目を丸くして固まっている私を溶かすように、淡い微笑みを先輩は浮かべる。その顔は笑っているのに、どこか儚げで切なさが滲んでいた。
 どうして先輩は、そんな顔をして私を見つめるのだろう。
 私なんて先輩からすれば単なる後輩でしかないはずなのに、先輩はどうしてあんな怒りや憎しみをむき出しにして、私を助けてくれたんだろう。
 先輩には彼女がいるのに――。
「先輩はどうして好きでもないのに、付き合ったりするんですか?」
今にも泣きそうな情けない顔で、私はそっと呼吸をするような声で訊ねた。
「その質問は二回目だな」
先輩はふうとため息をついて、小首を傾げた。
「理由はちゃんとあるよ。前にも言ったけど、傷つけるのが嫌だから。……でも深桜は、俺みたいな真似する必要はない」
「……どうしてですか?」
「だって深桜はちゃんとその人と出逢えるから」
「そんなの理由になってません!! それにどうしてそんなこと言えるんですか? 絶対に出逢うことなんてできませんよ。だって彼は」
私は、その後を言うことができなかった。自分で否定したら、本当に逢えない気がしたからだ。
「ちゃんと深桜の想いは届くよ。自分の気持ちに正直であれば深桜は大丈夫だ」
「先輩」
「今日はちょっと調子悪いから無理だけど、またピアノ弾くからさ。今日のことは忘れて元気出せ」
「……はい」
返事はしたものの、きっと今日のことは忘れることなんてできない。
 もう少し先輩と一緒にいたかったけど、彼は軽く手を上げて、その場を離れてしまった。結局お礼も言えないまま、彼の背中を見送ってしまい、私は一人になった。
 このもやもやとした気持ちは、何なのだろう。
 翔奏にも逢いたいけれど、智歌先輩の傍も離れたくない。これはきっと、とてつもないわがままだ。
 どちらかに近づけば、どちらかが離れてしまう。
 この微妙なバランスが崩れ去ってしまいそうで怖かった。
 翔奏に逢えるわけでもないのに、私は変な胸騒ぎを覚えて、しばらくそこに立ったまま風で揺れる木々を眺めていた。

 あれから智歌先輩はいつもと変わらず接してくれたし、ピアノもたまに弾いてくれた。
 ピアノの音を聴く度に、これで最後になるんじゃないかって、先輩が蓋を閉めるときに思ってしまう。
「深桜、今日も元気ないけど、またチケット取れなかったのか?」
「……はい。ダメでした」