梅雨の季節に入ると長雨に憂鬱になる人もいるというけど、私はそうでもない。
 眠気を誘うような雨の音や漂うようなぬるい気温をぼんやりと感じて、雨ですくすく育つ植物を見守っている。
 最近のお気に入りは、中庭の見える休憩室の窓際でガラス越しにあじさいを眺めることだ。
「描かないの?」
 昼休みにその休憩室の窓際であじさいを見ていたら、横から声が割りこんできた。
「私は見る時はひたすら見ることが好き。描く時は描く」
「なるほどね」
 私の横の床に座り込んで、笹本は私の手元にお菓子を落とす。
「でも食べる時は食べなさいよ。はい、今日の分」
「昼はお腹空かないの」
「健康のためだと思って食べなさい。だからそんなに痩せてるんだよ」
 毎週木曜日の昼休みになると、笹本はここに現れる。そして私の横に座って何か食べ物を渡して、話していく。
「雨が続くね。和泉は雨好き?」
 窓の外で降り注ぐ霧のような雨を見やりながら、笹本はゆったりと問う。
「好き。植物がよく育つから」
「ああ、そういえばあじさいが好きって言ってたよね。あじさいを描いた絵もある?」
「あるよ」
「見せて」
 私がスケッチブックを取り出してページをめくると、笹本は少しだけ私の方へ覗き込む。前髪が流れる。
 笹本の髪は癖毛だけど柔らかそう。そんなことを、カロリーメイトをかじりながらちらっと思った。
「和泉の絵は年季入ってるな。デッサンが安定してる」
 感心したように呟いた笹本の言葉に、私は彼の顔を見返す。
「絵は幼稚園の頃から描いてるけど、専門で学んだことはないよ」
「そう? なかなか堂に入ってると思うけどね」
 笹本はスケッチブックを手にとって、大きな目を細める。
「俺も絵を描くのが好きなんだ。演劇サークルに入ってるんだけど、大道具で背景画とか描いたりするんだよ」
「初めて聞いた」
「暇ができたら見においでよ。今月は自信作だから」
 悪戯っぽく笑って、笹本はちょっとだけ首を傾けた。
 毎週木曜日の昼休み、中庭に隣接した休憩室。
 いつもこんな感じで、何か特別な話をするわけじゃない。けど笹本の聞き心地のいい声と相槌に包まれている内に、時間はあっという間に過ぎている。
 薄々と気づいている。
 私がこの時間、この場所で楽しみにしているのは風景じゃなくて、笹本の来訪なんじゃないかと。
「あ、こんにちは」
 笹本は通りかかる生徒で知った顔がいると、逐一挨拶をする。
「ドイツ語だっけ。授業どう?」
「いや、先生が面倒くさくてさ」
 そして短く会話するということを繰り返す。一回の昼休みの間で、だいたい十人くらいだ。
「笹本は誰とでも話すよね」
 何気なく言った私に、笹本はなぜか苦笑を返した。
「よくないって思う」
 私は首を傾げる。笹本は私にはとても真似できないほど人と上手に接する。
「いいことだと思うけど。分け隔てなく人と話せるってことは」
 笹本はあいまいに笑っただけだった。
 私はずっと、友達は葉月だけでいいと思っていた。けど、笹本と話すことは楽しい。
「良くないんだ」
 ぽつりと同じ言葉を繰り返した笹本に、私はやっぱり首を傾げることしかできなかった。






 私の親しい人はほんの一握り。ただ、不定期ながら家を訪ねてくる親戚が二人だけいる。
「それでさ、この部長って肩書きだけは偉いやつがまたスケベでー」
 一人が、芽衣子(めいこ)おばさん。三十三歳の独身で、都内の会社に勤めている。
 放っておけばいくらでも食べるし、実際ふくよかな人だから、最近はお茶請けに甘いものを出すのは控えている。
「新人がまた使えなくてねー。院卒の女子だけど、プライドばっかり高いんだ」
 私が何も言わなくてもひたすら話し続ける人だ。それも話題が基本的に会社の愚痴一色、話も前後してわかりにくい。
「そういえば零ちゃん、学校楽しい?」
