深桜に翔奏のCDを薦めたのも、もう俺の力ではどうすることもできないと思ったからだ。俺の力だけでは、深桜を救うことができなかった。自分が招いたことなのに、俺は翔奏の曲で深桜との距離を埋めようとしたのだ。
あのとき、「深桜は翔奏の声を聞いて、彼のことを思い出すかもしれない」って思っていたにも関わらず……。
でもあのまま深桜との距離を遠いものにしておくよりもましだった。俺にとっては大きな賭けだった。
でも何も起こらず、深桜は翔奏のことを思い出すことなく、時は流れた。
そして俺は翔奏から審査員に選ばれた話を聞いたとき、また胸騒ぎを感じた。
小説家志望で、翔奏のファンである彼女が、彼が審査するという小説大賞に応募しないはずがない。案の定、翔奏からその話を聞いた次の日、彼女もどこからか情報を仕入れたのか「翔奏に読んでもらえるだけでいいもん。だから頑張る」といつもよりも気合いの入った様子で俺に宣言して、楽しそうに小説をかいていた。俺はそれをずっと見ていた。
「智歌先輩。よかったらこれ読んでください」
恥ずかしそうにしながらも、すっと差し出された深桜の原稿を読んだとき、ずっと心に抱いていた不安がより一層強くなった。
小説にかかれているものは、昔、俺たちが体験した夏の日の楽しい出来事だったからだ。深桜の「翔奏に逢いたい」っていう思いが、彼女の頭の中から消えた記憶が戻り、小説となったのだと自然とそう感じた。
でも彼女の作品は一次も通らず、翔奏の目に触れもしないことを知っていた俺は、せめて何かしてやりたいと思って、音楽室でピアノを聴かせて慰めた。それで終わりだと思っていたのに、やはり翔奏は彼女に辿りついてしまった。
あまり信じてたくはないが、きっとこれが運命というものなのだろう。
ただ「大好きな藤沢翔奏は実は最終選考の作品しか読んでいない」なんて深桜が知ったら、彼女の落ち込みが一層ひどくなると思って、そのことは黙っておいた。
一次も通っていない彼女の作品は彼に読まれもしない。
もしかしたら、SNSやネットで、そういう情報が流れていて、彼女は知っているかもしれない。
ただ、それを事実として、知らなくてもいいことだ。あんなに楽しそうに小説をかいていた彼女が、この事実を知れば、きっと涙を流すだろう。「もう小説をかかない」と言いだしかねない。そんなことは絶対に嫌だった。
でも翔奏は深桜を見つけた。
たぶん二人が再会する日は、これからそう長くはない。重りが繋がった鎖が、ギシギシ音と立てて引っ張られるみたいに、心がズキズキと痛む。
そんなことになれば俺はどうすればいいのだろう。
きっとあの日、俺が吐いた嘘が全ての始まりになったのだろう。
♮
約十年前の夏、俺の家に翔奏はよく遊びにきて、二人でよくつるんでいた。翔奏は俺の家の近所に住んでいて、同い年の俺とよく遊んでいた。いうなれば幼馴染というやつだろう。
そこは今住んでいるところよりかなり田舎で、その村の住人はみな顔見知りばかりという感じだ。
田舎のこの狭い世界じゃそうなって当り前なのかもしれないが、俺たち二人は家も近いこともあってか、いつの間にか仲良くなっていた。そうなったきっかけも忘れてしまった。
そこに突然、千歳深桜がやってきた。深桜はこの田舎の千歳家の親戚の子とかで、その家の主が亡くなったらしく、法事のためにわざわざこんな田舎にやってきたという。
それが全ての始まりで、ばらばらになった夏休みだった。
俺の右手がうまく動かなくなったのも、その頃からだ。たぶんあのとき、彼女の手を掴むことができなかったからだ。
でも深桜は俺がうまく右手を動かせていないことに気づいていない。そのことを誤魔化すように、わざと軽やかに弾いているのだ。きっと翔奏みたいに聴く人が聴けば、俺の右手にあまり力が入っていないことに分かるだろう。
無理に力を入れて弾くこともあるけれど、長くは続かないし、音がぶれることがある。
右利きにも関わらず、どうして力を入れて弾けないのだろうと、疑問に思うに違いない。
でも俺のピアノはそんな分かるやつには聴かせない。俺はただ深桜のために弾いているのだ。高校の頃、偶然翔奏に聴かれて右手のことがばれてしまったけど、原因は伏せたから彼には原因不明ってことになっている。
