それはそこから逃げるみたいに、無我夢中で走り去る姿だった。
 その瞬間、「どうしてちぃのところに来ないんだよ」って、痛みに耐えるように振り絞った声が心の中で漏れた。
 ちぃは翔奏が好きなのに、どうして逃げるんだ。どうして助けてやんねぇんだ。
「ちぃ?」
「……ッカ。カナ」
 そっとちぃを抱き起こすと、薄らと彼女の目が開いた。
 そのことが嬉しかったのに、その口から漏れた声で、俺は何か突き刺さるような鋭い痛みが心に広がった。
 どうして目の前にいるのは俺なのに、逃げ出した翔奏の名前を口にするんだ。
 悔しくて、でも助けたくて、俺はぎゅっとちぃの手を握った。
 もう一度俺は彼女の名前を呼んだけど、ちぃは何も答えなかった。
 このままでは、ちぃが死んでしまうかもしれない。俺は我を忘れて、村に唯一ある病院へちぃを背負って走った。
 ちぃを助けたい。その思いだけで走り、俺は病院へ飛び込んで、ちぃが階段から落ちたことを説明した。
「智歌くん。その子は誰かな? 知ってる子?」
いくら田舎だからといって、村の外から来たちぃのことを先生は知らなかった。でもそんなことを説明している暇はない。
「お願い、先生! ちぃを助けて!」
俺は必死にちぃを背負ったまま、先生に訴えた。
「智歌くん。そんなに揺らしちゃいけないよ。それにここまで走って来たんだろう。これ以上、その子に負担をかけちゃいかん。とにかくこのベッドに」
先生はさっとかけ布団をどけると、そっとちぃをベッドに寝かせた。
 傍らに立つ看護師といくつか言葉を交わして、診察や手当に取りかかった。
 待合室のソファにいるように言われ、ちぃのことを看護師に聞かれ、千歳さんの家の子とだけ答えた。
 そのことはよく覚えていないけど、気づいたときには、ちぃが眠るベッドの横に座っており、ちぃの母親が隣りに座っていた。
「お家には連絡しといたから、今日はお母さんが迎えに来るまでゆっくりしていなさい」
優しく語りかける先生の声に、俺はただ頷くことしかできなかった。
 小さい村だから、俺の家の電話番号も把握している。
「あなたが……よく深桜と遊んでくれてた子かしら?」
ふいに隣りから聞こえてきた声に、俺はそっと顔を上げた。
 ちぃの母親は真っ黒な服を着ていて、首には真珠のネックレスをしていた。