「うん」
「そっか。それでこの間プリンターが壊れて」
 けど私はこの叔母が好きだ。両親とも祖父母も離れて暮らしている私を、昔から構って気にかけてくれた人だから。
 特別何かをしてくれるわけじゃないし、彼女もただの暇つぶし程度だとは思うけど、たびたび私を訪ねてくれる貴重な親戚だった。
 私が言葉を挟む間もないままに午後は過ぎて日は落ちる。
 暗くなってきたからカーテンを閉めようとして立ちあがった私の耳に、インターホンの音が届いた。
「おばさん。時間だから、私行かなくちゃ」
 叔母はこの家を訪ねてくるもう一人が誰か知っているから、私がこれから誰と出かけるかを察して露骨に顔をしかめる。
「もうそろそろあいつから離れたら? 金は世話になってるかもしれないけどさ、いちいち会ったり食事することないじゃん」
「おばさんとだって会って食事してるよ」
「私は女だからいいんだよ。零ちゃんは年頃なんだからさ、もうあいつと関わり合いになっちゃ駄目だって。絶対あいつ、光源氏か何かになったつもりでいるんだ」
 年頃になったからだと叔母は説明するけれど、彼女は私が五歳くらいから同じことを言っている。
 あいつに心を許すな。あいつは邪だ。あいつは男なんだと呪うように言い聞かせた。
「伯父と姪がいつまでもべたべたしてたら気持ち悪いって」
 玄関の鍵が開いて、伯父が顔を出す。
「零? どうかしたのか?」
 なかなか私が出て来ないから心配したのだろう。伯父が玄関から上がってきた。
「ごめん、おじさん。今行くから」
「いいよ。時間はあるからゆっくり支度しなさい」
 伯父は私の姿をみとめるとほほえんでソファーにかける。
「あんた、いい加減に零ちゃんから離れなよ」
 険しい顔で伯父の前に芽衣子おばさんが立つ。
「零ちゃんは私とお茶してんの。さっさと出て行きなさいよ」
「ああ、そうだろうね。それでこれから出かけるんだ。そういう約束だからね」
 伯父はうなずいておっとりと返すだけだ。
 叔母は兄である伯父を完全に敵視している。だけど伯父はその敵意に怒ったりしない。
 壁に貼った鉛筆画を見上げて、伯父は目を細める。
 彼はまるで相手にしていない。妹であるはずの叔母を、たまたま居合わせた訪問客程度にしか思っていない。
 私は親代わりである伯父を優先するしかなくて、叔母に短く返した。
「これ持ってって」
 伯父をにらみ続ける叔母にお土産を渡して何とか外に出すと、私は支度を整えて伯父と出かけた。
 イルミネーションの眩しい繁華街を、私は伯父と歩く。どこへ向かうかは、訊かなくてもわかっている。
 途中で、伯父はいつもの花屋に寄って花を一輪買った。
 高級クラブが立ち並ぶ一角に来ると、伯父はその中の青い看板の店に入っていく。私もその後ろに続いた。
 洒落た内装のボックス席に案内されると、伯父はボーイに三人分の食事と指名をした。
「先に食べていなさい」
 まもなく食事が運ばれて来て、伯父は私を促す。
 私は無言で懐石料理を食べ始めた。ここはお酒を飲むお店とは思えないほど食事がおいしい。有名な料亭で修業した板前が調理を担当していると聞いている。
 そんな料理を前にしても、伯父は手をつけずに待っていた。
 熱々で運ばれてきた天ぷらがすっかり冷え切ってしまった頃、個室の扉が開いた。
 現れたのは青い着物が似合う女性だった。実際は三十台の後半だが、少女のような空気をまとう人だ。
(さえ)
 伯父によく似た切れ長の瞳を瞬かせて、彼女……私の母は無言で伯父を見た。
「今週も疲れただろうな。さ、座って」
 伯父は立ちあがって母の手を引くと、ソファーに座らせて自身は隣に座る。
「少し冷めてしまったから、新しい料理を注文しよう」
「いいわ、これで」
 母は首を横に振って、箸を取った。
 黙々と食べ始めた母を、伯父は微笑ましそうに横で頬杖をつきながら見守る。
