は顔を上げて木々の向こうを見やる。視線の先には二階のベランダがあった。そこは学生たちがお弁当やコンビニで買ってきたものを持ちこんで食事ができるスペースになっていた。
 ベランダの席に、九瀬君たちと一緒に食事をしている笹本の姿をみつけた。
「笹本は、俺とお前の関係をずっと疑いながら見てるぞ」
「サークルの皆だって疑ってることだろう」
 私だって、未だに伊吹がなぜ私を好きだと言っているのか理解できていないのだから。
「俺の兄貴が聞いてきたことだがな。この間、サークルの女子たちが俺たちのことを話していたそうだ。「伊吹君は珍しがって話しかけてるだけ。付き合ってなんかいない」と」
 まあそう言われて当然だろうと、私は頷きかける。
「それに、笹本は笑いながら頷いたそうだ。「俺も付き合ってない方に一票入れるよ」と」
 伊吹は睨むように笹本を見上げながら口にする。
「……「和泉が好きでもない相手と付き合えるとは思えないからね」とな」
 ちょうどその時、ベランダにいる笹本がこちらを振り向いた。
 庭にはベンチがたくさんあって、木々が生い茂っているからぱっと見には私たちをみつけることすら難しいはずだ。それに私たちはいろいろな場所を転々としている。伊吹には訊かれるまま一応知らせているが、私は笹本に教えたことは一度もない。
 けれど笹本は瞬時に私と視線を合わせた。まるで最初から私がここにいることなど知っていたように。
 そして穏やかに微笑んで、軽く手を上げて見せたのだった。







 芽衣子おばさんは、時々不思議なことを頼んでくることがある。
「零ちゃんお願い。金曜の夜、食事につきあってよ」
「いいけど」
 葉月は最近忙しいから夜待っていても一緒に食事をすることはできない。だから葉月の分は作っておいて、好きな時間に食べてもらえばいい。
「おばさんはいいの? 私がいたら邪魔にならない?」
「違う違う。私の彼氏ってわけじゃないのよ」
「今回も仕事の人なんだ」
「まあそんな感じ」
 その食事の場にはいつも男の人が一緒だ。幼い頃はおばさんのお付き合いしている人かと思っていたけどどうやら違うらしい。
 そして約束していた金曜日の夜、おばさんは私を迎えにきてクラブらしき場所に連れていった。
「雅人には絶対言っちゃ駄目よ」
 そう念を押すのもいつも通りだった。
 ゆったりした洋楽の流れる店内は少し照明を落としてあった。私はおばさんの後ろをついていって、窓際の席に案内される。
「こんばんは、零ちゃん」
「こんばんは」
 待っていたのは、四十代くらいのスーツ姿の男の人だった。
「待たせちゃってごめんねー、渡辺さん」
「いや、全然待ってないよ」
 前にも会ったような気がするし、違うような気もする。
 私にとって男性というのは長い間伯父だけだった。その内男の子は嫌いで、もっと大人の男の人は興味がなかった。伯父があまりに何もかも備えていたから、伯父だけみつめていれば満足だった。
 だから失礼だろうけど、彼に何の特徴をみつけられないのだ。私には、伯父以外の男の人は全部同じに見える。
「渡辺さんはすごいのよー。この年で取締役なんだから。それで、この間……」
 おばさんは私が黙っていてもどんどん話してくれるから気楽ではある。けど、こんな失礼なことを考えながら無関心に座っているだけの姪なんてこの場には必要ないんじゃないかなとも思う。
 おばさんはこの人のことが好きなのだろうか。だったらあんまり無愛想にしてこの人を不愉快にしてはいけない。それはわかっている。
「そうなんですか」
 そうはいっても、私は言葉少なく頷くくらいしかできない。話は苦手で、知らない人と話すことはもっと苦手なのだ。
 だから食事にも箸が進まなかった。いつも外食の店を選んでくれる伯父や葉月はグルメだから、それに比べると全然おいしく感じない。
 私は食事に目を落として、ふと思う。
 この間伊吹がくれたサンドイッチはすんなりと食べきれた。手が込んでいるわけでも特別な食材が使われているわけでもなかったのに、素直においしいと思った。
 周囲を見回して、やはり伊吹のことを考える。
 もしあの辺りに伊吹がいたらどうだろう。この薄暗く広い店内であっても、伊吹なら他の男の子に埋没することはないだろう。あいつはそれくらい異質で、他にはない引力がある。
 そこまで思ったところで、私は眉を寄せた。
 伊吹のことが、私は大嫌いだったはずなのに。ちょっと親切にされたくらいで、あいつが目立つだけで、私はあいつのことを考えてしまうのか。
 なんだ、私は。笹本が好きなんじゃなかったのか。……私はもう、心変わりしてしまったのだろうか?
「ねえ、零ちゃん」
 声をかけられて、私ははっとする。
 いつの間にか芽衣子おばさんがいなくなっていた。渡辺さんは私の正面の席に移っていて、微笑みながら私を見ていた。
「今日これから、夜景でも見にいかない?」
「夜景?」
「ライトアップされた紅葉が綺麗な場所があるんだ」
 渡辺さんを熱心に褒めていたおばさんならきっと大歓迎だろうと、私は頷く。
「素敵だと思います。叔母が喜びます」
「そうじゃなくて。零ちゃんと二人で行きたいな」
 私は首をひねる。
「私にそこまで気を遣って頂かなくて結構です」
 私は芽衣子おばさんのおまけみたいなものなのだ。ただでさえ食事をおごってもらっているのだから、これ以上二人の邪魔をしてはいけないだろう。
「そう構えないでさ。伯父さんに甘えるみたいでいいんだよ」
「伯父は私の父のようなものですから」
 他人とはとても同列には並ばない。そう思って返すと、彼は薄く笑う。
「わからないかな。僕は零ちゃんが……」
 身を乗り出して何か言おうとした彼の前に、すっと腕が伸びた。
「こんばんは」
 その声を聞いた瞬間、私は全身が神経になったような心地がした。
 振り向かなくても、気配でわかったくらいだ。
 ……笹本が私たちの間に片手をついて、そこに立っていた。
 私が言葉も出ないままにただみつめていると、笹本は楽しげに口を開く。
「ひどいな、渡辺さん。浮気?」
「優希君。誤解を招くような言い方よしてくれよ」
「じゃあ叔母さんに言ってもいい?」
 ぐっと言葉に詰まった渡辺さんに、悪戯っぽく笹本は首を傾ける。
「俺、特選和牛ステーキが食べたいな」
 それを聞いた渡辺さんは渋々といった様子で店員さんを呼ぶ。
「これを一つ……」
「あ、俺ドンペリって飲んだことないんだよね」
「じゃあドンペリグラスを……」
「えー、渡辺さん取締役でしょ? 俺一本くらい飲めるよ」
「わかった。なら」
 渋面を顔いっぱいに浮かべた彼の前で、笹本は私に振り向いて笑いかけた。
「それよりかわいい子と話がしたいな。ちょっと彼女借りるね」
 おいでと笹本は私の手を掴んで引く。
 私は確かにさっきまで伊吹のことを考えていた。
 でも笹本に会った瞬間、私は頭が笹本のことで塗り変わってしまった。
 私は何も言えずに笹本に引っ張られて、厨房まで連れていかれた。
「どういうこと?」
 ようやく口を利けるようになった私に、笹本は冗談っぽく言う。
「何頼む? 今なら何でも食べ放題だよ。全部あの人につけといてもらえるから」
「笹本、説明」
 私が語気を強めると、彼はようやく笑顔を収める。
「危なかった。もうちょっと遅かったらホテルにでも連れ込まれてたかもしれない」
「は?」
 突拍子もないことを聞いた気がして、私は思わず首を傾げる。
「あの人は叔母さんの仕事の人。私は叔母さんについてきただけだよ」
「その叔母さんが問題なんだ」
 笹本が珍しく顔をしかめた時、厨房の入り口から顔を覗かせた女の人がいた。
「優希ちゃん、仕掛けてきたわよ。人払いはしたから裏口から行きなさい」
「ありがとう。面倒なこと頼んでごめんね」
 親しげに笹本が言うと、彼女はあっさりと手を振る。
「何言ってるの。この辺の店の子はみんな優希ちゃんの味方よ」
 彼女に笑い返して、笹本は私の手を引く。
「黙ってついてきて、和泉。すぐわかるから」
 仕方なく私は笹本の後ろをついていく。厨房から外に出て裏口から入ると、そこからカウンターの下に潜り込んだ。
「まだ連れ出してないの、渡辺さん」
 ちょうど給仕の人が周りからいなくなった時、叔母の声がカウンターの向こうで聞こえた。
「邪魔が入った。どうなってるんだ。あのコブが来るなんて」
「優希君が?」
 芽衣子叔母さんは驚いた声を出してから、苦笑する。
「それは、まあ……あの子の遊び場だからたまたま居合わせただけよ。悪戯っ子なだけでかわいいものじゃないの」
 カウンターの下で、笹本がぺろっと舌を出した。
「だったら追い払ってくれ。今日こそ零ちゃんと二人きりにするという約束じゃないか」
「それなら……ええと、これくらい」
 何を言っているのだろうと私はカウンターの下で怪訝な顔をした。
「金はもう払っただろう」
「追加分。他にも払ってくれる人はいくらでもいるのよ」
「仕方ないな」
 何か紙の掠れる音がした。
 二人が離れたのと同時に、笹本はカウンターの下から何か小さな機械を剥がしてスイッチを切った。
「優希ちゃん、これ。きっちり写したから」
「ありがとう」
 別の店員のお姉さんがやって来て笹本にカメラを渡す。
 それから笹本は私を連れ出して裏口の外にまで来ると、カウンターから剥がした小さな機械を見せる。
「ICレコーダー?」
「うん。さっきの会話を録音した。これと金の受け渡しの写真で完璧な証拠だ」
 笹本はふっと笑って頷く。
「これを雅人さんに渡せば、あの人は二度とこんなことできなくなる」
 私にも、さっきの会話が何を意味しているのか理解できなくはなかった。
「あの人って……芽衣子おばさんのこと?」
 芽衣子おばさんは私を連れてくることでお金を取っていた。それはきっと、よくないことではあるんだと思う。
「芽衣子おばさんを、どうするの?」
「それは雅人さんが解決してくれる。とりあえず、和泉に二度と近づかないくらいにはしてくれるはずだ」
 どうして笹本が伯父のことを知っているのかとか、訊きたいことは山ほどあった。
「おじさんには知らせないで、笹本」
 けれど直感が私の口を開かせる。
「芽衣子おばさんは悪い人じゃない」
 私の口から真っ先に出たのはその言葉だった。笹本は私の言葉が理解できないとでもいうような顔をする。
「さっきの会話聞いたろ? 和泉は売られようとしてたんだよ」
「何か事情があって仕方なかったんだ。きっと」
「和泉……」
「それに、えと、私は危ない目に遭ったことないし。とにかく、まだ何も問題は起こってないんだからいいんだ」
 うまく説明できないながら何とか言葉を重ねていると、笹本はそんな私をじっとみつめていた。
「和泉は信じちゃうんだな」
 笹本はぽつりと呟いて苦笑する。
「だから周りはそんな和泉を守ろうとするんだ」
 それから首を横に振って笹本は告げる。
「俺は雅人さんに言う」
「笹本」
「芽衣子さんがろくでもない人だってことは俺の方がよく知ってる。このまま放っておくわけには……」
 私が焦って顔をしかめた時だった。
「優希ちゃん」
 私は一瞬気付かない内に声を発していたかと思った。その声は、私の声にあまりにそっくりだったから。
「夜にこの辺に出入りしちゃ駄目って何度も言ったでしょ」
 その高くて子どものような声を聞いた途端、笹本は言葉を止めて振り返る。
「……叔母さん」
 え、と私は息を止める。私たちが振り返ったそこには、小柄で少女のようなあどけない雰囲気を持つ……私の母が立っていたから。
「聞いてよ、冴さん。やっと俺、あの人の尻尾を掴んだんだ」
 笹本は子どもが褒めてもらいたい時のような声を出して、母に駆け寄ろうとする。
「店の子に聞いたわ。なんてことしたの。レコーダーとカメラをよこしなさい」
 けれど母の厳しい口調に、笹本は訝しげに眉を寄せる。
「どうして? 悪いことやってるのは芽衣子さんじゃないか」
「それは芽衣子に私から注意しておくわ。あなたは口を出さないの」
「なんで庇うの? 叔母さんだって芽衣子さんのせいで散々苦労して……」
「芽衣子のことは私がどうにかしないといけないの。兄さんを関わらせちゃいけないのよ」
 憮然とした笹本に、母は暗い目をして言った。
「……あなたも芽衣子も、兄さんの本当の怖さを知らないんだから」
 こんなに母が話すことを聞いたことがなかったからだろうか。私は母の言っていることがまるでわからなかった。
 紳士的で温厚で優しい伯父が怖いだなんて、首を傾げることしかできなかったのだ。
「とにかく、兄さんに知らせるのは絶対に駄目よ」
「嫌だ。和泉が危なくなるかもしれないのに」
「優希ちゃん」
 母は涼やかな黒曜石の瞳で笹本を見据えて告げた。
「ママの言うことが聞けないの?」
 それに笹本が言葉を詰まらせた気持ちが、私は痛いほどわかった。
――パパの言うことが聞けない?
