ただ正直なことを言えば、先輩のピアノの音も聴きたい。藤沢翔奏の曲も先輩の奏でる音も好きだからだ。二人が奏でる曲は、それぞれの形で私の心を癒してくれる。
 贅沢を言えば、今すぐにでも先輩の奏でる音を聴いて癒されたかった。この空元気がいつまで続けられるかも分からない。だから先輩のピアノの音を少しでも聴いて行きたい。でもその望みは先輩のスマホのバイブが静かに震えた瞬間、消え去った。
「あっ、連絡来た。じゃあ俺行くから。今日は藤沢翔奏様に慰めてもらえ」
「もとからそのつもりですよ!」
私は、空き時間の学生のたまり場である食堂から駆け足で出ていく先輩の背中に言い返して、ため息を吐いた。一人取り残された私はバッグから財布を取り出して、中にちゃんと予約の紙が入っているかを確認する。
 朝からも忘れないようにそうしたはずなのに、また同じことをしてしまう自分に苦笑してしまう。
 大事に財布を仕舞って、先輩の後に続くように、ゆっくりと私も食堂を後にした。廊下の窓から一次結果を見て絶望した日と同じように、外の景色を眺めながら歩く。
 あの頃とはずいぶん季節の色が変わっていた。もみじは冬の寒さに耐えられなくなって、全て散ってしまい、今は跡形もなくなっていた。
 もうすぐ春の訪れを感じさせてもいい日だというのに、まだ木々は寒々としていて、何も装いのない枝が揺れている。
 あの頃よりも寂しい景色を見ているのに、気分はそれほど沈んではいない。受賞できなかったのは悔しいけれど、今日は心構えができていたせいか「また頑張ろう」という気持ちの方が強かった。
 階段を降りて、大学を出た。しばらく歩くと、道を挟んだ向かいにある駐車場に止まっていたスポーツカーに、先輩が乗りこむ姿が見えた。
 きっと先輩の彼女の車なのだろう。私よりも年上で、あんなかっこいい車に乗れるということは、相当仕事ができる人に違いない。彼女の姿は見えなかったけれど、どうやら噂通りの彼女みたいだ。
 先輩を乗せた車はエンジンの音を響かせると、どこかへ行ってしまった。
 こうやって先輩の後ろ姿を見送ったのは二度目だ。
 一度目は高校の頃に先輩と再会したときだった。

 制服がかわいいからという理由で、必死に勉強をして、その結果無事に志望する高校に入学して間もないころだ。私はピアノの音に導かれるまま、講義室へと向かった。