「冴、最近はどうだ?」
 伯父が母に向ける声は、傍で聞いているだけでも恥ずかしくなるくらい甘い。ふんわりと包み込むようにみつめる。
「体調を崩したりしてないか? 顔色はいいみたいだが」
 母は答えるどころか、ほとんど伯父に反応すらしない。けれど伯父は話しかけ続ける。
 独身の伯父が一番大切にしているのは母だと、幼い頃から知っていた。兄妹というには危ういほど、母を想っていた。
 そんなことは、伯父が母にかける言葉の調子一つでたやすくわかっていた。
 それに対して母が愛着を見せたことはなかった。けれど伯父に対してだけでなく、母は私に対しても全くの無関心だった。
 私は父を知らない。母は私を産んですぐ実家に置いて出て行って、ソープで働いていたらしい。それを伯父はどうやってか探し出した。どうしても夜の仕事がしたいなら止めないが、体を売ることだけは駄目だと説得して今のようなクラブで働くようにさせたそうだ。
 伯父は私を引き取って育ててくれた。だから私にとっては、母よりも伯父の方が親という認識でいる。
 けれど伯父は折につけ、私を連れて母を訪ねた。長い間伯父は私にお母さんだと言うことがなく、母も私に何も言わなかったから、私は母のことを伯父と親しい綺麗なお姉さんだと思っていた。
――零ちゃんを産んだのは冴よ。あいつ、零ちゃんを産み捨てたの。サイテー。
 口汚くはあったが、母を母として、伯父を伯父として教えてくれた叔母には感謝している。
 私は伯父にかわいがられた。母は私に無関心であるが私を傷つけたりはしなかった。
 母は子どもを産んだとは思えないほど華奢で、透明な少女の雰囲気を持ち続ける人で、どうしても嫌いにはなれなかった。
 兄弟のいない私にとって一番近い親戚は、一方通行な三兄妹だった。敵意と好意と無関心を向け合う。三人は決してお互い同じ感情を返しあうことがない。
 それとも感情というのはいつでも一方通行なものなのだろうか。
「独立したいならいつでも資金を出すからな。不動産の手配や人集めも任せてくれていいから」
 だけど伯父は母といる時心から幸せそうだから、私には何も言うことができない。
「大変なら仕事をやめてもいいんだぞ。お前を養うくらいの金はあるんだから」
 たぶん伯父の本音では、母に仕事をやめさせて一緒に暮らしたいのだろう。
「今のままでいいわ」
 母はふいに手を止めて、きっぱりと首を横に振って拒否した。
 伯父は少しだけ苦い表情になって口をつぐむ。
 母は伯父から物を受け取ることについてかなり神経質で、ほとんどを拒否する。今食べている懐石料理だって、後でお金を置いていく。
 予約の時間が残りわずかとなった頃、伯父は優しく言った。
「今日も来てくれてありがとう」
 伯父は買ってきた一輪の花を、そっと母に差しだす。
「冴。私はいつでもお前を応援してる」
 母は何も言わずに、一輪の花を受け取った。
 どんな高価なものより花が好きであること。それは、母と私の共通点だった。








 木曜日になって、私はここのところ毎週そうするように中庭の隣の休憩室に向かって歩いていた。
 昨日、水彩で描いた中庭のあじさいの絵が完成した。いつもは葉月か伯父に真っ先に見せるスケッチブックの絵だけど、今回は少し気が変わった。
 笹本に一番に見せてみたいと思った。毎週ここで笹本と並んで見たあじさいだったから。
 休憩室の扉を開いて、窓際を見やった。
 今日は笹本の方が先に来ていた。私はそちらに足を向けようとして、足を止める。
 笹本は一人じゃなかった。誰かと立って話をしていた。
 別に珍しいことじゃない。笹本はいろんな生徒と分け隔てなく話す。
 ただ、今日の相手は女の子だった。それだけのことに、私は胸の中にもやもやしたものがこみ上げた。