 幼い頃から、私も伯父に言われてきた。決して厳しい口調ではなく、時には微笑みながらの言葉だったけど、伯父にそっぽを向かれたらと思うと従う以外に方法がなかった。
「……次何か変な動きをしたら、今度こそ告げ口するからね」
 だから笹本が悔しそうにレコーダーとカメラを渡したのも、私は仕方ないと思って見ていた。
「和泉。せめて送らせて」
「途中までなら」
 母が去った後に申し訳なさそうに笹本は告げてきて、私は頷く。
 帰り道、私はぽつりと呟いた。
「笹本の叔母さんって、私の、あの……母だったんだね」
 母をお母さんと呼んだことがないので、どう言えばいいのか困りながら言う。
「うん。俺の父親って雅人さんらしいんだ。お父さんって呼んだことはないけど」
 私はごくっと息を呑んで、初めて知った事実に瞠目した。
「伯父さんに子どもがいるなんて知らなかった……」
「戸籍上は俺って両親いないんだ。雅人さんの子だってことは芽衣子さんが言ってただけだから、ただのデマかも」
 言っている内容に反して、笹本は明るい顔をしていた。
「でもね、親子って感じは全然なくても、雅人さんとは仲いいよ。いろんな所に連れてってもらったし、あれこれ面倒も見てくれた。叔母さんにも優しいし、俺はあの人好きだな」
「私のことも伯父から聞いたの?」
「いや。それは芽衣子さんから」
 笹本は苦い顔をして目を逸らす。
「あの人は叔母さんや雅人さんと違って性質が悪い。どんな風に言ってたかは、和泉には聞かせたくない」
 それは母が私を産み捨てたと言っていたような口汚いものだったのだろうかと、私は何となく思う。
「芽衣子さんとは縁を切った方がいいよ」
 私はその言葉には即答できないまま、ふと問う。
「笹本は、いつから私と従兄妹だって知ってたの?」
 笹本は少し考えて答えた。
「最近かな。秋に入ってくらい」
 本当にそうなのかなと私は心の中で疑問符を浮かべて黙った。
「和泉?」
 笹本は春のお花見で初めて会った時に、もう私のことを知っていたんじゃないだろうか。
 そうでなくては、私みたいな子に声をかける理由がない。従兄妹だから親切にしなきゃいけないと考えて歩み寄ってくれたんじゃないだろうか。
「笹本は優しいね」
 思わず呟いた言葉は苦味を帯びていると、放ってから気付いた。
「え?」
 女の子として扱ってくれたんじゃなかったんだと思うと、少し寂しく感じた。
 駅が見えたところで、私は足を止めて振り向く。
「じゃあ私、ここまででいいから。送ってくれてありがとう」
 従兄妹への親しみだって十分温かい気持ちなのに、それでは嫌だと思ってしまう自分が嫌だった。







 笹本は穏やかで人当たりがいいけど、そうでない時も見かけたことがある。
――やっぱり、はーちゃんかわいいよな。
 それは今放映中のドラマを、サークルの部屋でみんなが見ていた時のことだった。
 そのドラマは葉月がヒロインとして出演しているから、私は録画して家で何度も見ている。
 テレビに映っている葉月も普段家でくたっとしている葉月と変わらず綺麗だ。私はみんなが噂しているのを頷きながら聞いていた。
――伊吹君にならだまされたい!
 そのドラマの主人公で葉月の相手役が伊吹だった。
 伊吹の役は悪い男でいろんな女の人を手玉に取って利用する。けれど葉月演じるヒロインの純真さに彼女をだましきれなくて、次第に惹かれていく。大筋だけ言うとそんな話だ。
 伊吹は演技力とその見栄えの良さで、鑑賞しているサークルの女の子にいつも騒がれている。
――ま、悔しいけどかっこいいよな、伊吹。
 男子もやっかみながら、まあ仕方ないと諦めて見ているようだ。
――じゃあ、おつかれさまです。
 毎週ドラマの放映時間である金曜の九時になると、みんながテレビの前に集まっている。その中で、笹本だけは居心地悪そうに帰り支度をするのだ。
――優希君も見ようよ。ストーリーもいいんだよー。
――そうそう。それにほら、笹本ってはーちゃんのファンじゃなかったっけ。
――えー、そうなの?
 最初はバイトで忙しいのか、それとも家に帰って一人で見たいのかと思っていた。
 男子がからかい調子で、女子が妬み調子でかけた言葉を、普段の笹本ならおっとりとやり過ごしたに違いないだろう。
――うん。俺、はーちゃんのこと大好き。
 だけど笹本はそれをしなかった。彼にしては珍しく、苛立ったような口調で返した。
――だから男といちゃいちゃしてるのは見たくないんだ。じゃあね。
 早足で去っていく笹本に、サークルの面々は驚いたように囁き合う。
――優希君ってあんなキャラだっけ? 今怒ってたよね。
――あいつも意外と普通のところあるんだな。
 女の子の評価を少し下げて、男の子からは多少の親しみを受けたようだった。
――そういえば前情報だけど、来週伊吹君とはーちゃんのキスシーンあるんだって。
――うわっ、伊吹がはーちゃん汚すのか? あいつ、ただでさえもう三人手つけてるのに。
――嫌ぁ。何度見てもそれはいやぁー。
 私も、確かに葉月が男の子とキスするのはちょっと嫌だなと思っていた。
 土曜日、葉月が珍しく一日オフだったから家で過ごすことになった。
 美容師を目指す葉月は昔から暇があると私の髪を手入れするのが好きだ。だから私は葉月に髪を切ってもらうことになった。
 私の毛先を丁寧に梳く葉月に、私は何気なく聞いてみた。
「ねえ、葉月は今度キスするの?」
 拙くて文脈も何もない私の言葉を、葉月はしっかりと汲み取ってくれた。
「ドラマのことね。うん。明日収録なの」
「彼氏以外とキスするの、嫌じゃない?」
「ふふ」
 葉月はくすりと笑う。
「大丈夫よ。私、伊吹君とは仕事上の付き合いだけだから。私も彼にとっても、ただの演技以外のものじゃないわ」
 鏡の向こうから悪戯っぽく私を見返しながら葉月は言った。
「伊吹君とはもうキスした?」
「し、しないよ」
 思わず顔を赤くした私を、葉月はじっとみつめる。
「葉月?」
「何となく気づいてはいたんだけど」
 葉月は笑みを収めて言う。
「れいちゃんの好きな人って、伊吹君じゃないわよね」
 私は一瞬笹本への想いが葉月に知られたかと思って心が騒いだ。
「やっぱり」
 だけど嘘をつくわけにはいかなくてこくりと頷くと、葉月は続けた。
「その人はれいちゃんのことをどう思ってるの?」
「うんと……それが、わからない」
 私は迷いながらぽつぽつと話す。
「親切にしてくれるし、優しいけど……他の女の子にも優しいから」
 葉月がつと目を伏せて黙るので、私は慌てた。
「あ、でもそれで当たり前なんだよ。だって彼女がいて、その子のことがすごく好きなんだから」
「彼女がいるの? それでれいちゃんにも優しい?」
 葉月の声に非難の色がこもっていた気がして、私はなお焦る。
「友達だから」
「……だったら」
 葉月は私の毛先を少し切って言う。
「私はその男の子、好きじゃないわ。れいちゃんを一番に想ってくれないんだもの」
 ハサミの音と同時に、私の後ろ髪がぱらりと落ちる。
「無駄なことしてるってわかってるの。だからあきらめようとしてるの」
「無駄なことじゃないわ」
 私が目を伏せて暗い顔をしたら、葉月は私の首に腕を回して耳元で告げる。
「れいちゃんの気持ちを一人占めしてるのに、他の子を見てるのがずるいと思うだけよ」
 葉月は私を椅子ごと回転させて倒す。
 シャンプーが入らないようにタオルを私の目の上に乗せて、葉月は私の髪を洗い始めた。
 私はタオルで真っ暗になった視界の中で思う。
 葉月は私のことを心配してくれる。私はそれを嬉しく思うのと同時にたまらなく不安になる。
 私の好きな人が自分の彼氏の笹本だと知ったら、葉月はどんな反応を取るのだろう。私を怒ったり、蔑んだり、嫌ったりするだろうか。
 それとも……と考えかけて、私は目をぎゅっと閉じる。
 今、葉月に嫌われるより最悪の想像をしてしまった。そんなことになったら私は一体どうしたらいいのだろう。
 ……駄目、それだけは絶対に駄目。
 そう思って、私は決意を固める。
「ね、れいちゃん。さっき、彼氏以外とキスするのが嫌かって訊いたわね」
 沈黙の中、ふいに葉月が切り出した。
「比較のしようがないわ。実は私ね、今の彼とキスしたことないから」
 葉月は静かな声で淡々と続けた。
「付き合いだしたのは高校の頃からだけど、子役の頃に何度か一緒になったから彼のことは知ってたわ。彼は天才的な子役で、人気者だった。私、ずっと憧れてた」
「葉月が憧れた?」
「そうよ。それに優しかった。だけど、れいちゃんの好きな人みたいに、私以外にも優しかったの」
 顔を見ることができないから、私は葉月がどんな表情をしているのかわからなかった。
「確か小学校に上がるくらいの頃だったかしら。私と彼が一緒に出ることになった劇場に、友達と喧嘩してしまって一人で泣いていた女の子がいたの。周囲の大人が困り果てる中で、彼は迷わず彼女に近付いたわ」
 少しためらう気配がして、葉月がそっと告げる。
「「大丈夫、一人じゃないよ。僕がいる」って言って、その子にキスしたの」
 私ははっと息を呑む。
「……それ以来、彼とはキスしないって決めてるの」
 葉月はシャンプーを終えてトリートメントを始める。
 もう目の上のタオルは必要ないのに葉月はそれを取ろうとはしなかった。私も手が上げられなかった。
「なんて、もう十年以上前のことよ。たぶん彼もその女の子も忘れてるでしょうね」
「そんな……葉月は傷ついたんでしょ?」
「付き合う前のことだもの。今更掘り返す出来事じゃないわ」
 でも葉月が今でも気にしていることは事実だ。私が口の端を下げると、葉月は宥めるように続けた。
「そんな小さい頃のことにこだわってる私の方がおかしいのよ。そうね、いい加減キスの一つくらいできなきゃね」
 ふいに葉月は手を止めた。
「れいちゃん。私に勇気をちょうだい」
 私は一瞬、勇気を優希と聞き間違えた。
「最初から葉月のものだよ」
 思わずそう答えた私に、葉月が屈みこむ気配がした。
 真っ暗の視界。その中で、掠めるように葉月の唇が私に触れる。
 それはくすぐったくて、少しだけ甘いキスだった。
「伊吹君の先を越してやったわ」
 タオルを取って、葉月は愉快そうに笑う。
 楽しそうな葉月を見ていて、驚くより安堵している私がいた。
 月曜日の授業が終わった後、私は講堂に向かった。
 講堂の舞台は日常的に「アース」の演技練習の場に使われているけど、私は裏方としてサークル部屋で作業することがほとんどだったから、出入りすることは少ない。
 私が入った時、大体十人ほどのメンバーがいた。伊吹が舞台で台詞合わせをしていて、笹本は先輩と大道具の配置について話しているようだった。
「先輩」
 私は部長の手が空いた時を見計らって声をかけることにした。
「突然で申し訳ないのですが、サークルをやめさせてください」
 封筒から退部届を取り出して、私は部長に手渡す。
「忙しくなった? うちのサークル、負担大きいからね」
 部長は慣れているように、少し冷めた様子で返す。
「まあやめたいなら止めないよ。笹本、ちょっと」
 ちょうどこちらを見ていた笹本が、部長に呼ばれて近付いてくる。
「はい?」
「正規大道具メンバー、また笹本一人になるけどがんばれよ」
 笹本は怪訝な顔をして私に向きなおる。
「突然どうしたの?」
 私は考えてきた理由を答えることにした。
「元々お手伝いの予定だったから。九瀬君と輪島さんが手伝いにきてくれるようになったし、もう私がいなくても何とかなると思って」
「そうじゃなくて。部長、とりあえずそれの受理待ってください。俺から話をしますから」
 笹本は部長から掠め取るようにして私の退部届を奪うと、私を舞台裏の端に引っ張ってくる。
「絵を描くの、楽しくなかった?」
「それとこれとは関係ないの」
「じゃあちゃんと理由を聞かせてよ」
 穏やかだけど少し強引に、笹本は問いかける。
「手が足りるようになったから」
「それは和泉がやめる理由にはならない。嘘つかないで。わかるから」
「……嘘じゃない」
「何か困ってるなら相談に乗るよ。とりあえずちょっと考えよう?」
 私は頷きたかった。うん、そうすると答えて、笹本のいつもの優しい微笑みが見たかった。
「なんで笹本にそんなこと言われなきゃいけないの」
 けれど私は心に決めていた言葉を、自分を奮い立たせて口にしていた。
「じゃあ言うけど。私は絵もこのサークルも好きだよ。嫌いなのは……」
 私はごくっと息を飲む。言葉が喉に突っかかって出て来なかった。
 笹本の薄茶の大きな目を見ていたら、たまらなく苦しくなってしまった。
「だいたい、笹本は何なの」
 体の横で手をぎゅっと握りしめて、私は憮然とした調子で切り出す。
「誰にでもにこにこして、暇があれば女の子の機嫌取ったりして。目の前の人と話す気あるの? それって話す態度として最低だよ。八方美人とか浮気どころじゃないよ」
 笹本は瞠目して私を見ている。私は今にも笹本が怒りだすんじゃないかと思いながら、でもそれでいいと思って続ける。
「彼女がつれないっていうけど、それだって笹本が悪いんじゃないか。女の子なら誰でも優しくて、叔母さんにべったりで、他の女の子とキスなんてするから」
