「俺はちぃに伝える気はなかったよ。だからいいんだ」
俺はその後に続く言葉が恥ずかしくて、翔奏の言葉を遮った。翔奏も俺の気持ちに気づいていたのだ。
そしてその言葉で俺は気づいた。たぶん翔奏は、ちぃに気持ちを伝えるつもりだったんじゃないだろうか。
 自分では自覚していなくても、タイミングさえあればきっと伝えたはずだ。
 最初から俺には、二人の間に入り込める隙間なんてなかったのだ。そう思えば少しは楽になる。
「……俺、本当にごめん」
「いいよ。翔奏のせいじゃない。だからしっかりしろ」
「うん。ありがとう」
翔奏は小さく呟くように言うと、窓のそっと眺めた。俺もその視線の先を見つめた。
「俺さ、もうすぐここ引っ越すんだ。父親のマンションに住むことになったんだ」
「えっ? じゃあ」
「でもさ、俺、智歌のこともちぃのことも忘れない。声届けるから」
「声ってなんだよ。訳わかんねぇよ!」
あまりの突然のことに、俺は思ったことをそのまま翔奏にぶつけた。いきない翔奏は何を言い出すんだ。
「歌を……歌おうかなって。父親の知り合いに、そういう人がいるらしいんだ。そこでレッスンでもしてさ。願わくばデビューとか。でもそんなことは今はどうでもよくて、ただちぃに謝りたいんだ。ちぃが好きだって言ってくれた声で。単なる自己満足かもしれないけど、もうそれしかない気がして」
「……決めたんだな」
「うん」
弱々しい声だったけど、翔奏はしっかりと頷いた。
 それはもう揺るぎない気持ちが溢れているみたいに、純粋で真っすぐな思いだった。
「俺が止めても行くんだろ?」
「……うん。ごめん」
「そっか」
ちぃに加えて、俺は翔奏も失ってしまうのだ。
 この村から大切な人たちが、どんどん遠くへ行ってしまう。
それから翔奏は父親のマンションへと引っ越し、しばらく彼はちぃのことを言わなくなった。そして少しずつちぃに対する想いを、歌に込めて歌い続けた。
 俺はそれを聴き続けて、ちぃへの想いがどんどん翔奏の中でも強くなっているのに気づいていた。
 俺ら二人は同じ時にちぃを好きになって、同じくらい想い続けている。
 馬鹿みたいだって思われてもいい。
 ちぃと手紙を重ねる度に、彼女に会いたいという思いも増えていった。そしてその中で、ちぃの記憶から翔奏がいないことを知った。
ただ俺たちはそれぞれの形で、ちぃを想い続けることしかできなくなった。
 でも二人とも、それぞれ暗い思い出が心に引っ掛かって、お互いそれに触れるのを避けてきた。
 その引っ掛かっていた思い出が、今、解けるみたいに重くのしかかってきている。

「……お前といた記憶を無くしているんだ」
俺の声は何の感情も感じていないような声だった。
「……本当なのか?」
「それがお前にちぃが会いにこなかった理由だ」
翔奏のことは嫌いじゃない。ちゃんと許しているはずなのに、俺の変なプライドが邪魔をして、追い打ちをかけるような冷たい言い方しかできない。
「ごめん。ちょっとまとまらなくて……。ちぃは本当に俺のことを忘れているのか?」
「あぁ。たぶん、原因はあの石段から落ちたときだと思う。今のちぃは、昔過ごしたお前じゃなくて、ただ歌手の藤沢翔奏として見てる。お前の歌はちゃんと届いてるけど、ちぃはそれが自分に対するものだなんて思ってない」
その後、俺も翔奏も何も言わず、ただ長い沈黙が続いた。
 いきなりそんなことを言われて、混乱するのは当たり前だ。それよりもたぶん自分を忘れられたということがショックなのだろう。
 翔奏は何か言おうとしては、口を噤んだ。それを何度か繰り返して、やっとの思いで呟いた。
「ごめん。ちょっと混乱してて。また今度連絡する」
「わかった。じゃあ」