俺はスマホを置いて、また鍵盤の上に指を添えた。
そしたらまたスマホが震えて、俺の身体もビクッと震えた。また翔奏だろうか。そう思って画面を見たら、今付き合っている彼女からだった。
彼女から連絡してくるなんてちょっと驚いたけど、安心した。俺は今後の予定を伝えて、今度会う日を決める。
あまり連絡してこないから、今までで一番付き合いやすくて、俺のことを一番理解している人だ。仕事の関係もあるせいか、記念日とかクリスマスとかそういうものにもこだわっていない。
不満はあるかもしれないが、少なからず俺が深桜のことを大切にしていても咎めない。俺にとって、たぶんこれが長く付き合える秘訣だろう。
よく元カノから言われたのが、「私とあの子どっちが大切なんだ」っていう言葉だ。俺はこの言葉は大嫌いで、これを言われたら引いてしまう。
なんで大切なものは一つだけじゃないといけないんだ。どちらかを選ばなければ、どちらかが死ぬなんてことでもあるまいし、そんなことは小説とか映画だけの話で充分だ。もしそんなことになれば、俺が死んでやるよと鼻で笑いたくなる。
そんな簡単に人を天秤にかけんなって思って、そんなことを言う女子を俺は何回も見てきた。そしてその言葉を言われてから、別れるまでの時間は短かった。
だからといって別れるのに抵抗はなかった。むしろそうしてくれた方が助かった。
俺はもともと付き合うつもりがないだけだ。それでも付き合うのは、告白してくれた子を振って、悲しい思いをさせたくないだけだ。
そもそも、深桜のことを大事にしていてもいいから、付き合ってほしいと言ってきたのは、彼女たちで、それを承知の上で、付き合い、最終的に、焼きもちを焼かれ、いつも別れてしまう。
振られる辛さは、俺が一番よく分かっている。だから、俺は相手が俺を嫌うやり方を続けるのだ。
それで一度深桜と言いあったことがあるけど、このやり方を変えるつもりはなかった。
確かに今まで付き合う分、思い出ってものが増えて、別れたら今まで過ごした時間が無駄になってしまう。
でも相手が俺を嫌えば、告白のとき振るよりも相手を悲しまなくて済む。そんな簡単じゃないって深桜は思っているみたいだけど、俺にはそうすることしかできなかった。
深桜は気づいていないけど、一度俺を振った深桜には分からない。でもそう思っていても、諦めたくない自分がどこかにいて、また俺の心をぐちゃぐちゃにする。
どんな形でもいいから、俺は深桜と翔奏の隣りを歩き続けたい。そうするためには、嘘を重ねるしか方法がなかった。
でももうそれもできなくなる。俺はそんなことを考えながら、一人寂しくショパンの「別れの曲」を弾いた。
♯
応募した小説大賞の結果が今日、発表された。やっぱり私の名前も千歳さんの名前もどこにもなかった。
この受賞者の人たちは、小説デビューという夢が叶っただけではなく、藤沢翔奏に逢えるという特典つきで、私にとってはかなり羨ましくて仕方がない。
私は歯がゆい思いを抱きながらも、結果発表のページを閉じて、スマホの電源を落とした。
「そんなに気を落とさなくても結果は分かってたわけだろう?」
「……でも最後まで結果を見ないと諦めきれないんです!!」
「そうなんかねぇ」
先輩は呆れ顔でため息を吐いた。その様子に、私は微かに頬を膨らませた。
「もう! 先輩には分かりませんよ。一生懸命夢を追いかけてる人の気持ちなんて」
「今日はいいのか?」
先輩はそんな私を全く気にすることなく、スマホから顔を上げると、いきなりそんなことを訊いてきた。
先輩が言っているのは、きっとピアノのことだろう。先輩は私がお願いすれば、今日もピアノを弾いてくれる。でも一次結果を見たときに、弾いてもらって慰めてくれた。私にはそれだけで十分で、これ以上甘える訳にもいかない。私は先輩の彼女ではないのだから……。
「えぇ。先輩は今からデートなんでしょう。さっきから鳴らないスマホをちらちら見てますから分かりますよ。それに私だって今日は予定があるんです」
「どうせ藤沢翔奏様のCD発売日だろ?」
「うっ!」
強気に胸を張って答えたものの、図星ですぐに何も言えなくなる。