 周りにはサークルのメンバーがたくさんいる。みんなそれぞれの作業をしながら、どこかで私たちの会話を聞いている。
 私の酷い悪口に気づく。そしてそれを聞かれたくないと、笹本だって思うはずだ。
 けれど笹本は私を見据えたまま動かない。もう笑ってはいないけど、怒りだす気配もない。
「悪戯で、私が叔母さんと食事するのを邪魔するし。迷惑だってわからないの?」
 それでは困る。私のことを嫌な奴だと思わせなければいけない。
「やめるのは、笹本と顔合わせたくないからだよ」
 握りしめた手がしびれている。頭ががんがんと痛む。目の奥が熱かった。
「だって、笹本がだいきら……」
 必死で放とうとした言葉が、唐突に途切れた。
「もういい」
 私の顔が大きな手で覆われる。目の前が遮られて、口も抑えられる。
「わかっただろ」
 伊吹の低い声が真上で聞こえた。
「……お前が全部悪い、笹本」
 吐き捨てるように告げて、伊吹は踵を返した。
 私の顔を覆ったまま、伊吹は私を抱えるようにして外に引っ張っていく。
「和泉、もう誰も見てない。手を開け!」
 裏口から講堂の外に出た途端、伊吹は私の手を無理やり開かせる。
 ガチガチに強張っていて、私自身でも手を開くことが難しかった。
「この馬鹿……」
 やっと開いた手のひらには血がにじんでいた。私より見ている伊吹の方が痛そうに顔をしかめる。
「なんであんなことを言った」
 私の手をつかんだまま、伊吹が問う。 
「仕方ないんだ。葉月だけは、失いたくないんだ」
 私には伊吹がどんな顔をしているのかわからなかった。呆然としていて、周囲が全部分厚い膜で覆われているように実感がなかった。
「なんで傷つけるようなことを言った?」
「笹本には……悪いと思ってる」
「笹本なんてどっちでもいい!」
 伊吹は声を荒げて、私の肩を揺さぶった。
「言ったお前が、一番、傷ついてるだろうが!」
 私の中で、限界まで張っていた糸が切れたような気がした。
「う……っ!」
 ぽたぽたっと、地面に染みができる。拭っても拭っても、目から溢れてくる。
「葉月だけは、駄目なんだ……! 葉月をなくしたら、生きていけない……!」
 いつも一緒。一番綺麗で、一番大好きな葉月。
「葉月にだけは、嫌いは嫌……一緒じゃない、もっと嫌……何でもする」
 自分でも何を言っているのかわからないくらい、めちゃくちゃに言葉を並べたてる。
「葉月がいてくれれば、それでいい……他はいい。いいんだ……」
 私は私にとって一番いい選択をしたはずだ。
 笹本との関係を完全に絶つために、二度と私になんて優しくしないくらい、酷く傷つけてしまえばいい。簡単なことだ。
 人から見れば不格好で愚かに見える方法だけど、これぐらいしか私には思いつかなかったのだ。
「嫌われたくないよ……」
 真っ赤になるくらい目を擦っているのに、涙はちっとも止まってくれなかった。
 葉月がいればそれでいい。他なんていらない。他にどう思われたっていい。
 ……そう思っていたはずなのに。
「葉月にも……笹本にも、嫌われたくない……よ……」
 いつからこんなに贅沢になってしまったんだろうか。
 私の世界には葉月と伯父しかいなかったはずなのに、笹本に嫌われると思うだけで息が苦しくなるなんて。
「……和泉」
 伊吹が、私の顔を胸に押しつけた。
「お前は悪くない」
「わるい……よ。私じゃなくて、他に誰が悪いっていうの」
 人前で笹本の悪口を言って、傷つけた。親友が大切にしている彼氏のことを好きになった。
 全部、私のせいだ。
「言っただろ。悪いのは笹本だ」
 伊吹はきっぱりと言い切る。
「お前を追い詰めて、傷つくようなことを言わせて、泣かせたのはあいつだ」
 服が汚れると思って顔を離そうとした私を、伊吹はもう一度胸におしつけた。
「あいつが憎い。これ以上嫌いになれないと思っていたが、今度こそ上がないくらい大嫌いになった。だから」
 伊吹の低い声が苦手だったはずなのに、今は包み込むように優しく感じていた。
「俺がお前の分までめいっぱい笹本を嫌ってやるから。……お前はもう、笹本を好きでいろよ」
 私に言い聞かせるように告げる。
「葉月だってそれでいいと思うはずだ。お前がそこまで想える奴なんだろ? そんなことでお前を捨てるような親友なら、俺が代わりに親友になってやるよ」
 伊吹は憮然とした様子で、けれど少しも厳しくない口調で言った。
「お前は笹本を好きでいいんだ。だから泣くな」
 私はえぐえぐとしゃくりあげながら、小さな子どもの頃とまるで変わらない泣き方をしていた。そんな私の頭を叩きながら、伊吹はずっとそこに立っていてくれた。
「お前、泣きだしたら止まらないのな」
 いつまでもぐずっている私に、伊吹は小さく苦笑した。
「情けない……。私、眠るまで止まらないんだ……」
「そりゃまた。感情の全力投球だな」
 お前らしいよと伊吹は呟く。
「じゃあ寝る前に帰るか。送る」
 その申し出はありがたかったけど、私は首を横に振った。
「気にしないでくれ。サークル部屋にでもいるから」
「笹本と顔合わせるかもしれないぞ。他のメンバーとも会いにくいだろ」
「今日は葉月が家にいるんだ。……こんな顔じゃ、帰れない」
――誰にいじめられたの、れいちゃん。
 泣いて帰ると、葉月は何が何でも私をいじめた人間を聞き出して怒りにいくのだ。それがどんな年上の子でも、男の子であっても変わることはなかった。
 伯父の家も考えたけど、葉月と同じように心配をかけると思うと行けなかった。
 伊吹は少し考えて言う。
「じゃあ俺の家来い。泊めてやる」
「えと……」
 さすがに私も、男の人の家に上がり込むということの意味を知っている。
 ためらった私に、伊吹は淡々と続けた。
「何もしない。信用しろ」
 私は男の子のことをほとんど知らないけど、一緒にいて伊吹の言うことは信じられるようになっていた。
 伊吹は他人に厳しいが自分にも厳しい。自分が一度言いだしたことを覆すことはしない。
 ……笹本みたいに、その心をはかることができなくて不安になったりしない。
 そういう意味では、私は笹本より伊吹といた方が落ち着けるのかもしれなかった。
 夕暮れで、まだ紅葉しきっていない葉すら真っ赤に染まって見えた。
「……信じる」
 私は一つ頷いて、そう言った。







 都内の学生街の一角の、マンションの三階に伊吹の家はあった。
 伊吹はお兄さんと二人暮らしらしいが、そこは普通の大学生のアパートに比べれば少し広いけど、華やかな世界の住人の住処にしては質素だった。ただ、私は相変わらずぐすぐすと泣いていたから、それくらいしか見ていなかった。
「これ当てて寝ろ。冷やせば腫れも引くだろ」
 青いシートが貼ってあるアイマスクを渡されて、私はぽつんと言う。
「伊吹もよく泣くのか」
「俺が演技以外で泣くか。徹夜明けで目が疲れた時に使うんだ」
「わかった。そういうことにしておく」
「おい」
 私は大人しく冷却アイマスクを受け取った。
「俺は仕事に行ってくる。朝三時まで戻らない。兄貴には、今日は友達の家にでも泊まれと言っておくから安心しろ」
「うん」
「冷蔵庫の横の棚にレトルトがあるから腹が減ったら食っとけ。風呂も勝手に使っていい。ただ隣は兄貴の部屋だから入らないように」
「わかった」
 たぶんこの感じだと朝まで起きないだろうなと思いながら私は一応頷いて、ぴたりと止まる。
「何か?」
「そうだ。葉月の夕ごはん」
「自分で食うだろ。ガキじゃないんだから」
 葉月は家事が全くできない。けれど素敵な女の子として通っているから、どう言えばいいのか私は困った。
「と、いうわけにもいかないんだったな。葉月は料理ができない」
 私が驚いて顔を上げると、伊吹はこともなげに言う。
「わかるさ。ドラマに料理をするシーンがある。あれは演技じゃなく、本当に包丁を持ったことのない人間の手つきだ。それにお前の反応から見るに、たぶん家事全般ができないんだろ」
「……誰にも言わないでくれ」
「わざわざ言うほどのことでもないさ」
 伊吹は少し目を細める。
「ま、俺は笹本だけじゃなく、葉月も気にいらないんだがね」
「え?」
「葉月の連絡先は知ってる。俺が今日はお前が帰らないことを伝えて、外食でもするように言っておくから」
 私は迷ったけど頷いた。たとえメールであっても、今葉月に何があったか問い詰められたら、話してしまいそうで怖かった。
「笹本のことは黙っておけばいいんだろ」
「うん」
 伊吹は笹本がらみのことであることは言わないことを約束してくれた。
 伊吹が仕事に出ていった後、私は眠たさで少し左右に揺れながら周りを見た。
 さすがにベッドを使うのは悪い。そう思って、椅子にかけてあったタオルを肩に羽織ってうずくまった……くらいまでは覚えている。
 そのまま横になったところで、意識が途切れた。







 目を開けた時視界が暗かったので、私はまだ夜なのかと思った。
 けれどアイマスクをしていたことに気付いてそれを外すと、室内は思いのほか光に満ちていた。
 くるりと周りを見渡して、私はそこが伊吹の部屋だったことを思い出す。
 それほど広くはないし、家具も寒色系の地味な色が多くてシンプルだ。けど演劇関係の本やビデオ類がぎっしり詰められた棚が、壁を隠すように並んでいるのが印象的だった。
 起き上がって、私はベッドの上にいて布団も被っていたことに気付く。床で寝た記憶しかなかったので、私は首を傾げた。
 部屋の外から香ばしいコンソメの匂いが漂ってくる。ぐう、とお腹が鳴って、私は引き寄せられるように部屋の扉を開けていた。
 キッチンで鍋を前にしている伊吹をみつけて声をかけると、彼は私を振り向く。
「朝飯作るところだ。スープとパンだけだがお前も食うか?」
「うん」
 伊吹は食パンを二枚取り出してトースターに入れると、鍋の前に戻った。お玉で味見をすると、眉を寄せて首をひねる。
「いつもは兄貴が作るんだが、何か足らない」
「貸して」
 私はお玉を借りてコンソメスープをひと口飲む。
 塩コショウとコンソメの量は足りている。ただ、確かに伊吹の言う通り物足りない感じはした。
「香り付けにショウガでも加えてみたらどうだ? チーズも相性がいい」
「……今」
「どうした?」
 伊吹はなぜか私をじっと見て止まっていた。
「……ごめん。顔洗ってくる」
 もしかして起きぬけで顔に何かついていたのかと、私は気恥ずかしくなる。
「いや、顔の問題じゃない」
「寝ぐせか」
「今、そのお玉で飲んだだろ」
「これ、口つけちゃだめだったか?」
 さっき伊吹もこれで飲んでいたはずだったがと、私は首を傾げる。
 微妙な沈黙の後、伊吹はぽつりと答える。
「そういえば兄貴がケチャップを入れていた」
「ああ、じゃあそれでいいんじゃないか」
 私はとりあえずと洗面所に顔を洗いに行った。念入りに鏡で顔と髪をチェックしたが、それほど変なところがあったようには見えなかった。
 その間にパンが焼けたようで、戻ってきたらパンとスープに牛乳という朝食が二人分テーブルに並んでいた。
 私は伊吹と食べ始めながら切り出す。
「ずいぶんと世話になった。伊吹」
 昨日の夕方から何も食べていない私には格別おいしい朝ごはんだった。素直にお礼を言うと、伊吹はつと私を見る。
「俺に心変わりする気になったか」
「あ、いや」
「冗談だ。うろたえるな、そんなことで」
 ぷっと伊吹は笑った。思わずといったその笑い方は初めて見た気がしたので、私は少し驚く。
 伊吹もまた起きぬけだからか表情が柔らかい。そんなことを思いながらじっと見ていると、伊吹が何気なく言う。
「笹本だって心変わりするかもしれないぞ。今は葉月が好きでも、そのうちお前を彼女に選ぶかもしれない」
「……そんなことはないよ」
「和泉。一途なのはお前のいいところだが、それだと辛いだろ。気楽に考えてみるのもいいんじゃないか」
 スープを飲みほして、伊吹は低い声だがいつもよりゆったりと話す。
「死ぬまでたった一人しか好きになったら駄目だっていうのか? 誰が自分にとって一番いいのか、付き合ったり離れたりして選んでいくもんだろ」
 器を置いてから伊吹は考えるように宙を見た。
「俺からすれば、なんで笹本は葉月の方がいいのか不思議でならないがね。お前の方が信用できるし、一緒にいて面白いのに」
「葉月は綺麗だ」
「お前の方がかわいいよ」
 私はうろんな目つきをして伊吹を見る。
「伊吹、寝ぼけてるのか?」
「じゃあ今度昼に会った時に言えば納得するか」
 言葉に詰まった私に、伊吹はパンをかじって続ける。
「結局、その辺の良さもわからない笹本より俺にした方がいいってことに落ち着くんだが。まあそれは置いといて……」
 伊吹は私に目を移す。
「今のお前は葉月との関係のために躍起になりすぎてる。少し頭を冷やすといい」
「頭を冷やす?」
「少し笹本と離れてみろってことだ。やめるかはともかく、サークル休んどけ」
「でも笹本とはクラスが一緒なんだ」
「お前が無視すれば、向こうからはしばらく話しかけてこないよ。お前が笹本を好きなのは、もうあいつに伝わっただろうからな」