そうして俺たちは重い沈黙を残したまま、電話をきった。これでよかったのだろうか。俺はまだ翔奏に言えていない。
 自分もあの石段にいて、ちぃの手を掴めなかったこと。そしてそれが原因で右手がうまく鍵盤の上で動かないこと。
 そして何より自分の醜い感情が始まりで、ちぃのことをずっと翔奏に黙っていたことを……。
 でも今はそんな醜い感情はない。ただ後悔だけが残って、ずっと言いだせないだけだ。それは嘘ではないと、断言できる。
 俺はそっとピアノの蓋を開けて、曲を奏でた。それは翔奏が創って、再会を約束した日に俺がちぃに聴かせていた曲だ。
 これは翔奏が創った曲なのに、深桜は俺が創ったと思っている。自分のプライドや想いを守るために、俺はこの思い出の曲すら踏み台にして、深桜に近づいた。
 全てを翔奏に話さなければ、この右手はあのときのまま、止まったままだ。
 俺は何もかもが悔しくて、その思いをぶつけるように鍵盤に指を叩きつけた。悲鳴のようなピアノの音が、静かな部屋に響き渡った。
 深桜の気持ちも、翔奏にどんどん近付いているのも知っている。
 深桜が応募した作品は、まさしく俺たちが田舎で過ごしたものだった。
 翔奏をモデルにしたような子に、恋心を抱く女の子の恋物語。
 でもその作品の中には暗い過去はなくて、最後女の子は再会を約束し、二人に別れを告げて村を離れたところで終わった。
 どこまでも純粋で、幸せそうな小説だった。
 まるで記憶を辿ってかいた小説のようで、俺にはあの頃のちぃが戻ってきているみたいに感じた。






 藤沢翔奏のライブツアーの先行応募画面を、私は何度も見直した。住所、氏名はもちろん、ツアー希望場所も間違いないか、しっかり確認した。
 後は、スマホの「応募する」をタップするだけだ。
 公式ページにもSNSにも書いてなかったライブ情報が、こんなところで手に入るなんて思ってもいなかった。新作CDの初回限定版のみに入っている先行ライブチケットプレゼントコード。CD発売の際もこんなこと言ってなかったから、正直この応募規約を見たときは驚いた。
 日程はどうやら半年後にスタートして、十ヶ所に及ぶライブが行われるらしい。
 とにかくチケットを手に入れたい私は、その応募画面の中にある感想や翔奏に伝えたいことを入力するところに、新曲の感想を思うがまま、欄いっぱいに書き連ねた。
 小説賞では破れてしまったけど、今度はライブで会うことができる。
 生の歌声を聞くのは初めてだし、どんな格好をしてライブに行っていいのかも分からない。きっとライブの日の前日は、眠れないだろう。
 まだチケットは手に入っていないにも関わらず、私はそんな果てしないことを考えていた。考えるだけでドキドキしてしまう。
 もしかしたら小説賞に受賞した人は、今こんな気持ちでドキドキして、授賞式を楽しみにしているのかもしれない。そんなことを思ったら、何だかおかしくてくすりと笑みが漏れた。
 受賞者は自分ではないけれど、今はもうあまり悔しくはない。羨ましいっていう気持ちも、もうどこかへ行ってしまった。
 ただ早く受賞者の選評を見たいし、その作品を読んでみたい。発売はまだ遠いだろうけど、楽しみで仕方がなかった。
 そして私は、スマホの画面をタップして、応募完了させた。
 スマホに向かって、私は手を合わせて当たる様にお願いした。
 こんなところを誰かに見られたら恥ずかしいけれど、今は形振り構っていられない。どうしても翔奏のライブに行って、生の歌声を聴くのだ。
 そして、私は、大学へと向かった。
 大学に入りを、守衛室を通り過ぎて、中庭に出ると見慣れた背中を見つけた。
「智歌先輩。おはようございます」