先輩の言う通り、今日は待ちに待った藤沢翔奏の新曲の発売日だ。まぁ正式な発売日は明日だけれど、ファンとしては発売日一日前に売り出されるCDをゲットしなければ気が済まない。
情報を聞きつけてからは、すぐに予約をしに行った。ただ今日はずっと授業で、大学を抜け出すこともできず、買いに行く暇もなかった。
授業をさぼってまで買いに行くのは、なんとなくモラルに反するというか、そこまでして藤沢翔奏が曲を聴いてほしいのかというと違う気がした。
彼ならきっと「ずるいことをしてまで、自分の曲を聴いてほしくはない」と言うと思うのだ。勝手な想像だけれど、私はそんな彼に忠実でありたい。
それに今日は小説大賞の結果発表で、「受かっていない」という事実を叩きつけられる日でもあるから、彼の歌声で癒してもらうつもり満々だった。
ただ正直なことを言えば、先輩のピアノの音も聴きたい。藤沢翔奏の曲も先輩の奏でる音も好きだからだ。二人が奏でる曲は、それぞれの形で私の心を癒してくれる。
贅沢を言えば、今すぐにでも先輩の奏でる音を聴いて癒されたかった。この空元気がいつまで続けられるかも分からない。だから先輩のピアノの音を少しでも聴いて行きたい。でもその望みは先輩のスマホのバイブが静かに震えた瞬間、消え去った。
「あっ、連絡来た。じゃあ俺行くから。今日は藤沢翔奏様に慰めてもらえ」
「もとからそのつもりですよ!」
私は、空き時間の学生のたまり場である食堂から駆け足で出ていく先輩の背中に言い返して、ため息を吐いた。一人取り残された私はバッグから財布を取り出して、中にちゃんと予約の紙が入っているかを確認する。
朝からも忘れないようにそうしたはずなのに、また同じことをしてしまう自分に苦笑してしまう。
大事に財布を仕舞って、先輩の後に続くように、ゆっくりと私も食堂を後にした。廊下の窓から一次結果を見て絶望した日と同じように、外の景色を眺めながら歩く。
あの頃とはずいぶん季節の色が変わっていた。もみじは冬の寒さに耐えられなくなって、全て散ってしまい、今は跡形もなくなっていた。
もうすぐ春の訪れを感じさせてもいい日だというのに、まだ木々は寒々としていて、何も装いのない枝が揺れている。
あの頃よりも寂しい景色を見ているのに、気分はそれほど沈んではいない。受賞できなかったのは悔しいけれど、今日は心構えができていたせいか「また頑張ろう」という気持ちの方が強かった。
階段を降りて、大学を出た。しばらく歩くと、道を挟んだ向かいにある駐車場に止まっていたスポーツカーに、先輩が乗りこむ姿が見えた。
きっと先輩の彼女の車なのだろう。私よりも年上で、あんなかっこいい車に乗れるということは、相当仕事ができる人に違いない。彼女の姿は見えなかったけれど、どうやら噂通りの彼女みたいだ。
先輩を乗せた車はエンジンの音を響かせると、どこかへ行ってしまった。
こうやって先輩の後ろ姿を見送ったのは二度目だ。
一度目は高校の頃に先輩と再会したときだった。
♯
制服がかわいいからという理由で、必死に勉強をして、その結果無事に志望する高校に入学して間もないころだ。私はピアノの音に導かれるまま、講義室へと向かった。
とても懐かしいこの音は間違いなく、昔どこかで聞いたことのある曲を奏でていた。
題名は分からない。でも知っている。
誰が弾いているのか分からないけれど、窓から漏れる音を聞きながら、私は図書室を出て、桜が舞う校庭を横切った。駆け足で階段をのぼり、そっとドアについているガラス窓から中を覗いた。
音楽室の奥にある黒板の斜め前にあるグランドピアノ。そこからこの音を零しているのは誰だろう。弾いている人にばれないように目を凝らして確かめようにも、座っているせいかよく見えない。でも制服の感じから男子生徒だということが分かった。
今日、吹奏楽部は休みなのだろうか。音楽室の中には先生はおろかその生徒以外誰もいない。
「どこで聞いたんだろう。この曲」
思い出せず、歯がゆい気持ちで見ていたら、ふいに音が止み、立ち上がった男子生徒とばっちり目があった。
「やばい!」
盗み見みしていたことがばれては、何を言われるか分からない。私は急いで元来た道を戻るように階段を駆け降りた。でも焦ったせいで足がもつれ、転びはしなかったものの逃げ損ねてしまった。