「……やっぱりそう聞こえたかな」
 一晩明けると、私の言動は笹本と仲のいい女の子への嫉妬としか思えないものに聞こえただろうと思った。
「これでまだ馴れ馴れしく話しかけてくるほど、あいつが鈍い奴だとは思えない」
 私は少し考えて言う。
「私が伊吹と付き合ってるって話を聞いても、笹本はあんまり変わらなかったけど」
「笹本は、俺にいくらやっかまれても平気だと思ってたんだろ」
 伊吹は迷わず続ける。
「今回は違う。今これ以上お前にちょっかいをかけたらお前に嫌われる」
 私に嫌われたからといって笹本は気にするだろうかと、私は視線を落とす。
「笹本はお前に嫌われたくはないさ。それくらいは俺にもわかる」
 私の心を見通したかのように言う伊吹に、私はうつむいたまま呟く。
「もう嫌われたと思う。ひどいこと言ったから」
「お前のことを少しでもわかってるなら、あれが本気の言葉じゃないことは気づく」
「そうかな」
「ああ」
 伊吹は頷く。
「お前が思うより笹本は……」
 言葉の途中で、伊吹は顔をしかめた。
「……俺が教えてやる義理はないか」
 そう呟いて、伊吹は顔を上げる。
「さてと」
 伊吹は携帯電話を開いて電源を入れた。
 その途端に鳴りだす携帯に、伊吹は苦笑する。
「着信五十二件、メールがちょうど六十通。俺が初めて外泊した時に兄貴がかけた回数といい勝負だな」
「なにが?」
「食ったら行くぞ。駅前のコーヒーショップ」
「あ、うん」
 私はわからないまま頷いて、ふと言う。
「いろいろありがとう。お前、けっこういい奴なのか?」
「いい奴ときたか」
 携帯をポケットにしまって、伊吹は薄く笑う。
「そんな奴がいたら会ってみたいね」
 私は伊吹の言葉にきょとんとしていた。








 コーヒーショップに行ったら、ひときわ目立つ女の子が窓際に座っていた。
 長く細い手足につややかな長い黒髪。サングラスをかけても一目で一般人とは違う整った顔立ちがわかる彼女は、私と伊吹をみとめるとすぐに席を立った。
 私が駆け寄る前に葉月は目の前に立っていて、そして手を振り上げていた。
 咄嗟に目を閉じた私に衝撃はくることがなく、私の横で音が響いた。
 伊吹が叩かれたのだと気づくのと同時に、シャッターを切る音がどこかで聞こえる。
「葉月、今誰かカメラ……」
「ほっときなさい」
 葉月は怒気をはらんだ声で低く言って、伊吹の胸倉を掴む。
「おはよう、伊吹君。いい朝ね」
 今にも爆発しそうな声に反して、葉月は眩しいほどの笑顔を張り付けていた。
「おはよう。こんなところで会うなんて奇遇だな」
「そうね。ドラマみたいな偶然よね」
 お互いにこやかに声をかけ合うのは、恋人同士のように……は見えなかった。二人とも背後に黒いものが見えてならないのだ。
「手、出したの?」
 伊吹の耳元で囁いた葉月に、彼は薄く笑う。
「葉月の言葉とは思えないが?」
 そう言って、伊吹は葉月の耳元に口を寄せる。
 声が低すぎて、何を言ったのかは聞こえなかった。
 葉月は少し目を見開いて伊吹の顔を見る。
 それから私の手を取って、葉月は踵を返していた。
「ね、あの……あっ」
 ずんずんと歩いていく葉月があんまりに速いので、私は追いつけなくなってつまずく。
 それをすんでのところで葉月がすくいあげて、そのまま私を抱きしめた。
「葉月、その……みんな見てるよ」
 まだ朝早いとはいえ、駅前の道の真ん中だ。出勤途中の人たちがちらちら視線を送ってくる。
「ごめんね、葉月」
 けれど葉月がしがみつくように抱きしめていたから、私はゆっくり手を上げて葉月の背中に触れた。
「夕ご飯、作ってあげられなくて。お風呂入れるのとか、一人でできた?」
 私が拙いことを言うと、葉月はぎゅっと力をこめる。
「ううん。だけど、そんなことは、いいのよ……」
 葉月の声が一瞬泣いているように聞こえて、私ははっとする。
「帰りましょ」
 体を離した葉月は笑っていたから、私の聞き間違いだったかもしれない。
 それからは、葉月は私の手を取ってゆっくり歩いてくれた。
「私、伊吹君に嫌われちゃったわね」
 葉月は苦笑しながらそっと切り出した。
「きっと記事にされるわ。「伊吹の浮気に平手打ちする葉月」の写真」
「え」
「純真さで売ってる葉月のイメージに傷がつく。けど今悪い男の役どころをやってる伊吹君には悪くない写真よ」
 私はむっとして葉月を見た。
「伊吹の奴、葉月をはめたの?」
「ちょっとした嫌がらせよ。それに私もわかっててやったんだから責めるところじゃないわ」
 葉月は首を傾けて私を見下ろす。
「彼にさっき言われたの。「俺はお前が嫌いだ。お前は和泉を独り占めしてる」って」
「伊吹が……あいつ」
「でも徹底してるわね、彼。私、彼は嫌いになれそうにないわ」
「どうして?」
「嫌いな人間は嫌い、好きな人間は好き。私は傷つけてもれいちゃんは傷つけない。あの写真、一般人のれいちゃんの顔は出ないもの」
 だけど葉月を貶めるようなことをするなんて、と私は顔をしかめる。
 たぶんこれは笹本への嫌がらせでもあるのだろう。葉月と伊吹が付き合っているという報道に拍車をかけて、葉月の彼氏としての笹本のプライドに傷をつける。
「やっぱり嫌な奴だ」
 ぽつりと呟いた私を、葉月は苦笑しながら聞いていた。
 笹本と話さなくなって二月ほど経った。
 サークルは休んでいるし、構内で笹本を見かけても目を合わせないようにしている。
 こういう時、大学はいい。広くて逃げる場所がいくらでもある。人がたくさんいて混じってしまえる。意外と直接会うことは少ない。
 唯一、クラスで教室が一緒になることはあるけど、開始時間ぎりぎりに来て終わったらすぐに出ていけばよかった。
 ふと窓の外を見ると、木々はすっかり葉が落ちて枝が露わになっていた。飾り気のない無機質な姿だ。
 ああ、これが元の平穏だと思う。
 笹本の一挙一動に心が浮いたり沈んだりすることはない。葉月を傷つけるかもしれないとびくびくせずに済む。伊吹には大学内では一人にしておいてほしいと言っているから、授業以外は絵を描いていればそれでいい。
 花はない季節だけど、その華やかさに毎日が乱されることはもうないのだ。
 いつものように、授業が終わってすぐに席を立った時だった。
「和泉」
 ぎくっとした。笹本の声だった。
 逃げられるだろうかと思いながら、私は急いで顔を背けて扉の外に出る。
「待って」
 笹本の声が後ろで聞こえたけど、私は教室から流れ出てくる人波に混じってしまうことに成功した。
 校舎の裏まで来て一人になると、私は一息つく。
 例の事件の後、笹本から一回だけ携帯に着信があった。もちろん私は通話に出なかったけど、どうしたらいいのか困った。けれど笹本がらみのことは伯父にも葉月にも相談できなかった。
 そうしたら伊吹が携帯のメールアドレスを変えて、着信拒否というものを設定してくれた。それで、笹本との連絡手段はあっけなく消えた。
 白い雲が空を覆っていた。私は草むらに座り込んで足を投げ出す。
 次第に手がかじかんできたけど、しばらくそこでぼんやりと空を仰いでいた。
「和泉ちゃん、みっけ」
 ふいに声をかけられて、私はいつの間にか目の前に立っていた人たちに気づいた。
 一番近くにいたのは華やかな美人の藤原さんだった。その後ろに、「ヘイズ」からのお手伝い要員だった九瀬君と輪島さんもいる。
「昼ごはんでも一緒に食べない?」
「悪いけど、あんまり食欲ないんだ」
 気さくな藤原さんは嫌いじゃないけど、サークルのメンバーとはしばらく顔を合わせたくなかった。
 私が腰を上げようとすると、藤原さんはそんな私の前に屈みこんできて大きな目で覗き込んでくる。
「ねえ、和泉ちゃん。伊吹君が寂しがってるわよ。あんまり冷たくすると誰かに盗られちゃうけど、いいのかしら?」
「伊吹がよければそれでいいよ」
 構わず私が立ちあがると、藤原さんは微笑みながら続ける。
「じゃあ、優希は? 私が盗っちゃおうかしら」
「それはない」
 私は迷わず答える。
「笹本は葉月のものだから。誰も葉月には敵わない」
 藤原さんは一瞬表情を消して、ふっと笑う。
「さすが和泉ちゃん。この程度の安っぽい文句には引っかからないか」
 綺麗にネイルされた指を頬に当てて、藤原さんは頷いた。
「でも、笹本君かわいそうだよ」
 輪島さんがためらいながらも口を挟む。
「みんなの前であんなこと言われて。謝らなきゃ」
「謝ることないんじゃないか」
 顔をしかめた輪島さんの横で、九瀬君が遮る。
「和泉さんが言ったことは本当だろ。笹本の無節操に愛想振りまく癖は、俺だってどうかと思う」
「だって……」
「私は笹本が嫌いだから仕方ない」
 私は無表情で輪島さんを見返す。
「あなたとは違うから」
 輪島さんのように、純粋に笹本を想える時期は過ぎてしまったから。
 彼女はびくりとして、うろたえながら踵を返す。
「九瀬君、フォローしといて」
 その輪島さんを見送りながら、藤原さんが九瀬君に声をかける。
「わかった」
 短く返して、九瀬君は輪島さんの後を追った。
「なかなか不器用な人ね、和泉ちゃん」
 二人の姿が見えなくなったところで、藤原さんは苦笑した。
「そう偽悪的にならなくていいのに。輪島さんは悪意があって言ったんじゃないのよ」
「私は人にどう見られても構わないから」
 私も去ろうと思って立った時、藤原さんの顔が目の前にあった。
 鼻が触れ合うくらいの距離に驚いて私が身を引こうとすると、私の首の後ろでパチンと音がする。
「何?」
 視線を少し落とすと、私の首に小さなロケットのペンダントがかかっていた。
「優希から」
「返すよ」
 私が首に手をやって取ろうとすると、藤原さんはその手を掴んだ。思いのほか強い力だった。
「それ、ずっと優希が持ってたものよ。大事なもの」
「私には関係ない」
「聞いて」
 穏やかだけど強引さもある話し方は、笹本に少し似ている気がした。
「そのロケットは、優希の育ての親の冴さんが優希に持たせたものなの。優希は何度か危ない目に遭ったから、心配してね」
「……危ない目?」
 思わず訊き返すと、藤原さんは頷く。
「誘拐とか、売られそうになったりとか。冴さんが手に入らないから代わりに優希をっていう、おかしい連中がけっこういたのよ」
 母には熱狂的なファンがいるということを聞いていたから、そういうこともあるかもしれないと私は顔をしかめる。
「ロケットの中にボタンがついてる。押すと冴さんに居場所を教えてくれるようになってるの。だけど大学に入ってからはもう大丈夫だろうって、優希は持たないようになったんだけどね」
「それをどうして私に持たせるの?」
 ロケットを手に取って見下ろす私に、藤原さんはそっと言う。
「あなたが心配だからだそうよ。「芽衣子叔母さんに気をつけて」って言ってたわ。対を自分が持ってるから、何かあったらすぐ伝えてって」
 私は少し黙ってぽつりと言う。
「叔母さんはもう、悪いことしないよ。私にはこれ、必要ない」
「持っていて」
 藤原さんは私の手ごとロケットを握り締めた。
「優希は危険に敏感なの。彼が他人には絶対触らせなかったそれを渡すほどだから、手放しちゃ駄目」
「どうして藤原さんはそんなに笹本を庇うの?」
 私の言葉に、藤原さんは苦笑した。
「優希は嫌気がさすくらいに小さい頃から知ってるの。あの無駄な愛想の良さも、女の子に媚びているって思われても仕方ない態度も、時々どうしようもなく子どもっぽいところも」
「じゃあなんで?」
「和泉ちゃんは、私ほど優希の嫌なところを知らないでしょう」
 藤原さんは長い睫毛の下からじっと私をみつめてくる。
「優希を好きになる女の子は多い。けど嫌いになる子も同じくらいいる。だけど彼のことを本当に理解してから好きになったり嫌いになったりする子は、実はほとんどいないの」
「それは幼馴染の藤原さんや……葉月がいれば十分だよ。私は要らない」
「そう思ってないから、優希はこれを渡したんじゃない?」
「私は迷惑なの。笹本とかかわりたくないの」
「じゃああなたから返して」
 藤原さんはおっとりと言い切る。
「私は優希に借りがあるから、頼まれたからにはあなたに渡さないといけないだけよ。私の顔を立てて、とりあえず受け取ってちょうだい」
 そう言われてしまっては、これ以上抵抗することはできなかった。
「さ、ランチでも行きましょ」
「……それは遠慮するよ」
「残念。じゃあまた今度」
 藤原さんは愛想よく笑って、手を振って去っていった。







 窓の外を掠めていく白い結晶を、私はじっとみつめていた。
「こら、れいちゃん。寝てないと駄目」
 肩を叩いて、葉月が私の額に自分の額を合わせる。
「まだだいぶ熱いわ。ベッドに戻りましょ」
 葉月に促されて、私は部屋のベッドで横になる。
 寒さが厳しくなるこの季節、たいてい私は風邪をひいて、一週間くらい寝込むことになる。元々体は丈夫な方じゃないから、一度ひくとなかなか治らない。
「葉月にうつっちゃうよ」
「うつして。れいちゃんが治るなら」
 葉月は私の肩まで布団を引き上げて言う。
「私はここにいるから。ゆっくり休みなさい」