私はその背中に呼びかけ、その隣りに駆け寄り、自然と彼の歩調に合わせて歩いた。
「今日は早いんですね。講義ですか?」
「……いや、ちょっと早く家を出たかっただけ」
 先輩はいつもより歯切れが悪く、そのせいか空気も重い。風邪でもひいたかのように、だるそうで活気がなかった。
「智歌先輩? どうされたんですか? いつもよりもなんか元気がないみたいですけど?」
「そうか? それより深桜が元気すぎるんじゃないか? なんかいつもより、うかれてるみたいだ」
彼は誤魔化すように力なく笑った。でも目は遠くを見ていて、瞳には私が映っているのに視線が合ってはいなかった。
 何かあったのだろうか。こんな先輩見たことない。
 でも事情も分からないし、このまま彼から離れるのも不自然に思えて、私は気づかないふりをしてとぼけてみせた。
「えっ? そうですか?」
「なんかいろいろ吹っ切れたみたいに見えるから」
いつもいつも智歌先輩の洞察力には困ってしまう。智歌先輩を気づかって明るく振舞っていたのに、ちゃんと先輩はその奥に隠している私の気持ちを見透かしている。
 恥ずかしいけれど、当たってしまうのはちょっと悔しい。でも正直に認める以外の選択肢は私にはなかった。
「先輩には敵いませんね。私、一次に落ちたことはショックですけど、前よりはそんなに考えなくなったんです。それよりも今は、早く翔奏が選んだ小説を読みたいんです」
「そうか。一応ライバルとなるんだから、勉強も兼ねて受賞作は読んでおく必要はあるだろうな」
何となくだけれど、いつもの智歌先輩の雰囲気が戻って来たみたいだ。言葉は厳しいけれど、私のことを心配してくれている。
 でも先輩の言ったことは少し的が外れているから、まだ本調子ではないみたいだ。いつもの先輩だったら、もっと深く私の気持ちを汲み取ってくれる。
「そういう意味じゃないんです。今後のためっていうか、ただ純粋に読みたいんです。翔奏が選んだ小説が、どんなふうに彼を惹きつけたのか。あっ! でも作家になるのを諦めたわけじゃないですからね!」
私は元気よく両手に拳を作って、ガッツポーズをとった。その姿に微かな笑みを智歌先輩が零したのを私は見逃さなかった。
 少し元気が出てきたみたいだ。
 どうやら思い残すことなく、この場を離れることができそうだ。このまま先輩が沈んだままだと、先輩が気になって講義に集中できなくなるところだった。
「先輩。では私、講義があるのでまた」
「あぁ。頑張ってこい」
先輩に軽く手を振って、私はその場を離れて講義室へと向かった。
 一限目の講義室は、どこかまだぼんやりとしていて活気がない。それに朝早いし、必修ではない教養科目だからか、受講者数もそんなに多くはない。
 この科目を取っている友達もいないし、私は一人お気に入りの席についた。窓際寄りで、講義室のちょうど真ん中辺りだ。
 椅子に座り、隣りに鞄を置いた。文房具を出して授業に備えてから、私はバインダーの一番最後のページを開いた。
 そこからはいつでも小説がかけるように、ページを設けている。浮かんできた言葉やネタを忘れないうちにメモをとる。
 千歳さんは小さなメモ帳を持ち歩いているみたいだけど、私は道端でうかんだものはスマホのメールに打ち込んで、自分のパソコンのメールに送っている。
 千歳さん曰く、手で書いた方が速いらしいけど、私は、誰かに覗かれそうで、こうやって一人のときじゃないと紙に書くことができない。スマホだと、メールを打っているように見え、誰も不思議に思わないから私にとってはやりやすい。
 それにこのノートは自分自身の気持ちを映したみたいで、見られると恥ずかしいのだ。
 そのメモをぱらぱらと捲りながら、次はどんな小説をかこうか考えていたら、始業のチャイムが鳴り響いた。