「待って! 深桜」
勢いよくドアを開けた男子生徒の声に私はドキッとしたけど、後ろを振り返るのは怖くなかった。
曲と同じくその懐かしい声に、緊張と焦りが一気になくなってしまったのだ。
「……智…歌くん?」
それが先輩と私の再会だった。
「智歌……先輩もこの高校に来たんですね」
彼と会うのは久しぶりで、昔みたいに呼んでいいものか分からなくて、改まった呼び方をしてしまった。それをきっかけに、私は彼のことを智歌先輩と呼ぶようになった。
昔は彼のことを智歌くんと呼んでいた。
でも彼と過ごしたのは夏休みのたった一週間だけで、その後は、文通や電話で話したくらいだ。それからはそれぞれ受験勉強とかで忙しくなって、連絡することも自然となくなり、そのままになっていた。
だからたった一週間しか過ごさなかったあの時から比べると、お互い姿も変わって、あまり変わらなかった身長もずいぶんと差ができていた。
「あぁ。田舎の高校は嫌だったからこっちに出てきて、今は寮で過ごしてるんだ」
「そうなんですね。全然知らなかったです」
「まだ入学したばかりだから仕方ないんじゃないか? でも会えてよかった」
「はい。私もそう思います。あっ! 私あの曲を聴いてここまで来たんですよ」
あの懐かしくて心が落ち着く曲は、智歌先輩が創って私にピアノで聴かせてくれたものだ。田舎で年の離れた智歌先輩のお姉さんがピアノ教室を開いていて、その影響でピアノが弾けた先輩が適当弾いてできた曲らしい。
詳しくは知らないけれど、昔そういうふうに智歌先輩から聞いたのを思い出した。
一度しか聴いたことがないはずなのに、あの頃の情景が浮かぶみたいに、そのメロディが私の頭の中で鳴り響く。
「智歌先輩って吹奏楽部なんですか?」
「いや。帰宅部。ただたまにこうやって空いてるときに弾かせてもらってるだけ」
智歌先輩はちらりと音楽室を見た後、また私を階段の上から見つめた。ちょうどその時、夕陽が傾いて窓から差し込む光が眩しくて、私はそっと目を細めた。
「深桜は?」
「私も帰宅部です。でも自分では図書部だって勝手に思ってたり……」
私はさっき図書館で借りた数冊の本を、ちらっと先輩に見えるように見せた。でもオレンジ色に染まった階段で、先輩からちゃんとそれが見えていたのか私には分からなかった。
「なるほどね。じゃあたまに来るといいよ。吹奏楽部が休みのときは俺、大抵ここにいるから」
「本当ですか? じゃあ来ます!」
嬉しさのあまりはしゃいだ私の声に重なる様に、先輩のスマホが震えた。スマホを確認した先輩は、ため息を吐いてどこか気だるそうに音楽室の戸を開いた。
姿が見えなくなって、数段私が階段を上ったら、中からまた先輩が戻って来た。
「ごめん。もう俺行かなきゃ。じゃあ」
鞄を握った手を軽くあげて、先輩は振り返らずそのまま階段を降りてどこかへ行ってしまった。
数分にもみたなかったけれど、先輩と再会できた嬉しさのあまり、私は先輩を追いかけるみたいに、ものすごい勢いで階段を駆け下り、校門まで走った。
その帰り道、これから先輩とどんな話をしようかとか、あの曲をもう一度弾いてくれるように頼んでみようとかいろいろな考えを巡らせた。
それから私たちは、度々会うようになって、あの頃からの空白の時間を埋めるように思い出を作っていった。
でも音楽室に先輩の彼女がいる時は、さすがに入れなかった。ただその彼女も見るたびに違う人になっていて、同じ人がいたことは一度もなかった。
後から知ったことだけれど、再会した日に、先輩のスマホに来たメッセージは、先輩の彼女からだった。大人っぽくて、かっこいい先輩はこの頃から女子に人気で、何人も彼女がいるって噂もあった。
でもそんなこと先輩に訊ける訳もない。ただ私は、先輩の音を聴いたり、話したりできるだけでよかったからだ。
でもそんな私が気にいらなかったらしく、一度先輩の彼女から呼び出されて、「あんたは智歌の何なんだ」と言われ、別れ際に足をひっかけられて、軽く膝を怪我したことがあった。
その人が言うように、私は智歌先輩の何なのだろう。そう言われて、初めてそう思った。
ただの後輩? 単なる幼い頃の知り合い?