 体は辛いけれど、私は風邪をひくこと自体はそんなに嫌じゃない。
 風邪をひいてる間は、忙しい葉月を独占していられるから。
 くすっと笑った私に、葉月は首を傾げる。
「うん?」
「なんでもない。ごめん」
 自分勝手な考えに、私は首を横に振る。
 葉月は私のベッドの横で本を読むのを再開する。私はふわふわする意識の中で目を閉じていた。
「さっき、雪を見てたらね」
 私がぽつりと零した言葉に、葉月が振り向く気配がした。
「綺麗な花の形をしてた。均等で、バランスの取れた形」
「この季節の華だものね」
「うん。すぐ溶けちゃうし、崩れちゃうけど、いいよね……」
 結晶が手に取ったらすぐに消えてしまうのは、きっと整い過ぎた姿だからなのだろう。一瞬しか、絶世の美は保てないのだと思う。
「そうね。でも、れいちゃん」
 そんな話をしたら、葉月は窓の外を見やりながら言った。
「雪はその形が崩れたとしても、また固まって別の花を作れるわ。固まることができなくても、春が来れば無数の花が咲く」
「けど、それは元の雪じゃない」
 崩れてしまったら、たぶん元の形には二度と戻せない。
 そう思って顔をしかめた私に、葉月が微笑んだ。
「大丈夫よ。私がもっと綺麗なものを作るわ」
 ふっと私も笑う。
「そうだね。葉月ならできるね」
 葉月は家事とか生活に必要なことは苦手だけど、いろんな細工物を作ることが得意だった。葉月の中にある美的感性は、誰にも真似できないくらい研ぎ澄まされている。
 ふいに葉月の携帯が鳴った。葉月は携帯を見て、少し眉を寄せる。
「どうしたの?」
「やっぱり今年もか」
 葉月は小さくため息をつく。
「私の彼氏も、毎年この季節になると風邪ひくのよね。熱出してるみたい」
「それ、大変じゃない」
 私はばっと起き上がって葉月に言う。
「葉月、看病しに行ってあげなよ。私は、ほら……」
 少し考えて私は言う。
「たぶん今日も、伊吹が様子見に来てくれるから」
 毎年私が風邪をひくと、伯父が来て家事をやってくれる。けれど今年は伊吹が時間をみつけて来てくれるようになっていた。
「私が行っても料理も何もできないし」
「買い物をしてきてくれるだけでもだいぶありがたいはずだよ。あ、私に買って来てくれたゼリーとか冷却シートとか、持っていってあげなよ」
 渋った葉月に、私は言葉を重ねる。
「それに一人暮らしなんでしょ? 一人で寝込んでるのって、寂しいよ」
 葉月は迷っていたけど、やがて言った。
「じゃあ少しだけ行ってくるわ」
「うん。それがいいよ」
 私が頷くと、葉月は支度を始める。
「ちゃんと寝てるのよ」
 指を立てて私に言い聞かせてから、葉月は出かけて行った。
 私は葉月に言われた通り布団で大人しく寝ていた。
 うつらうつらとし始めた頃、私の携帯に着信があって目を覚ます。私は伊吹が前もってかけてくる電話かと思って、何気なく携帯を開いた。
 着信は芽衣子叔母さんからだった。
「もしもし、叔母さん?」
 壁掛け時計は、そろそろ夜の八時を指そうとしていた。
「……れいちゃん。助けて」
 通話に出た私の耳に聞こえたのは、押し殺したような叔母さんの声。
「どうしたの?」
「お願い。あと一回だけ食事に付き合って」
「叔母さん、そういうのはもう駄目だよ。それに私、今……」
「じゃないと私、殺される……!」
 切羽詰まった声に、私ははっとする。
「やばいところにお金借りちゃって、今日返さなきゃ……私もう本当にお金なくて……どうしよう」
「落ち着いて、叔母さん」
「落ち着けるわけないじゃない。駄目なの、待ってって何度も頼んだのに……」
 自分でも何を言っているのかわからないように、叔母さんは言葉を並べたてる。
「とにかく、伯父さんに相談を……」
「雅人に? やめて、絶対! あいつが私を助けるわけないわ」
 金融関係なら伯父が強いからと思って言ったけど、叔母さんは焦って止めてきた。
「いくらいるの?」
「二百万」
 それは、私のお小遣いではどうにかできそうにないと唇を噛む。
「けど今日いくらかでも払えば、知り合いの弁護士に相談するから……」
 冷静に考えれば、食事をするくらいでそう大したお金がもらえるはずはないと私だって気付いただろう。
「……今回だけだよ」
 けど私も熱に浮かされた頭では、何とか叔母さんを助けようという結論しか弾きだすことができなかった。








 葉月と伊吹に「叔母さんが大変だからちょっと出かけてくる」とだけメールして、私は急いで外に飛び出す。
 暖かい部屋の中なら美しい雪が、針のように痛かった。
 叔母さんとは繁華街の入り口で合流した。
「こっち」
 私の手を掴んで叔母さんは足早に歩き出す。
 曲がって、また曲がって、路地に入って、奥へと奥へと向かっていく。
 すぐに道がわからなくなった。熱が上がってきたのも感じた。叔母さんの足が速すぎて私は足をもつれさせていた。
「どこまで行くの?」
 ネオンすら消えていく繁華街の奥は、まるで迷宮のようだった。私は二度と家に戻れないような錯覚を覚えて、体を震わせる。
 やっとどこかの店の裏口に辿り着いた時、私は目が回っていた。
 薄暗い部屋に連れ込まれた時も、私は自分が座らされたものが何かよくわからなかった。
「その子が冴の娘か」
「そう」
 叔母さんが男の人と話していた。
「裏では人気なんでしょ。プレミアがつくってやつよ」
「そうだな。冴の娘ってだけでいくらでも金を出す奴は何人か当たりがある。しかしここの客は派手だぞ。こんなチビっこい子がもつかね」
「もたなくてもいいじゃない。どうせあんた、足がつかない内に売るんだから」
 私は頭痛がする頭を押さえて、叔母さんに問いかける。
「叔母さん……何の話をしてるの?」
「頭の悪い子ね」
 芽衣子叔母さんは耳触りな笑い声をたてた。
 男の人が、私の手首を掴んで柱みたいなものに縛りつける。
「でもあんたみたいな子でも、体一つあれば金になるのよ」
 私は自分の座っているものがステンレスのベッドであることに気付く。
「じゃあ客を呼んでくるか」
 ……そして私が体を売らせられようとしていることも理解する。
「叔母さん、待って!」
 男の人と部屋を出て行く叔母さんに叫んだけど、扉は硬く閉じられる。
「助けて!」
 縛られた手首を引っ張ってもびくともしない。力いっぱい叫んでも、誰も来ない。
「誰か……葉月、伯父さん……助けて」
 嫌だ。こんなのは嫌だ。
 目が回って吐き気がする。息が苦しくて、意識を失いそうになる。
 目の前が暗くなりかけた時、微かに光が視界の隅に映った。
「あ……」
 私の首に下がったロケットのペンダントに気づく。
 もしかしたら、気づいてくれるかもしれない。そう思って体を折り曲げて、手に首のロケットを近付ける。何とか指先にロケットが触れた。
 私はペンダントを震える指先でこじあける。
 一縷の望みをかけて、私はそれをみつめた。
「笹本……」
 カチリとボタンを押した。
 何とか手首の拘束を解こうともがいていたけど、手首から血が流れ出るだけで頑丈な縄は解けそうもなかった。
 誰か来て助けてほしい。でも「客」は嫌。それだったら誰も来ないで。
 一瞬が何時間にも感じられるような時の中、ざっと、誰かが扉の外に立つ気配がした。
「ん、んー……!」
 私はぎくりと体を震わせて、力いっぱい手首を引く。
 扉が開く。私は思わず目を閉じて庇うように体を小さくする。
 縄が切れる音がした。私の手を誰かが取る。薄暗くて、見上げても顔が見えない。
 促されるまま部屋の外に出る。
 そこに立っていたのは、息を切らして顔を上気させた男の子。
「……笹本」
 街灯の光に照らし出された姿に息を呑む。
「ついてきて。大丈夫、逃げられる」
 私の手を取って、笹本は走りだした。







 複雑な路地を、笹本は猫のように駆けた。光すら僅かな空間を、彼はするすると抜けて行く。
 破れた金網をくぐりぬけ、ゴミ袋をかきわけながら、けれど私の手をしっかりとつかんで笹本は進む。
 笹本の手は、私の手と同じ温度だった。その体温に、私は恐怖に強張った心が少しずつほぐれていくのを感じた。
 私の知っている雰囲気の街が見えてきた頃、笹本は一つの店の裏口から飛び込む。
「ここ……」
 母がホステスをしているクラブだった。私たちが控室のようなところに入ると、何人かのお姉さんがいた。
「優希ちゃん」
「どうしたの、その格好」
 汚れて雪にまみれた私たちに驚いて、お姉さんたちが取り囲む。
 その中から、母が進み出てきた。
「ここに隠れていなさい。いいわね?」
 母はすぐに救急箱とタオルを持って来てくれた。
「みんな、隣の部屋に出て」
 母はお姉さんたちを連れて部屋の外に出て、扉を閉める。
 ここはあの部屋と違って明るくて、暖かかった。そのことに、私はようやくほっと息を吐く。
 笹本は無言で私の手首を消毒して、包帯を巻き始める。
「……和泉」
 いつも柔らかな表情をしているはずの笹本は、強張った顔でぎこちなく言った。
「大丈夫?」
 私はこくっと頷いて言葉を発しようとする。
「うん、ありがと……」
 言葉が終わる前に、笹本の手が震えて包帯が落ちた。
 ……どっと笹本の両目から涙があふれ出す。
「よかった……!」
 笹本は私を引き寄せて抱きしめる。
「無事で……。和泉、怖い思い、いっぱいしただろうけど……!」
 子どものように力いっぱい笹本は泣く。
「辛かっただろ、ごめ……うう」
 後は言葉にならなかった。嗚咽の声だけが響いた。
 どれだけ笹本に心配をかけたか、私は訊かなくてもわかる気がした。
「……大丈夫だよ、笹本」
 私は笹本の背中に手を回して、宥めるように言葉を重ねた。
「私は、大丈夫。もう心配要らない」
 そっと頭を叩いて、体を離す。笹本は涙を拭うことすらせず、目を見開いたままぽろぽろと雫を零していた。
 こんなに人のために真剣に泣いてくれる人に、私はどうして冷たくできたんだろうと思った。
 しゃくりあげて泣く笹本の顔を、私はずいぶん長い間タオルで拭っていた。
「ごめん。泣きたいのは和泉の方なのに」
「ううん」
 少し落ち着いてきた頃、笹本はまだ涙に濡れた目で私を見た。
「来てくれてありがとう。笹本がいなかったら、どうなってたか」
「それも、ごめん。芽衣子さんが危ないのは気づいてたんだから、もっと強く忠告しとかなきゃいけなかったのに」
 笹本は息をついて俯く。
「冴さんに金を借りに来てたから、嫌な予感がしてた。以前もそういうことの後、俺も体を売らされそうになったことがある」
「笹本……」
「冴さんが助けてくれたし、まだ小さくて意味もわからなかったけど、すごく怖かったのは覚えてるんだ」
 私は笹本の忠告をしっかりと受け取らなかったことに後悔が押し寄せるのを感じた。
「ごめん、笹本」
「無事だったからいいよ」
「それもだけど、酷いこと言ってごめん」
 笹本は目を上げて少し首を傾げる。
「酷いこと?」
「サークルのみんなの前で、愛想がどうとか……」
「ああ、そのこと」
 笹本は苦笑して口元を歪めた。
「みのるに……藤原に言われたことがあることばっかりだよ。愛想の振りまき過ぎ、女の子に媚び過ぎ。ああ、キスのことはさすがに言われたのは初めてだけど」
 少し目を逸らして、笹本は難しい顔をする。
「藤原には、俺は優しさの使い方を間違えてるって言われてきた」
「笹本が?」
「自分では愛想振りまいてるつもりも、媚びてるつもりもないんだ。俺はただ……雅人さんみたいになろうとしてきただけなんだけど、雅人さんほどうまくはできなくて」
 私も何となく理解する。
 伯父も笹本も社交的で気さくなところが似ている。けど、伯父は言われなければ気付かないほどさりげなくみんなに優しくて、しかも嫌われない。
 けど、そんなことができる人間になるには、それこそ四十年かかっても難しいのだ。
 私は笹本のことを、勝手に何でもできる人間だと思ってしまっていた。
 ……実際は、笹本だって私と同じ十八歳の大学生であることに変わりはないのだから。
「さすがに正面切って言われるとへこむけどね。そのうち俺のこういうところを嫌いって言われる気はしてた」
 私はその言葉を撤回したかった。けど、葉月のことを考えるとできなかった。
「嫌われてもいいんだ。……よくはないけど、仕方ない。でも」
 笹本は弱弱しく笑う。
「何かあった時に助けに行くくらいは、許して。俺たち……」
 従兄妹だから?と私が口にしようとして、私ははっと気づく。
「そうだ。笹本、熱あるんだったよね」
 風邪をひいて寝込んでいたはずだ。熱があるはずの私と手の温度が一緒だったことに今更になって気づく。
「寝てて。タオル濡らしてくる」
「大丈夫。治りかけだから」
 そう言いながら、笹本の目に力がない。私は笹本を近くのソファーに寝かせて立ちあがる。
 ドアノブに手をかけたら、外から扉が開いた。
「優希ちゃん。雅人に話したの?」
 母が入って来て、口早に問う。
「ここに来るって」
「うん。もう芽衣子さんのこと話した」
「どうして。だから、私の言うことが……」
「聞けない」
 焦った様子の母に、笹本はきっぱりと言い切る。