「深桜ちゃん」
講義が終わって廊下に出ると、後ろから声をかけられた。私は声の方に振り返ると、見覚えのある顔があった。
 私はその顔を見た瞬間、その真っすぐに注がれる瞳から視線を外した。
「えっとあなたは……」
その後に言葉が続かなかったのは、気まずくて言葉が詰まってしまったからだ。
 彼は一度だけ千歳さんと合コンに行ったときに、智歌先輩を馬鹿にしたような言い方をして、翔奏の曲を歌った人だった。
 あの後、千歳さんに励まされたけど、こうやってまた面と向かって接すると、後悔が滲んでしまう。
 逃げるようにカラオケボックスを後にしたことは、はやり今考えても大人気ない。
 私は彼にすっと視線を戻して、持っていた鞄をぎゅっと握りしめた。
「ちょっと今いいかな?」
彼の声は戸惑いがあるものの、強い意志が固まっている声だった。
 私は後悔と申し訳なさから、頷いて応えることしかできなかった。
「ここじゃあ何だから、ちょっと場所変えていいかな」
有無を言わせないその問いに、私は彼についていくしかなかった。
 緊張からか何も言葉が出てこない。
 二人の間に会話はなく、ただ私は黙って彼の後ろをついていった。
 校舎を出てから、中庭を抜けると、その裏にある道で彼は止まった。校舎の裏にあたるここは、人気もなく、日当たりも悪い。
 私の気持ちを表すかのように、風が通り抜けると近くの木々がざわざわとざわめく。
「ごめんね。いきなり呼びだしたりして」
彼は穏やかな微笑みを浮かべて、振り返った。
 私は少し彼から距離を取ってから、またぎゅっと鞄を握り締めた。
「俺、どうしても深桜ちゃんのこと諦められなくて。それでちゃんと言いたいこと言おうと思ったんだ」
「でも……私」
彼の変わらない真っすぐな瞳から逃れるように、私は彼の足元に目をやった。
 できることなら聞きたくないし、自分の気持ちは言いたくない。
 先輩にも正直になれない自分の気持ちは、千歳さんしか知らないのだ。
 翔奏の朗らかに笑う笑みや心に響く歌声が私は好きで、この気持ちを抑えることなんてできない。
「俺、深桜ちゃんのことが好きなんだ」
 どうしてこの人は自分の気持ちを素直に言えるんだろう。私にはそんなこと絶対できない。そして、その気持ちに応えることもやっぱりできない。
 翔奏と智歌先輩の顔が、同時に頭の中に浮んだ。
 逃げ出したいけれど、もう逃げたくはない。
 逃げたらきっと余計に彼を傷つけるし、期待させてしまうかもしれないからだ。
「……ごめんなさい。私、その気持ちには応えることができません。だから」
「今、好きじゃなくてもいい。軽いって思われるかもしれないけど、試しに俺と付き合ってほしいんだ」
「っ! 痛い……です。離してください」
いきなり腕を掴まれて、私は顔を歪めた。緊張と恐怖のせいで、心臓が激しい音を鳴らした。
 彼の手を振り解こうとしても、抑えられた手が強くて離れなかった。
 止めて! 離して! 
 心の中で何度もそう叫んだけれど、怖くて声が出ない。
「俺じゃダメかな? 俺なら絶対に深桜ちゃんのこと」
彼は必死に何か訴えてくるけれど、何も聞こえなかった。
 すがる様な彼の瞳と目が合うと、私は抵抗するように数歩、後ずさった。でも彼は一向に手を離してくれない。
ただ早くここから離れたくて、誰か知っている人のところに行きたい。
 目に涙がじんわりと滲んで、必死に目を閉じて堪えた。涙なんて見られるのも恥ずかしいし、それを我慢できないのも悔しいから、見せたくなんかない。それなのに、今にも目の端から涙が零れそうになってしまう。
 誰か助けて! 翔奏! 智歌先輩! 千歳さん!