「うん。そうだね」
 いつもの窓際で、私に対するのと同じ優しい相槌をその子にも返した笹本の声が、遠くで聞こえた。
「あ、いず……」
 私に呼びかけようとした笹本から、私は目を逸らしていた。
 笹本に気づかなかったふりをして、一番近かった扉から外に出た。足早にその場を後にする。
 足運びは勝手に加速して、最後は走っていた。
 校舎の裏まで来た時、私の息はすっかり上がっていた。
 息を整えながら空を仰ぐ。
 どうしてこんなことをしたのかわからなかった。笹本がいろんな子と話すのは知っているし、別に悪いことじゃないのに、私はそれを見ていられなかった。
 雨は途切れることなく降り続けていた。青々と茂るあじさいの葉は、それを受けて日に日に成長している気がする。
 結局その日は休憩室に行くことができないまま、私は一人で過ごした。
 ずっと昼ごはんは食べない性分だった私なのに、奇妙にお腹が空いた。







 葉月と休日が重なる日は、私たちはよく一緒にショッピングに出かける。
「れいちゃん、見てみて。これかわいい」
「あ、ほんとだ」
 雑貨や服を見ることは好きだけど、はしゃぐ葉月を見ていることが一番楽しい。
「じゃあ次はあっち」
「うん」
 どんなシンプルな服を着ていても葉月には似合って、何をしていても葉月は絵になる。
 葉月が笑ったら、私も笑う。泣いたら私も泣く。それは私にとっては呼吸をするくらい当たり前のことだ。
「れいちゃん?」
 それなのに葉月が笑っている今日、自然に笑顔が返せないのはなぜだろう。
 久しぶりの一緒の外出なのに、大好きな葉月が楽しそうなのに、いつもほど心が浮き立たない。
「あ、もしかして!」
 私の顔を覗き込もうとした葉月の隣で、高校生くらいの三人組が声を上げた。
「モデルのはーちゃんですか!?」
「うわぁ、すごいすごい本物だ! 雑誌よりかわいい!」
「いつも応援してます!」
 興奮して取り囲むファンの女の子たちに、葉月はにっこりと優雅に笑った。
「ありがとう。嬉しいわ」
 葉月と街で買い物していると、たびたびファンに取り囲まれる。テレビに出るようになってから、その回数はますます増えた。
「あの、よかったら一緒にケーキでも」
 男の子ばかりでなく女の子からお茶に誘われることも多い。
 けれど葉月は私を後ろからきゅっと抱きしめて、私の頭の上に顎を乗せながら悪戯っぽく言った。
「ごめんね。今日はデートなの」
 私の手を取って、葉月はファンの子たちにもう片方の手を振って言う。
「じゃあ、またね」
 私を連れて、葉月は振り返りもせずにその場を後にする。
 葉月がみつけたという小さなカフェに入って、私たちはそこの看板メニューらしいイチゴタルトを注文した。
「れいちゃん、どうかしたの?」
「どうって?」
「何か悩んでるんじゃない?」
 柔らかな風合いの木製のテーブルに、葉月は頬杖をついて私の目を覗き込む。
 濡れたように色鮮やかな黒い瞳に心配が宿っているのを見てとって、私は眉を寄せた。
「ごめん。せっかくの休日なのに」
「私のことはいいの。ねえ、誰かにいじめられたりした?」
 葉月は不快そうに目を細める。
「また叔母さんが変なこと言ったの?」
「叔母さんは私を傷つけたりしないよ」
「そうかな。あの人には悪意を感じるわ」
 叔母のことが葉月は好きじゃない。マンションで居合わせた時など、葉月は彼女のことを汚いものを見る目で見たりする。
「それとも学校で意地悪でもされた?」
 私は首を横に振って、少し考える。
 意地悪されたわけでも暴力を振るわれたわけでもない。ただ、勝手に鈍く胸の奥が痛む。
「分け隔てなく人と話せることは、いいことだよね」
 私は運ばれてきたイチゴタルトに目を落としながら、ぽつぽつと話す。
「社交的なことは、きっといいことで」