「冴さんはいくら芽衣子さんを庇ってもいい。俺は和泉を庇うだけ」
 母は哀しそうな目をして、けれど何も言わずに部屋を出て行った。
「いいの?」
 私がそっと問いかけると、笹本は頷く。うん、と短く答える。
「冴さんが守らなきゃいけないものと俺が守らなきゃいけないものは違うから」
 幸い部屋の隅に蛇口があった。私はそこでタオルを濡らして笹本の額に置く。
 やはり辛かったのか、笹本は目を閉じてしばらく横になっていた。
「あれ?」
 ふいに笹本は携帯を取り出して電話に出る。
「うん。叔母さんの店。いるけど、なんで? あ」
 短く会話をしたかと思うと、相手から通話を切られたらしく笹本は携帯を耳から外す。
「なんか、葉月が伊吹と一緒にここに来るって」
「……あ」
 たぶん葉月は私を心配して伯父に電話したのだろう。そして伊吹は葉月に聞いたというところじゃないだろうか。
 そこまで思い当ったところで、私ははっと気づく。
「私、帰る」
「駄目だよ。今はここを動いちゃ」
「だって」
 私と笹本が一緒にいるところを葉月が見たら、何か気付くことがあるかもしれない。
「それに和泉も調子悪そうだよ。熱あるんじゃない?」
 笹本は向かい側のソファーを示す。
「ここにいれば安全だから。休んでなよ」
 私はどうすればいいのかわからなくて、その場で立ち竦んだ。






 バタバタと足音が近づいてきたのは間もなくのことだった。
「れいちゃん!」
 葉月が雪で髪を濡らしながら部屋に飛び込んでくる。
「この包帯! 何があったの!」
 後から伊吹が入って来て、こちらは顔に怒りを張りつけて私を睨んだ。
「熱がある奴が何やってるんだ。人が看病してやってるのに」
 高飛車だけど心配も滲む言葉に、私は一瞬申し訳なさに首をすくめた。
「優希、なんでれいちゃんと一緒にいるの?」
 けどすぐに、葉月の声に意識を引き戻される。
「葉月こそ、どうしてここに?」
 私と笹本のつながりは葉月にずっと黙ってきた。私と葉月のつながりも、笹本に秘密にしてきた。
 葉月に私の笹本への好意を知られたら……何かが決定的に崩れてしまう気がしたから。
「それより、二人とも病人なんだろ。帰るぞ」
 私がうろたえたことに気付いたのだろう。伊吹が話を逸らそうとする。
「そうね。れいちゃん、歩ける?」
「大丈夫」
 葉月の気が逸れたようで、私はほっとしながら頷く。それを見てから、葉月は笹本に振り向いた。
「優希も……」
「待って。今は俺たち、外に出れない」
 笹本がふいに厳しい声を出す。
「雅人さんが、自分が着くまで俺と和泉はここを動いちゃいけないって。あいつらが追って来るかもしれないから、冴さんに匿ってもらうようにって」
「何があったの?」
 笹本はちらっと私を見る。
「和泉が、客を取らされるところだったんだ。それも、かなり裏の方の店の連中に」
「何?」
 伊吹が顔を険しくする。
「芽衣子さんがやったのね?」
 けれどその前で、葉月が不気味なほど静かな声で問いかけた。
 笹本が頷くと、葉月はくるりと踵を返す。
「葉月。どこ行くの?」
「あの女を探すわ。何をしても雅人さんに突きだす」
 押し殺した声に葉月が本気であることを感じ取って、私は慌てて葉月の腰にしがみつく。
「だめだよ、葉月。危ないよ!」
「許さない」
 笹本も立ちあがって葉月に歩み寄る。
「葉月、伊吹とすぐ帰って。ここにいたら葉月の役者としての顔に傷がつく」
「私?」
 葉月は冷たく、けれど激しい目で笹本を睨んだ。
「そんなものとれいちゃんを秤にかけるの?」
 葉月と笹本の視線がぶつかり合う。
 笹本が何かに気づいたように瞳を揺らした。
「……おい。話し声が聞こえないか?」
 一番扉に近かった伊吹が言葉を挟む。
「片方は和泉の声に似てるが」
「それ、たぶん冴さんだわ」
 葉月が扉に耳を当てて、そしてすぐに顔をしかめて扉を開け放つ。
「零ちゃん」
 隣の部屋にいたのは、母と……芽衣子叔母さんだった。
 反射的に体をひきつらせた私を、笹本が庇うように背中に隠す。
「ごめんね。ちょっと脅かすだけのつもりだったのよ」
 叔母さんは猫なで声で言葉をかけてくる。
「雅人を宥めてちょうだい。零ちゃんの言うことなら聞いてくれる」
「どれだけ腐ってるの、あんたは!」
 葉月が掴みかかろうとしたので、私は慌てて葉月の腕を取って止めた。
「芽衣子。すぐにここを離れて、どこか遠い街に行きなさい。今なら逃がしてあげられるから」
 母が苦い表情で告げたけど、叔母さんは薄く笑った。
「必要ないわよ。冴が一声かければ、雅人は言いなり。もちろんそうしてくれるわよね?」
 まるで母が庇ってくれることなど当たり前のように言った叔母さんを、葉月が激しい目で睨んだ時だった。
「無理だよ、芽衣子さん。あなたが冴さんと雅人さんのどんな弱みを握ってたとしても、雅人さんは揺らがない」
 笹本は静かに厳しく言い放つ。
「いい加減に気づいて。雅人さんは冴さんだけなんだ。……何をしても、あなたを見ることはないよ」
「何それ」
 叔母さんは顔をひきつらせた。
「その言い方、私が雅人の気を引いてるみたいじゃない」
「認めなよ。あなたのしてることはただの嫉妬だ」
「やめてよ」
 叔母さんの笑い方は明らかに奇妙だった。目が泳いでいた。
「ちょっと、零ちゃん、冴。なんで黙るのよ」
 私も、なんとなく気づいていた。芽衣子叔母さんの伯父さんへの敵意の中には、子どもじみた不自然さがあった。
 葉月が冷ややかに叔母さんを見る。
「だって事実じゃない。他人の私から見てもそう思えたわよ」
 小さい子が構ってもらいたくてわざと悪さをするような、そんな感じだった。
「な、何よ。人のこと馬鹿にして。優希、あんた私に甘えてたくせに」
「そうしなきゃ冴さんの立場が悪くなるから仕方なかった。それに」
 笹本は憐みをこめた声で告げる。
「冴さんに八つ当たりしかできないあなたが、あまりにかわいそうだったから」
「……あんた」
 叔母さんは我を失ったように笹本に駆ける。
「自分の立場わかってるの。一生表に出れないあんたと零がかわいそうだったから、構ってあげてたのに」
 叔母さんの手がポケットに伸びる。そこから鋭く光るものが見えた。
「生まれちゃいけない子だったくせに!」
 叔母さんが笹本に向かってナイフを突き出す。
 私は何も考えていなかった。ただ、体は勝手に動いていた。
 笹本は、笹本だけは守らなきゃと、私の心が叫ぶ。
 ……彼がいなくなったら、私は半分なくなってしまう気がした。
 笹本と叔母さんの間に割り込む。抱きつくようにして笹本を突き飛ばす。
 ざく、という嫌な音が遠くで聞こえた気がした。
 痛みは来なかった。私は思わず閉じていた目を開いて振り向く。
「やったわね。これであんたは犯罪者よ」
 葉月が笑みを浮かべてそこに立っていた。
 片手で叔母さんの手首を握って……もう片方の手でナイフを掴んでいた。
「……葉月、血っ」
 だらだらと血が流れていくのに、葉月は微動だにしない。
「もういい。離せ、葉月!」
 伊吹が後ろから掴みかかって叔母さんを取り押さえる。笹本も叔母さんの腕を押さえて葉月から引きはがした。
「葉月に……傷が……」
 私は呆然と呟いて立ち竦む。
 誰より綺麗な、完璧な存在である葉月に傷がついた。
「どうしよう……葉月、ごめん、ごめん……!」
「私はいいのよ」
 私は飛びつくように救急箱を開けて包帯をみつけると、葉月の手に巻こうとした。けど、手が震えて駄目だった。勝手に涙がぼろぼろ出て来て視界も定まらない。
「巻き込んで済まないね。葉月ちゃん、伊吹君」
 いつの間にか部屋の中に伯父が入ってきたことにすら気付かなかった。
「構いません。けど」
 葉月は伯父に低く言い放つ。
「その人を二度とれいちゃんに近付けないでください」
「そうするよ」
 伯父は床に押さえつけられた叔母さんに歩み寄って、その前に屈みこむ。
「優希に聞いたよ。冴に何度も金を借りたそうだね。零に男と食事させて金を取っていた。それで、今回は零に体を売らせようとまでした」
「二人が勝手にしたことよ」
 叔母さんは下から伯父を睨みつけながら、ふっと笑う。
「私を警察にでも突き出そうっての? いいわ、そうしたらあんたと冴のことをばらしてやる。あんたも冴も、優希も零も一生後ろ指さされるわ」
「芽衣子」
 伯父は小さく息をついた。
 彼は憐みをこめた目で叔母さんを見下ろす。
「お前は何て馬鹿なの。そんなことが私たちの弱みになると思ってた?」
 伯父はあっさりと告げる。
「お前を放っておいたのは、冴がお前を庇っていたからだよ。それ以外に理由なんてない」
「嘘言わないで。じゃあ……」
「私にとって、お前は何の価値もないんだ」
 叔母さんが息を呑んだ気配がした。
「私は冴がいればいい。お前がいてもいなくても変わらない。……でも」
 伯父は叔母さんの首を片手で掴んだ。
「お前は害になってしまった。いたら邪魔なものに」
 残酷なくらい綺麗に、伯父さんは微笑んだ。
「後のことなど気にしなくていいよ。……お前は二度と帰って来られないから」
 伯父さんが扉を開け放つと、数人の男の人たちが踏み込んできた。
「私に何をする気!」
 男の人たちに無理やり立たされる叔母さんが焦って叫ぶ。伯父は黙って首を横に振る。
「冴! 私、いろいろ助けてあげたじゃない!」
 助けを求めた叔母さんに、母は口を開く。
「兄さん……」
「駄目だよ。お前の害になるものは置いておけない」
 伯父は優しく母に返すだけだった。
「零! あなたの面倒見てあげたわよね」
「聞いちゃだめ」
 葉月は私に厳しく言う。
 鉄の匂いがした。私はそれが葉月の流した血だと思うと、体が痺れたように動かなかった。
 叔母が男の人たちに連れられて行った後、笹本がうずくまる。
 伯父が笹本の前に屈みこんでその額に手を当てる。
「熱がだいぶ高いね、優希。葉月ちゃんも手当てしなきゃ」
 叔母さんのことを止めなければ。笹本を早く寝かせなきゃ。
 ……どうしよう、葉月に傷をつけてしまった。
 頭の中がいっぱいになって、私は目の前が真っ暗になる。
「病院へ……零?」
 何もかも限界だった。
 加熱しすぎて、体も頭も動かなくなる。
 私は前に倒れ込みながら意識を失った。
 いろんなものが壊れてしまった気がする。元には戻れない予感がする。
「大丈夫」
 誰かがそう呟いて私を受け止めてくれたけど、それが誰かはわからなかった。
 雪の日の夜から、私と笹本は入院することになった。
 笹本は熱のある体で無理をしすぎて、風邪をこじらせてしまった。幸い、三日ほどで退院したそうだ。
 けど私は一ヶ月ほど入院していた。風邪が治ってもずっと点滴をしていた。
 悪夢が止まらなくて、うまく食べ物が飲みこめなかった。私の体の中でバランスが崩れてしまったように、食べて寝るという簡単なことが満足にできなかった。
 叔母さんのことも心配だったけど、それ以上に私の心を占めていたのは葉月のことだ。
 葉月に怪我をさせてしまった。傷が残ったらどうしよう。私のせいだ。
 葉月に笹本への感情を知られてしまったら、葉月はきっと……と考え始めると、私は目の前が暗くなって動けなくなってしまう。
「れいちゃん。家に帰ろうか」
 ある時、毎日お見舞いに来てくれた葉月が言いだした。
「先生も、住み慣れたところでゆっくり過ごした方がいいって」
「でも……」
「私、雅人さんに家事を教わったの。簡単なものだけど、料理もできるようになったのよ」
 私は驚いて、すぐに顔をかげらせる。
「させられない。だって葉月、怪我してる」
 葉月は微笑んで私を見た。
「もう治ったわ。傷はあるけど、それもれいちゃんが不安なら整形でも何でもして消すわ」
 私の心を包むようにして葉月は言う。
「私はれいちゃんが望むなら、いくらでも綺麗になってみせる。小さい頃からずっとそうしてきたように」
 少し黙って、葉月はぽつりと呟く。
「それから、私は優希と別れたわ」
 それは今、私が一番聞きたくない言葉だった。
 私のせいで葉月が笹本と別れてしまったらと、私はずっと怖かったのだから。
 戦慄が走って、私は震える。
「そんな、それは」
「ごめんね。私が優希と付き合ってたから、れいちゃんは苦しんでたのね」
 葉月はじっと私の目を見て告げる。
「れいちゃんが好きなのは、優希なんでしょ?」
「違う!」
 私は首を横に振ったけど、葉月は動じなかった。
「隠さないで。誰かを好きになるって気持ちは、悪いものじゃないの。私も、隠すことはもうやめた」
 葉月は私のベッドの横にひざをついた。
 それから私の手を取って、葉月は告げる。
「私が一番好きなのは、れいちゃんよ。家族より友達より……恋人より、誰よりあなたが好き」
 大きな澄んだ瞳で、葉月は私をみつめた。
「れいちゃんが私を想ってくれる、その気持ちとはきっと違う。そう言ったら、私を嫌いになる?」
「そんなことはならない。絶対」
 私は葉月の手を握り返して言う。
「私だって葉月が好きだよ」
「そう言ってくれるのは嬉しい。でもね、今は待ってみたいの」
 薄暗い病室の中で、葉月だけが輝いているように見えた。
