ただ俺たちはそれぞれの形で、ちぃを想い続けることしかできなくなった。
 でも二人とも、それぞれ暗い思い出が心に引っ掛かって、お互いそれに触れるのを避けてきた。
 その引っ掛かっていた思い出が、今、解けるみたいに重くのしかかってきている。

「……お前といた記憶を無くしているんだ」
俺の声は何の感情も感じていないような声だった。
「……本当なのか?」
「それがお前にちぃが会いにこなかった理由だ」
翔奏のことは嫌いじゃない。ちゃんと許しているはずなのに、俺の変なプライドが邪魔をして、追い打ちをかけるような冷たい言い方しかできない。
「ごめん。ちょっとまとまらなくて……。ちぃは本当に俺のことを忘れているのか?」
「あぁ。たぶん、原因はあの石段から落ちたときだと思う。今のちぃは、昔過ごしたお前じゃなくて、ただ歌手の藤沢翔奏として見てる。お前の歌はちゃんと届いてるけど、ちぃはそれが自分に対するものだなんて思ってない」
その後、俺も翔奏も何も言わず、ただ長い沈黙が続いた。
 いきなりそんなことを言われて、混乱するのは当たり前だ。それよりもたぶん自分を忘れられたということがショックなのだろう。
 翔奏は何か言おうとしては、口を噤んだ。それを何度か繰り返して、やっとの思いで呟いた。
「ごめん。ちょっと混乱してて。また今度連絡する」
「わかった。じゃあ」
そうして俺たちは重い沈黙を残したまま、電話をきった。これでよかったのだろうか。俺はまだ翔奏に言えていない。
 自分もあの石段にいて、ちぃの手を掴めなかったこと。そしてそれが原因で右手がうまく鍵盤の上で動かないこと。
 そして何より自分の醜い感情が始まりで、ちぃのことをずっと翔奏に黙っていたことを……。
 でも今はそんな醜い感情はない。ただ後悔だけが残って、ずっと言いだせないだけだ。それは嘘ではないと、断言できる。
 俺はそっとピアノの蓋を開けて、曲を奏でた。それは翔奏が創って、再会を約束した日に俺がちぃに聴かせていた曲だ。
 これは翔奏が創った曲なのに、深桜は俺が創ったと思っている。自分のプライドや想いを守るために、俺はこの思い出の曲すら踏み台にして、深桜に近づいた。
 全てを翔奏に話さなければ、この右手はあのときのまま、止まったままだ。