 話すことが苦手な私の言葉は、どうにも拙い。
「それを見ていて悲しいって思う私は、変だよね」
 葉月は私の言葉を聞いていて、ふいに苦笑した。
「そっか。れいちゃんは、好きな人ができたんだね」
「え?」
 私は葉月の言葉がわからなくて、首を傾げて言う。
「違うの。時々話すだけの子だもの」
「でも、好きなのは間違いないんだと思う」
 葉月は長い睫毛を伏せて、思案するように口元に指を置いた。
「社交的って、他人ならいいことね。でも好きな人が自分以外の誰かと親しく話しているのを見るのは、胸が痛む。全然変なことじゃないわ。誰でもそうなることよ」
「葉月も?」
「私?」
 桜色の唇に指を当てながら、葉月は私を見やった。私はそっと尋ねる。
「彼氏が自分以外の女の子と話してたら、胸が痛む?」
 葉月は表情を消して少し考えた。
 私の問いに葉月は答えず、コーヒーに口をつけて独り言のように言う。
「苦いわね」
 葉月はイチゴタルトに手を伸ばす。
「私は甘い方がいいわ」
 久しぶりに晴れ渡った日の昼下がりのことだった。







 次の週の木曜日も、私は休憩室に行かなかった。
 笹本が来るかどうかもわからなかったけれど、顔を合わせたら何か余計なことを言いそうで嫌だった。
 親友の彼氏に好意なんて持ちたくない。もしそれをどこかで葉月が知ったりしたら、彼女を傷つけてしまう。
 それならいっそのこと、もう中庭に行かなければいいと思った。話さなければいい。クラスが一緒なだけなのだから、いろんな人と親しい笹本ならすぐに私のことなど忘れる。
 梅雨もそろそろ終わりだった。鮮やかに咲き誇っていたあじさいも、雨が途切れれば自然とその華やいだ時を終える。
 休憩室に行くのはやめて、私は銅像の横で絵を描いていた。絵を描く時のお気に入りの場所だ。
 傘をさして芝生の上に座りながら、いろんな場所で目に焼き付けた風景や花をスケッチブックに再現していく。
「なぁ、なんで絵ばっかり描いてるんだ?」
 ふいに声が上から降りかかった。知らない男の声だった。
 時々私に声をかけてくる人がいる。雨の中でもひたすら絵を描いている私は、彼らにとってみれば変なのだから。
「おい。質問してるんだから答えるくらいしろよ。失礼な奴だな」
「失礼な奴はそっちだ」
 私は目を上げて淡々と返す。
「ただ質問をしているのか、馬鹿にするつもりで声をかけてきたかくらいの区別はつく」
 息を飲んだ男に、私は言い捨てる。
「そこをどいて。邪魔だから」
 それで大抵の男は捨て台詞と共にどこかに去る。
 だけど、今回の男はもう少し意地が悪かったらしい。
「見せてくれ」
 スケッチブックに手をかけられた。私は反射的にそれにしがみつく。
 私の飛び付いた勢いが大きかったのか、それとも男の力の方が勝ったのかはわからないけれど、何にせよ私たちの力の均衡が悪かったらしい。
 スケッチブックが宙に舞って、音を立てて水たまりに落ちた。
 ……あじさいの絵、まだ誰にも見せてなかったのに。
 あっけないほど一瞬の出来事に呆然となって、悲しみが静かに押し寄せてきた。
 立ち上がって踵を返した私に、男が声を上げる。
「待て。怒るくらいしろよ!」
「男の子に意地悪されるのは慣れてる」
 とにかくその場を離れようとした私の耳に、雨の中を駆ける足音が届いた。
「和泉」
 男の子にしては少し高くて柔らかい響きの声が私を呼んだ。
 傘をさしかけられて、私は自分が雨にぬれていたことを遅れて気づく。
「風邪ひくよ」
 目を上げたそこには、困ったなという顔をして笹本が立っていた。
 笹本はスポーツタオルを私の頭から被せて、それをわしゃわしゃと上から動かした。
「いい、これくらい」
「良くない」
 男の子の言うことなんて聞かない私なのに、笹本に言われると大人しく従ってしまうのはなぜだろう。