「私しかいないから私が好きなんじゃなくて、いろんな人を見て、その中で私が一番好きだって言える日まで」
「いろんな人を……?」
 葉月は頷いて言う。
「ねえ、心を自由にさせてあげて。れいちゃんは初めて誰かを好きになったんでしょう? せっかく抱いたその感情を、成長させるだけ成長させてあげなさいな」
「でも……それじゃ、葉月に悪いよ」
 私が俯くと、葉月は私の頬に手を置いた。
「れいちゃんは、私がれいちゃんを好きなことを止める?」
「そんなことしないよ」
「それなら」
 葉月はどこにも汚れのない、美しい微笑みを浮かべた。
「一番好きな人を好きでいられる、私は誰より幸せよ」
 だかられいちゃんも、自分の好きなようにすればいいのよ。
 葉月はそう言って、そっと私の頭を抱いた。








 葉月が一生懸命作ってくれる料理を食べる内に、少しずつ私の体調は快方に向かった。
 葉月が隣の部屋にいてくれると思うと、悪夢に目覚める回数も減った。
 まだ時々熱は出るけど、何とか外に出ることもできそうだった。葉月に暖かくするようにと言いつけられて、いつも以上にぐるぐる巻きで学校に向かった。
 久しぶりに掲示板の前を通りかかったら、そこに見慣れないいくつかの封筒と用紙が貼ってあった。
『キャンパスプロジェクト。あなたの「大学の風景」を演劇にします』
 私は何気なくそのポスターを眺めて、下の方に書かれていた名前に気づく。
「あ」
 企画責任者、笹本優希。
「和泉」
 ひょいと後ろから覗き込んできたのが笹本その人だったから、私はびっくりして身を引く。
「体大丈夫?」
「あ、うん……」
 何回かお見舞いには来てくれたけど、退院してから会うのはこれが初めてだった。
「笹本、これ」
 私がとっさにポスターを指さすと、笹本は頷いて切り出す。
「四月の新歓シーズンに向けて、有志で大学を舞台にしたオムニバスの演劇をやることにしたんだ。うちの大学生にアンケートをとってシーンを選ぶ」
「宣伝文句に、「俳優、伊吹竜也出演」って書いてあるけど」
「うん。客寄せパンダならぬ客寄せ伊吹」
 冗談めかして笹本は言う。
「いや、でも本当に伊吹が出演することになってるから。そのおかげでアンケートの回収率が絶好調」
 笹本はふいに真面目な顔になって私を見る。
「和泉も、一緒にこの劇を作らない?」
「……私?」
「きっと楽しいよ。俺も、和泉が絵を描いてくれると嬉しい」
 それはサークルに誘った時と同じ言葉のようで、何か違う気がした。
 私は笹本をじっと見てふと問う。
「どうして笹本はこの劇を企画したの?」
「それ聞くと、一気に俺が情けなくなるんだけど」
 笹本は苦笑して、掲示板に背中をもたれさせた。
「葉月に振られた悲しさをまぎらわすために、打ち込むものが欲しかったからっていうのが、正直なところ」
 黙った私に、笹本は続ける。
「俺、子役やってたんだ。それなりに評判も良かった。けど俺、容姿が地味で背も伸びなかったから、ある時主役から外されてさ。それでいっぺんに役者から遠ざかってた」
 情けないだろと笹本は口の端を歪める。
「それでも、何かあった時に俺の頭に真っ先に浮かぶのは演劇なんだ。嬉しい時もへこんだ時も、無性に演劇がしたくなる。だからおもいきって、俺が企画してみた」
 笹本は少し首を傾けて私を見た。
「ただ、動機は不純だけど演目自体は真剣。俺、この企画のためにサークルを抜けたから」
「え、どうして?」
「一年じゃ企画からすべてはやらせてくれないだろ。サークルにいたままじゃできない」
 手を合わせて、笹本は言う。
「崖っぷちスタートの俺を助けるためと思って、和泉も手伝ってくれない?」
 お願いしますと笹本は頭を下げる。
 そこまで言われてしまっては、私は断るすべを持たなかった。
「私は絵を描くことしかできないけど、それでよかったら」
「ありがと」
 笹本はほっとしたように笑って、小さく付け加えた。
「……元気になるよ、きっと」
「え?」
 訊き返した私に、笹本はメモを渡す。
「これ、第一回の会合の日時と場所。終わったら親睦会の予定だから。じゃ」
 慌ただしく笹本が去っていくのを、私は見送った。
 私がメモを読んでいると、ぽんと肩が叩かれる。
「藤原さん」
「調子、戻って来たみたいでよかったわ」
 藤原さんはにっこりと笑いかけて、それから私のメモに目を細める。
「優希もようやく渡せたみたいだし」
「ようやく……?」
「彼、二週間くらい前から暇があればこの掲示板前にいたのよ。ここ、学部生ならだいたいみんな通るじゃない。待ってたのね」
「待ってたって、まさか」
 私は信じられないことを聞いた気がして、迷いながら口にする。
「……私を?」
 微笑んで頷く藤原さんに、私はメモをまじまじと見る。
「どうして?」
 藤原さんはその問いには答えず、メモをつと指さす。
「この親睦会の場所、私の彼氏が店長をやってる店なの。おすすめよ。ぜひ楽しんでいってね」
 それから藤原さんは笹本とは対照的に、優雅にゆったりと去っていった。
 私は久しぶりの大学の講義を受けて、早めにマンションに帰る。葉月はまだ帰っていなかったから、私はとりあえず洗濯物を取り込み始めた。
 夕暮れの光が差し込んできていて、その眩しさに目を細めていた時だった。
 インターホンの音が鳴って、私はモニターの前に立って来客を確認する。
 そこに映っていた人の姿に、私は息を呑んだ。慌てて玄関に向かう。
「上がってもいいかしら? 少し、話があるの」
「あ、ええと、はい」
 母だった。私はひとまずリビングに通してテーブルに案内する。
「ダージリンでいいですか?」
「ええ」
 二人ではほとんど話したこともないので、私はどんな風に相手をすればいいのか困りながらも紅茶を用意する。
 母は店で見るような着物ではなく、デニムに灰色のコートという地味な格好だった。ただ、そのシンプルさがかえって母の透明な美しさを際立たせているような気がした。
「突然来て悪かったわね」
「いえ、私も一度お話したいと思っていたので」
 紅茶を置いて私も席につくと、母はゆっくりと切り出した。
「芽衣子のことね?」
「……はい」
 例の事件の後、私は伯父に芽衣子叔母さんがどうなったのか訊いた。
――芽衣子って誰のこと?
 けれど伯父は微笑んでそう言っただけだった。
「伯父さんは、まるで芽衣子叔母さんが最初からいなかったみたいに言ってました」
「世間的にはそうなってるんでしょうね。家も引き払われてたし仕事もやめたことになってるわ。行方を調べて助けてあげたいけれど……」
 母は苦しそうに眉を寄せながらはっきりと告げる。
「あなたはもう詮索するのをやめなさい。優希にもそう言っておいたわ」
「でも」
「いざとなったら、兄さんは優希やあなたにさえ容赦しない。笑いながら残酷なことをする。そういう人よ」
「……それでも」
 私はずいぶん前から気付いていたことを、そっと口にする。
「あなたは伯父を庇うんですね」
 母は目を伏せた。
「私の罪ね。私が兄さんに無関心を貫いていれば、芽衣子が暴走することはなかったのに……私には、それができなかった」
 母たちは、敵意と好意と無関心で、ある意味均衡が取れていた三兄妹だと思っていた。けれどその均衡は、実際はもうだいぶ前に破られていたのだろう。
「訊きたかったことがあるんです」
 私は意を決して母を見る。
「私の父親って、もしかして」
「わからないわ」
 母は自嘲的に笑う。
「私は体を売って稼いでた女だもの」
「それはあなたが、私の父親が誰か隠すためだったんじゃないですか?」
 私は一瞬ためらいながらも言う。
「笹本の母親も……」
「それを知ってるのも、誰もいないわ。優希にも言ってあるけれど」
 母は席を立って、窓に手をつく。
「受け入れなさい。あなたの母親は誰とも知れない相手と子を作った女よ。もしかしたら、とても罪深いかもしれない」
 今の季節は花をつけないベランダの植物たちを眺めながら、母は静かに告げる。
「けど、そんなことを気にするのはよしなさい。あなたには何の罪もない。どんな土から生まれたとしても、あなた自身は綺麗な花よ」
 振り返って、母は黒曜石のような瞳で私を見る。
「零。自分の想いを咲かせて、あなたの一番大切な人と生きなさい。それがどんな罪深いことでも、誰かを傷つけることになっても」
「……母さん」
 私が思わずそう呼ぶと、母は微かに目を細めた。
「私もそうやって生きてきた。……けど、何一つ後悔してないわ」
 私はしばらく母を見つめたまま動けなかった。







 一月の終わりに、私は笹本の企画した「キャンパスプロジェクト」の会合に出かけて、夕方に親睦会にも参加することにした。
「いらっしゃい。楽しんでいってね」
 その店は大学生御用達の店だから、私もサークルで来たことがある。藤原さんの彼氏であるマスターの蝉谷さんは、三十くらいのハンサムな人だ。
 お店はいっぱいだった。他の大学生たちもいるけど、今回のプロジェクトのメンバーだけでも結構人が集まっていたからとってもにぎやかだ。
 紹介された限りでは、確か十人くらいだったと思う。その中には一緒に大道具作りをした九瀬君や輪島さん、藤原さんもいる。
「和泉ちゃん、これおいしーよ」
 ぼんやり座っていたら、輪島さんのお姉さんである千春先輩が料理を勧めてくれた。
「こら、千春。病み上がりの子に油ものはきついだろうが」
 気を遣ってくれたのは今回監督をつとめる菊田先輩だった。二人は、会合の時でも隅っこにいる私にも気安く声をかけてくれた人たちだった。
「いえ。ありがとうございます」
 お礼を言って少し話してから、私はその場を離れた。
 私がお皿を持って壁際を歩いていると、九瀬君と輪島さんが二人で黙々と飲んでいるのが目に入った。藤原さんはマスターの蝉谷さんと一緒にお皿を配ったり酌をしたりしていた。
 思い思いにみんな過ごしていた。私も、自分から会話に加わったり盛り上げたりはできないけど、それを許してくれるメンバーだったから気が楽だった。
「体調大丈夫?」
 笹本がそっと問いかけてきて、私はうん、と頷く。
「そういえばね」
「笹本」
 そのまま隣に腰を下ろそうとする笹本を、私は軽く制する。
「私は気にしなくていいから。主役が隅にいちゃ駄目だよ」
 当然みたいに気を遣ってくれる笹本に、いつまでも甘えているわけにはいかない。
 何か言いかけた笹本の横を通り過ぎて、私は自分の落ち着く場所を探して歩く。
 ふと壁にかかる水彩画の前に来て、私は足を止める。
 この店で一番私が好きな絵だった。淡い色合いのそれをじっとみつめて、その前に腰を下ろすことに決める。
 大学に入ってからサークルの飲み会に参加するたび、笹本が話しかけてくれた。私は笹本の聞き心地のいい声に耳を傾けて、笹本が穏やかに頷いてくれるのを見るのがただ楽しかった。
――れいちゃんも、自分の好きなようにすればいいのよ。
 葉月は笹本と別れてまで、私の自由を作ろうとしてくれた。
――自分の想いを咲かせて、あなたの一番大切な人と生きなさい。
 ずっと私への関心すら見せなかった母が、初めて私に教えてくれたことも自由だった。
 それだったら、私が私のままでいられる頃に戻ってはいけないだろうか。
 元々私は一人が好きだった。静かに絵を描き続けるのが大切な時間だった。
 ……今回の演劇を最後にして、また一人で絵を描く日々に戻ろうと思う。
 観客は葉月で、時々伯父が見てくれれば、それで私には満たされた幸せな日々だ。
 水彩絵を見上げる。
 この絵は花を描いていることはわかるのだけど、何の花なのかははっきりさせていない。様々な色が混じり合っているし、形もあいまいだ。絵を見る人によって連想するものが違うようにできている。
 けど、私はこの絵を見るたびに同じ花を連想する。たった一つの色を目で追って、一つの形を頭に思い描く。
 どうしてだろうな、と考えに沈んでいた時だった。
「和泉」
 すぐにその低い声は伊吹のものと気づいた。
 そういえば、笹本とあれだけ仲が悪いのに伊吹がこの劇に参加したことが不思議だった。笹本は客寄せのために伊吹を使ったのだろうけど、伊吹の方に参加するメリットがあるとは思えないのに。
「こっち向けって言ってるだろ」
 私がぼんやりしていたからか、伊吹が苦笑したような声で言ったのが聞こえた。私はくわえていたストローから口を離す。
「ああ、なにか……」
 用か、と続けるつもりだった。
 次の瞬間、伊吹の顔が目の前にあった。
 そして唇に何か触れた。柔らかくて、微かな体温を感じる何かに。
 ……え?
 顔を離して伊吹がふっと笑う。得意げな、悪戯っ子のような顔だった。
 まさかとは思うが、そのまさかなのか。
 ……キスされた? 私が、伊吹に?
「何する伊吹!」
 私が椅子を蹴飛ばすようにして立ちあがると、伊吹は笑う。
「殴れば? 俺は謝らないが」
「く……」
 殴りたいが、やったことがないのでどうやって殴ればいいのかわからない。
「えと」
 罵りたいけど、やはり人を罵ったことがほとんどないので言葉も出てこない。
「やってみろよ」
 そもそも反省しない相手を殴って何かいいことあったっけ?