そんな疑問が頭の中で飛び交い、私は先輩に何もしてあげていないという答えに辿りついた。曲を弾いてもらっているのに、先輩の役に私はたってない。
先輩の彼女の気持ちを考えれば、彼氏が他の女と話してるのが、気に食わないのは私にでも分かる。
でも分かっていても何だか悔しくて、先輩が遠くに行ったみたいで悲しかった。自分の存在が先輩にとってはちっぽけな存在な感じがして、自分だけ先輩のことを身近に感じて馬鹿みたいだ。
私が先輩の隣りにいたら、きっと先輩に迷惑がかかるし、彼女にも嫌な思いをさせてしまう。だったらもう先輩から距離をとるしかないだろう。
正直そんなことはしたくないけれど、先輩にはもう会わない方がいい。それを放課後、言いに行こうとしたとき、修羅場を目撃してしまった。
いつものように誰がいるかをドアの窓ガラスから見ようとした時、何かはたくような音の後に、机が微かにずれる低い音が中から聞こえて、身体がビクッと震えた。
何が起こったのか分からず、自然と鼓動が高鳴った。
私は中から聞こえたその音が気になって、窓ガラスを覗いた。そこにはやはり机にもたれるように立つ先輩と、彼女が向き合っていた。
「あなたはいつもそうよ。もういい。さよなら」
叫ぶような彼女の声に先輩は何も答えず、机に手を預けてもたれたままだった。それを見た彼女は前髪で顔を隠すように俯いて、すごい勢いでこちらに近づいてきた。
私は見つからないように、慌てて階段を駆け下り、近くのトイレに逃げ込み、身をひそめた。
でもその彼女も私のいるトイレに入ってきて、私の隣りのトイレに入ると勢いよくドアを閉めた。
そしてその後、小さな嗚咽が聞こえてきて、私はいたたまれず、できるだけ音をたてないようにその場を離れた。ちらっと窓ガラス越しに見ただけだけど、出てきた彼女は私を呼びだした人で間違いない。
怪我をさせられたのにあんなふうに小さな嗚咽を聞いてしまったら、やっぱりどこか胸が痛む。自分のせいで彼女を傷つけたのだろうかと、気が沈んでしまいそうだ。
「深桜」
トイレから出てすぐ、階段の上から先輩の声が聞こえた。私は反射的にそちらに振り向いた。
「先輩」
階段の踊り場に立っていた先輩と目が合い、そのままじっと見上げていたら先輩が手招きをしてきた。
先輩のところに行こうか迷ったけど、どうしたらいいのか分からず、結局私は階段を上っていた。
「深桜。怪我大丈夫?」
「このくらい平気です。それより先輩」
「別れたよ」
私が訊こうとしたことが伝わったのか、私の言葉を遮って先輩は先に答えた。
重い沈黙が二人を包み込み、先輩に導かれるまま音楽室へと入った。「どうして別れたんですか?」とは訊けなかった。自分のせいだと何となく分かっていたからだ。
でも先輩は、私に背を向けて歩を進めながら、その答えを口にした。
「深桜を傷つけたことを咎めたら、向こうが別れようって言ったんだ。だから別れた」
私は何も答えることができずに、ただ彼の背中についていくことしかできなかった。
「ここに座って」
先輩がすっと椅子を引いて、何もなかったみたいに私にそっと微笑んだ。どうして自分のことなのに、先輩はこうして笑っていられるのだろう。
自分のことではないのに私は、先輩の淡々とした声が突き刺さって、心がズキズキと痛んでいるに……。
トイレで小さく泣いていた彼女がかわいそうで、先輩にじわりと怒りが湧いてきた。私のせいで別れてしまったのに、虫がよすぎるだろうか。
それでもほんのり赤く染まった先輩の頬をまともに見ることもできず、私は先輩に言われるがまま席についた。
「深桜は悪くないよ。悪いのは全部俺なんだ」
先輩はそう言って、いつものようにピアノの前に座った。でもピアノの蓋を開けることはなかった。
先輩は今、どんな表情をしているのだろう。でもその声は、とても切なくて悲しそうな響きだった。
だからだろうか。心の中は沸々と熱くなっていくのに、顔を上げて先輩の顔を見ることが、私にはできない。