「大丈夫。もうみんな帰っちまったから」
案の定、先輩はいたずらっぽく微笑んで、カーテンをすっと空けて誰もいないのを見せてくれた。
でもこの距離だと中に人がいるのかどうかは分からない。
もう断れないところまで来てしまった。
ここはもう講義室に行くしかない。
集まる視線の中、講義室に行くのは少し恥ずかしいけど、私は先輩の待つピアノがある講義室へ向かった。
♯
先輩が言った通り、講義室には先輩以外誰もいなかった。
「こんにちは」
いつもはそんな挨拶なんてしないのに、私はぎこちなくそう言いながら、講義室に入った。
いつもと変わらない空間なのに、どこか違う。
そのせいか、先輩も私と目を合わせようとはしない。入って来た私を見たら、すぐにピアノの蓋をあげて視線を鍵盤に向けた。
私はいつもと同じピアノの斜め向かいに座った。黒板がよく見える一番前の席だ。ほかの講義室よりも小さい講義室に沈黙が広がる。
いつもは何も話さなくても居心地がいいのに、今は沈黙が辛い。でもどう話を切り出していいのか分からなかった。
言わなければいけないのに、言うことができない。
現実を受け入れたくない自分が言葉にすることを拒み続け、その思いが渦巻いて口を閉ざしている。自分から落ちてしまったことを言えば、それが「真実」になってしまう感じがして口を開くことができないのだ。本当は見間違いかもしれないと、まだ希望を捨てきれない自分を断ち切ることができなかった。
ずっと俯いていると、先輩がちらりと私の方を見たのが何となく分かった。それでも顔を上げることができない。
先輩が私の言葉を待っているのが分かる。落選したことが悲しいのか、何も言うことができない自分が情けないのか分からないけれど、零れそうな涙を我慢するようにぎゅっと膝の上にある両手を握りしめた。
どうして自分はこんなに臆病なんだろう。今にも零れそうな涙を堪えて、私は顔を上げた。
すると先輩は静かに指を動かし、控えめに音を奏で始めた。私の心を宥めるように、優しく響くピアノの音。その音が静かな講義室に軽やかに舞い始める。
先輩が昔からよく練習曲として弾いていたパッヘルベルの「カノン」。私が一番好きなクラシック曲。
ゆったりとした低音に高音がそっと被さるように始まる。
そして少しずつ音が早くなっていく。
案の定、先輩はいたずらっぽく微笑んで、カーテンをすっと空けて誰もいないのを見せてくれた。
でもこの距離だと中に人がいるのかどうかは分からない。
もう断れないところまで来てしまった。
ここはもう講義室に行くしかない。
集まる視線の中、講義室に行くのは少し恥ずかしいけど、私は先輩の待つピアノがある講義室へ向かった。
♯
先輩が言った通り、講義室には先輩以外誰もいなかった。
「こんにちは」
いつもはそんな挨拶なんてしないのに、私はぎこちなくそう言いながら、講義室に入った。
いつもと変わらない空間なのに、どこか違う。
そのせいか、先輩も私と目を合わせようとはしない。入って来た私を見たら、すぐにピアノの蓋をあげて視線を鍵盤に向けた。
私はいつもと同じピアノの斜め向かいに座った。黒板がよく見える一番前の席だ。ほかの講義室よりも小さい講義室に沈黙が広がる。
いつもは何も話さなくても居心地がいいのに、今は沈黙が辛い。でもどう話を切り出していいのか分からなかった。
言わなければいけないのに、言うことができない。
現実を受け入れたくない自分が言葉にすることを拒み続け、その思いが渦巻いて口を閉ざしている。自分から落ちてしまったことを言えば、それが「真実」になってしまう感じがして口を開くことができないのだ。本当は見間違いかもしれないと、まだ希望を捨てきれない自分を断ち切ることができなかった。
ずっと俯いていると、先輩がちらりと私の方を見たのが何となく分かった。それでも顔を上げることができない。
先輩が私の言葉を待っているのが分かる。落選したことが悲しいのか、何も言うことができない自分が情けないのか分からないけれど、零れそうな涙を我慢するようにぎゅっと膝の上にある両手を握りしめた。
どうして自分はこんなに臆病なんだろう。今にも零れそうな涙を堪えて、私は顔を上げた。
すると先輩は静かに指を動かし、控えめに音を奏で始めた。私の心を宥めるように、優しく響くピアノの音。その音が静かな講義室に軽やかに舞い始める。
先輩が昔からよく練習曲として弾いていたパッヘルベルの「カノン」。私が一番好きなクラシック曲。
ゆったりとした低音に高音がそっと被さるように始まる。
そして少しずつ音が早くなっていく。