 ああ、駄目だ。混乱して自分でも何を考えているのかわからない。
「オッケー」
 ふいに、伊吹の肩を叩く手があった。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
 ドンと鈍い音がした。
 伊吹は腹の辺りを押さえて咳き込むと、目を上げて低く言う。
「お前に殴られる理由はないぞ、笹本」
「俺がむかついたから」
 笹本がにこやかに拳を握りしめていた。
「顔を狙わなかっただけありがたいと思えよ」
 口の端を引きつらせる笹本に、伊吹は悪びれずに言う。
「で? 誰かわかったんだろうな」
「ったく、教えるのをやめてやろうか」
 笹本は一歩伊吹に近付いて、小声で何かを伝える。
「ああ、あの女か」
「……何の話?」
 それに伊吹が頷いているのを見て、私は怒りを忘れて首を傾げる。
「とりあえず、外に出るか」
 見ると、サークルの皆の目が私たちに集中していた。私は伊吹に引っ張られて裏口から出ることになった。








 伊吹に掴まれたまま、私は店の外に出た。
「はい。ちゃんと着なさいね」
 外気の冷たさに私が気づく前に、後から出てきた笹本が私のコートを渡してくれた。
「ありがとう。それで、何がどういうこと?」
 最初の衝撃が通り過ぎて、私は少し落ち着きを取り戻す。
 私が伊吹と笹本を交互に見ると、笹本が話しだす。
「伊吹がお兄さんの彼女を探すために、みんなの注意を引きつけようとしたんだよ。こんな方法だと知ってたら計画に乗らなかったんだけど」
「彼女を探してどうするの?」
「お兄さんを弄んでるかもしれないから、伊吹は一言物申したいんだってさ」
「なるほど」
 私はこく、と頷く。
「なんだかわからないが、伊吹のブラコンからの行動なんだな」
「おい」
「気にしなくていい。私もファザコンだし、笹本もマザコンだ。何も恥ずかしいことはない」
 伊吹と笹本が微妙な顔をしたけど、私は納得がいったことを口にする。
「でも私で遊ぶな。伊吹と違って、私はああいうことは普通にすることじゃないんだ」
「俺と違ってって何だ。俺だって普通はしない」
「嘘だ。この間のドラマだけで五人以上としてるだろう。節操なしに」
 私が指を立てて言うと、笹本がくすっと笑った。
「伊吹、ざまあみろ」
「前から思ってたんだが、笹本。お前性格悪いだろ」
「伊吹にそういわれるなんて光栄だね」
 嫌みたっぷりに言い合う二人を見て、私はふと思う。
「なんか……仲良くなったんだな、笹本と伊吹」
 考えたことが言葉に出ていた私に、二人が嫌そうに顔をしかめる。
「どこが?」
「そもそも一緒に演劇作ろうとするなんて、前はなかった」
「あー、それは……」
 笹本が少し困ったように言葉を濁した時だった。
「笹本君、ちょっと来て」
 裏口からマスターの蝉谷さんが出て来て、笹本の肩を叩く。
「え、蝉谷さん、あの」
「ごめんねー。俺、伊吹君応援派だからね」
 半ば無理やりに店内に引っ張っていく蝉谷さんを、私は首を傾げながら見送った。
 私も何となく室内に戻ろうとしたら、伊吹に呼び止められた。
「和泉」
 私が顔を上げると、伊吹は私より頭二個分くらい高い視点から見下ろしていた。
「思ったより元気そうで安心した」
 私は口元を歪める。
「……本当は、こんな風じゃいけないんだ」
 芽衣子叔母さんたちのことや、別れてしまった笹本と葉月のことを考えると、私が元気になってはいけないような気がする。
「そうだな、いつものお前の覇気がない。だから俺と笹本はこの劇を作るんだ」
「え?」
「今回の計画は、お前を元気づけるためのものだからな」
 私は慌てて言葉を挟む。
「いや、笹本は葉月と別れたことにショックを受けて、それでサークルを抜けてまで……」
「うちのサークルは実力主義だ。所属しながらでも演劇の企画はできる。サークルを抜けたのは、お前が参加しやすいメンバーにするためだよ」
 考えてもみろと伊吹は今回の企画のメンバーを挙げてみせる。
 確かに、私が顔を合わせづらい「アース」からは、藤原さんと伊吹、笹本しか参加していない。後は姉妹サークルの「ヘイズ」のメンバーばかりだ。
「もし参加しなくても、お前に見せたかったんだよ。俺もそれには賛成だったから計画に乗ったんだ」
「私に見せる?」
「今回のテーマは、「大学の風景」だったな」
 伊吹は腕組みをしながら灰色の目をじっと私に合わせる。
「お前は花を見るのが好きらしいが、大学は花だけの場所じゃない。一人でいたがるが、大学は一人でいる場所でもない」
 私は目を伏せて言った。
「今回の劇が終わったら、私は一人で絵を描くことに戻ろうと思うんだ」
「させない」
 はっとして目を上げると、すぐに伊吹と目が合った。
「劇が終わる頃には、お前は演劇がしたくなってる。一人が嫌になってる。俺がそうさせる」
 強い口調で伊吹は言葉を落とす。
「和泉。俺はお前が学校内で声をかけるなと言ったらそうしたし、家に呼んでも別に何もしなかった。お前は和泉雅人みたいな、紳士的で無欲そうな男でないと抵抗があるとわかってたから」
 伊吹はそこで声を低めた。
「けど、俺はお前の父親になりたいわけじゃないんだよ。俺がなりたいのは、お前にとって一番の男なんだ。紳士的で無欲でなんてやってられるか」
「お前は勝ちにこだわりすぎてるよ、伊吹。誰かに負けたくないから躍起になってるだけだ」
「そうだ。確かに俺は負けが嫌いだ。なんでだと思う?」
 私は少し考えて答える。
「自信があるからか?」
「好きだからだ。他の誰よりも」
 ためらいなく答えて、伊吹は続ける。
「お前の一番になりたいと思うのは、負けたくないからだ。どうして負けたくないかと訊かれたら、それは俺が一番お前のことを好きだからだ」
 わかるかと言われて、私は言葉に詰まる。
「だから俺が一番得意な演劇で勝負するんだ。舞台に上がれば、俺は誰にも負けない」
 伊吹は一歩歩み寄って私を覗き込んだ。
「俺は勝つまで勝負し続けるからな」
 いつか見た、燃える氷のような目だった。
「見てろ。お前は絶対、俺のことを選ぶから」
 その目の光に身動きが取れないでいる内に、口に何か触れた。
「……ん?」
 口の中にも柔らかいものが触れた。
 というより、なめられた? 
 ……何にだろう、と考えた途端、私はかっと顔が熱くなるのを感じた。
 両手でおもいきり伊吹を突き飛ばすと、伊吹はしれっと答える。
「さっきのは俺的にキスに入らないからな。こっちをカウントしてくれ」
 反射的に手を伸ばして伊吹の口を塞ぐ。その手を伊吹は易々と掴んだ。
「お前が知らない面白いことはたくさんあるんだよ。葉月や伯父じゃ一生体験できないことも、俺なら教えてやれる」
 艶っぽく笑った伊吹に私はぎくりとして、ついで慌てて言い放つ。
「私はごめんだ」
「そう言うな。楽しいぞ」
「要らない! 殴るぞ、伊吹!」
 怒って突き放す私に、伊吹はふっと目を細める。
「その意気だ」
 私は思わず手を下ろす。
「お前……」
 私を元気づけるために、わざと怒らせるようなことを言ったのだろうか。
「楽しめよ、和泉。大学も演劇も恋愛も。俺はいつでも相手になってやるから」
 伊吹は笑って言う。
 笑いながらも目だけは真剣で、私は息を止める。
「また泊まりにこいよ」
「……邪心を感じるから嫌だ」
 私がそれだけやっと呟くと、伊吹は楽しそうに喉を鳴らして笑っていた。







 「キャンパスプロジェクト」の間、時間は走るように過ぎていった。
 シナリオはアンケートとチームのみんなの体験談を元に、六つのシーンに区切って考えられて、衣装や大道具は一から作られた。
 朝早くから夜遅くまで、やることはいくらでもあった。
 チームのみんなと劇を勧めているうちに、私は自分が楽しんでいることにも気づいた。
 相変わらず調子を崩して寝込むことはあったけど、演劇に打ち込んでいれば気持ちは落ち着いた。
 その慌ただしくも満たされた時間の中で、私はずっと考えていたことがある。
 私はこの時間を手放せるだろうか。終わっていくことを受け入れられるだろうかと考えた。
 三月の終わり、夕方の五時ごろ、私たちはリハーサルを終えた。
 前評判が高かったので、まず学部生を対象に発表して、さらに新入生歓迎シーズンに二回、全部で三回の公演を行う。
 けど、三ヶ月近く準備してたった三回の公演だ。それで終わってしまうのだと思うと、寂しくも感じた。
「え、葉月ちゃんが明日髪セットしてくれるの?」
「私にできるお手伝いってそれくらいだもの」
「葉月ちゃんに髪を触ってもらえるなら、私、丸坊主にしてもいいわ!」
 手伝いに来てくれることになった葉月に、藤原さんが興奮しながら話しかけていた。
 少し早目にリハーサルを終えたけど、仲のいいメンバーたちは芝生の上でいくつかの輪を作って話している。
 私も帰る支度はできているけど、芝生に座ったまましばらくぼんやりとしていた。
「和泉」
 ふと顔を上げると、そこに笹本がいた。
「どうしたの?」
 隣に座ってそっと問いかける笹本に、私は苦笑する。
「いよいよ明日だから」
「不安? みんなそうだよ。だからなかなか帰らないんだ。俺もね」
 笑って付け加えた笹本から、私は目を逸らす。
「不安……もある、けど。私はこれで終わっていくんだなと思うと、名残惜しくて」
 黙った笹本に、私はぽつぽつと続ける。
「楽しかった。笹本が誘ってくれて嬉しかった。だけど、それももう……」
「終わらせなければいい」
 穏やかだけど強引な口調で笹本が遮る。
「また公演をやろうよ、和泉。俺が企画するから」
 その優しい提案に頷けたらどんなにいいだろうと思った。
「大学はあと三年もあるよ。いくらでも機会はあるんだよ」
 言葉を重ねる笹本を、私はなかなか見られないまま聞いていた。
「公演が終わったら言おうと思ってたんだけど」
 笹本はためらいながら言った。
「俺、和泉と一緒にいたいんだ」
 心が跳ねあがって、同時に私の中で叩き落とされて、私はその苦しさに唇を噛んだ。
「笹本。それが、優しさの使い方を間違えてるってことだよ」
 笹本の言葉をそのまま喜ぶことは、私にはできなかった。
「そういうことを言うから誤解される。私に対して言う言葉じゃない」
 覚悟を決めて、私は言葉を放つ。
「……だって私たち、友達なんだよ」
 沈黙が、一瞬あった。
「うん」
 違和感を覚えて私は顔を上げる。
「そうだよね。友達だ」
 すぐに笹本は顔を背けて立ちあがったから、見間違いかと思った。
 ……笹本の右頬から一筋の涙が伝ったように見えたのだ。
「れいちゃん」
 葉月が近寄って来て私の頬に手を伸ばす。葉月の手が濡れた。
 気付かなかった。私の頬にも涙が伝っていた。
 それを認識した途端、ぽたぽたと涙が落ちてくる。
「追いかけなさい、すぐに」
 葉月は私の顔を覗き込んで言う。
「終わっていいの? 終わらせていいの? ……まだ、終わってないのよ?」
 どっと、心の奥から感情が流れ出てくるのを感じた。
 止めることのできない奔流は、私の体全体を押し流す。
 立ちあがって走りだす私を伊吹が見ているのに気づいていた。
 けどすれ違う時に微かに目を細めただけで、伊吹は私を見送った。
 私はサークル棟を通り抜けて門の方に向かう。
 今回の演劇で大学生たちに選ばれたのは、食堂や時計塔、講堂といった人の集まる場所だったけど、この辺りはそのどれからも離れている。
 両脇に桜が立ち並ぶ一角だから、新歓シーズンならお花見でにぎわう場所だけど、花が咲かない今の季節は閑散としていて大学生の姿もほとんどない。
「笹本」
 木々の隙間に、桜の木にもたれている笹本の後ろ姿があった。
 私の呼びかけに笹本はぴくりと反応した。けれど振り向くことはなく、聞こえなかったようにそのまま足を進めようとする。
「待って」
 私は走っていって笹本の前に回り込む。
 笹本は少し後ずさった。だけど桜の木に背中がぶつかって、そこで止まる。
 ぎこちなく笑った笹本の頬は濡れていた。
「と、これは……明日の練習、だよ」
 私の視線が頬を走ったのを見て取ったのか、笹本は慌てて頬を拭う。
「ごめん、私嘘ついた」
 私は笹本の前に立って、じっとその目を見返した。
「葉月に悪いから、こんなこと言われたら笹本だって困ると思って、言えなかった。けど」
 揺れる茶色の目をみつめながら、私は言う。
「……私、笹本が好き」
 私にとって、今でも葉月が一番綺麗だ。伯父が男の人の理想だ。私のことを一番好きでいてくれるのは伊吹かもしれない。
 けど、それとは違う、命のかたまりみたいな感情を持っている。
「いつかはさよならの時が来る。でも今はいや」
 初めて会った時から惹かれた。一緒にいて心が暖かくなった。ちょうど、心に春が訪れたように。
 欠点に悲しんだときもある。彼は愛想が良すぎて使い方を間違えている。たまらなく子どもっぽい。そういうことを理由に、諦めようとしていた時もあった。
 体の横で手を握り締めて、私は笹本を見上げる。
「一緒にいて。抱きしめさせて」
 育ててきた感情をようやく外に出すことができた。その幸せは、初めて知った。
 腕を回して抱きしめる。笹本もその上から腕を重ねて、しばらく私たちは動かなかった。
「うん。……いいよな。一緒でも」
 笹本は腕を回したまま顔をのぞきこんで、私の好きな笑顔になって言った。
「覚えてないかな。和泉、小さい頃に一度だけ葉月と一緒に劇場に来てた」
「……あ」
「俺の初めてのキスは、和泉だった」
 笹本は照れくさそうに打ち明けて言った。
「いつか、さよなら。それまで……」
 笹本が投げかけた言葉の先、私の答えもまだ決まっていない。
 昔の人は、花といえば桜と考えていたらしい。
 ……私にとって、君は春がくるたびに心惹かれる花そのものだ。
 私はもう一度笹本を抱きしめて、そうだよと彼のように相槌を打った。

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