 笹本は私の頭にタオルをかぶせたまま、傘を私に渡して自分は傘の外に出た。
「あーあ。半分水に浸かってる」
 スケッチブックを拾い上げて眉を寄せてから、笹本は言う。
「でもすぐ乾かせば何とかなる絵もあるよ。大事なものなんだから簡単に捨てないでちゃんと拾いなさい。ね?」
 指を立てて言い聞かせる笹本に、私はこくんとうなずいていた。
 胸に満ちた感情の名前は知らなかったけど、とても温かいものであることは確かだった。
「ありがとう」
 その感情のままに笑ったら、笹本も笑い返してくれた。
 笹本は振り返ってスケッチブックを取り上げようとした男を見た。
「伊吹、謝りな」
 正直なところ、私は笹本がスケッチブックを拾ってくれたことだけが嬉しくて、それを落とした男に対しては怒りも悔しさも持っていなかった。
 私はそこで初めてそいつの姿を見た。
 肩幅の広い、背の高い男だった。真っ直ぐな黒髪をしていて、少し灰色がかった色合いの瞳を持っていた。
 中性的で優しげな笹本とは正反対の、きつそうで威圧感のある男。
 こういう男っぽい男は、苦手だと思った。
「見せてくれと頼んだだろう」
「見せたくない」
 私は跳ね除けるように言い返す。男は目を見張って、にらみ返してきた。
 感情を抱かなかったというのは、少し嘘になった。彼も今まで会った男の子たちと違う空気をまとっていて、私は居心地が悪かった。
「こんな奴を相手にすることない。行こう、笹本」
 笹本に声をかけて、私は足早にその場を後にした。
 校舎の中に入って男の視界から出たところで、笹本が立ち止まって顔を伏せた。
「笹本?」
 ふいに笹本は腹を抱えて笑いだす。
 私がきょとんとして首を傾げると、笹本は目尻にたまった涙を拭いながら私を見下ろす。
「あの伊吹にあんな顔させるなんて。和泉はすごいな、ほんと」
「どういうこと?」
「伊吹はたぶん、あんな風に女の子に拒絶されるのは初めてだったよ」
 笹本はまだ笑いながら言う。
 笹本の言っていることがまだよく理解できないでいる私に、笹本はふと笑みを収めて言った。
「ああ、ごめんごめん。雨に濡れちゃっただろ。ジャージ貸すからうちのサークル部屋までおいでよ」
「大丈夫だよ、これくらい」
「すぐそこだから。ドライヤーもあって、スケッチブックも乾かせるよ。まだ昼休みあるから、ついておいで」
 笹本はあっさりと私の抵抗を収めて、先に立って歩き出した。
 笹本の所属するサークル部屋で、私は笹本にジャージを渡された。
「紐締めれば腰で止まるはず。上は羽織ってチャック上げときな。濡れた服は乾燥機にかけるよ」
 カーテンを閉めると、笹本と区切られた空間ができた。私はぎこちなく、そろそろとジャージに足を通す。
 笹本はカーテンの向こうで、スケッチブックをドライヤーで乾かし始めたようだった。電動音が聞こえてくる。
「和泉。これは独り言みたいなものだから、答えてくれなくていいけど」
 着替えている私の耳に、笹本の静かな声が届いた。
「避けてたよね、俺のこと」
 私たち以外誰もいない、がらんとした広いサークル部屋に、笹本の声は溶けるように響いた。
「俺、今すごくうれしいんだ。誰かから逃げる言い訳でいい。和泉がもう一回俺の方見てくれたから」
 少しだけ自嘲的に笹本は笑う。
「好きだよ。和泉」
 カーテンごしに、笹本が言うのが聞こえた。
 笹本には彼女がいるじゃない。それも、皆がうらやむように綺麗な女の子なのに。
 どうして? これは冗談?
 笹本の言葉がはかれなくて、私は答えることができずにいた。 
 外はまだ途切れることのない雨が降り続いていて、あじさいが次々と花を咲かせているのだろう。
「雨、やまないね」
 笹本がつぶやいたのを最後に、私たちは黙り込んだ。
 雨音とドライヤーの音が重なり合って、鈍く漂っていた。