 私は彼らの名前を心の中で、思いっきり叫んだ。
「お前! 何してんだ」
その声に私は救われた気がした。ぎゅっと閉じていた目を開くと、すごい形相の智歌先輩と、その数歩後ろから心配そうに駆け寄る千歳さんの姿があった。
「智歌先輩。千歳さん」
私は彼の手の力が緩んだすきに、その場から離れて千歳さんの腕にしがみついた。解放されたのに、まだ怖くて震えが止まらない。
「深桜。大丈夫?」
「……うん。ありがとう」
「深桜が連れてかれるのが見えて、やばいと思ったから智歌先輩呼んできたの」
千歳さんはそっと私の頭を撫でると、私の手を安心させるように優しく握ってくれた。その温かみが嬉しくて、私は零れそうな涙を拭った。
 顔を上げると千歳さんが睨むように彼を見据えて、その先で先輩の瞳と目が合い、その顔が歪んだ。
「お前さぁ、深桜のこと好きなら泣かせてんじゃねぇよ」
智歌先輩の平坦で無機質な声が、呆然と立ち尽くす彼に向って放たれた。冷静で単調な声だけれど、その鋭さはたぶん怒声よりも気迫と憎しみが含まれている。
「蓮見」
でも彼は臆することはなかった。智歌先輩と向き合おうように真っすぐと見返していた。
「もう深桜に近づくな」
智歌先輩は釘をさすように言うと、そっと彼に背を向けた。
 でもその態度が気に食わなかったのか、背を向けられた彼は、屈辱を噛みしめるように眉間に皺を寄せ、奥歯を食いしばる。
「蓮見、お前にだけはそんなこと言われたくなぇよ! お前なんか、好きでもねぇやつと付き合ってるくせに、何でそんなことお前なんかに言われなきゃいけねぇんだよ」
「……少なくともお前よりはマシだ。深桜のことなんかより、自分の気持ちを他人に押しつけてるお前よりはな」
先輩は彼の方に振り返り、さっきよりも鋭い声で言い放った。
 今度は彼の顔は苦痛に塗りつぶされた。先輩の言った言葉に心当たりでもあるかのように、ぐっと口を噤んでしまう。そんな彼に追い打ちをかけるように、先輩の声が続いた。
「これ以上、深桜に付きまとうようなことしたら、俺どうなるか分かんないから。喧嘩したいなら、俺は付き合うけど、深桜を巻きこむのは許さねぇ」
 それから二人とも言葉は交わさなかった。彼はそのまま立ち尽くし、地面を睨んでいる。
 智歌先輩は私の方を見ずに、そのまま通りこして、先を歩いていってしまった。
「深桜。行こう」
千歳さんに手を引かれ、私たちは彼を一人残してその場を後にした。少しの間、静寂が満ちていたけれど、人の姿があちこちに見え始めてから、緊迫した空気が緩み始める。
「では、蓮見先輩。深桜のこと宜しくお願いします」
「あぁ。ありがとう。ここまで来れば大丈夫だろうから」
智歌先輩がそっと振り返ると、千歳さんの手が私から離れた。
「えっ? 千歳さん!?」
「もう大丈夫でしょう。蓮見先輩いるから」
ちらりと先輩の方を見ると、さっきとは別人のような温かい眼差しで私を見ていた。
「じゃあちょっと用があるから、私この辺で失礼します」
「あっ! 千歳さん」
私の声に答えることなく、千歳さんは笑顔のまま、手を振って駆け足でどこかへ行ってしまった。
 できることなら二人きりにしてほしくはなかったけれど、行ってしまった今となってはこの気まずい雰囲気をどうにかしないといけない。
 あんなところ見せたくはなかったし、何よりあんな先輩を見たくはなかった。
 助けてもらっておいて、私は先輩と目を合わせるのが怖い。
「深桜、大丈夫か?」
 先輩の声はどこまでも優しい。お礼を言いたくても声が出なくて、ただ目を逸らしたまま、頷くことしかできない。
助けてくれたのは、いつも傍にいてくれる智歌先輩なのに、私は一度も会ったことのない翔奏の名前を一番に叫んでいた。それがきっと私の本当の気持ちだ。
 智歌先輩は私を守るために来てくれたのに、どうして今も翔奏の姿が頭から離れないんだろう。
 考えれば考えるほど、深く心に刻むように翔奏の姿が濃くなっていく。
「深桜。お前は好きなやつ以外と絶対付き合ったりするな。どんなに遠くにいても翔奏には絶対逢えるから、だから自分の気持ちに嘘とか吐くなよ」
「えっ!」
私はその声に身体をビクッと震わせて、息をするのを忘れてしまった。
 先輩は翔奏に抱く私の気持ちに気づいていたのだ。