「だから俺もさ、正直になろうかと思うんだ。自分の気持ちにさ」
それはまるで、私に聞いてほしいという感じではなく、自分に言い聞かせるような響きだった。
「智歌先輩」
彼の決意に、私はただ彼の名前を口にすることしかできなかった。
 こんなもやもやとした気持ちでは、儚げに先を見据えた先輩にどういう言葉をかけるべきか思いつきもしない。
 先輩は、何を考えているんだろう。どうしていきなりそんなことを言うのだろう。
 疑問だけが浮かんで、それの答えは一向に出てくる気はしなかった。
「だから俺のことは気にせずに、俺から離れたくなったらそうしてくれていいからな」
智歌先輩の顔は夕暮れに綺麗に照らされて、その瞳も口元も夕陽に負けないくらいの綺麗な笑みだった。
 これから起こることを予期して、悟りきっているような清々しい微笑み。私はその笑みに何も答えることができず、目を伏せて先輩の言葉を心の中で何度も反芻した。
 どうして先輩は、私から離れるみたいなことを言うのだろう。突き放すわけでもなく、ゆっくりと歩くような早さで、少しずつ先輩と私の距離が離れて行く。
 先輩の傍にいたくているのに、先輩は少しずつ私から離れて行ってしまう。
「そういえば、さっき最後に弾いた曲なんだけど」
「シューベルトの即興曲ですよね」
「なんだ。知ってたんだ」
先輩は微かに目を見開いた後、屈託のない笑みで空を見上げた。
「はい。先輩の影響で、クラシックの方にも興味が湧いてきて、最近勉強してるんです」
「そっか」
私は先輩にしがみつくように、先輩が好きなことを好きになって近づいているつもりなのに、ひらりと避けられてしまった。

――俺から離れたくなったらそうしてくれていいからな

 さっきの先輩の言葉が頭の中を過る。
 そんなこと言われても、私は先輩の傍にいたかった。翔奏のことも好きだけれど、それはきっと先輩と離れる理由にはならない。
 だからこのまま先輩の傍にいるためには、今まで通り翔奏が好きで、先輩のピアノの音が好きな後輩でい続けるしかない。
 そう思ったら妙に納得できて、先輩の言うように自分に素直になれる気がした。
 今ならちゃんと笑える。先輩と向き合うことができる。
「先輩、帰りましょうか?」
「そうだな」
にっこり微笑むと、先輩もそっと微笑んでその場を離れた。