彼はどういう訳か深桜が死んでいると思っているのだ。
 さすがに俺はそんな嘘を吐いた覚えはない。
小さい頃、近所に住んでいた俺たちに起きた悲劇が始まりなのは知っている。
 深桜は翔奏との記憶を失い、翔奏は彼女はもうこの世にいないと思っている。
 でもどうして、翔奏がそういうふうに思い込んでいるのかは俺には分からない。
 ただ嘘を重ねて生きている俺に、それを訂正することはできない。というよりしたくないと言った方が正しいだろう。
 俺は翔奏と深桜が再会することを恐れているからだ。もし出逢えば、俺はもう深桜の隣りを歩けない。
 深桜を翔奏にとられてしまう。それが怖くて俺は、何度も嘘を重ねてきたのだ。
「ごめんな。突然電話して、変な話してさ」
俺がずっと黙っていたせいか、翔奏は重い沈黙をかき消すようにそう切り出し、気を使って明るい声で続けた。
「あっ! 俺、近々CD出すから送るな」
「知ってる。楽しみにしてる」
「期待しとけ。……なぁ智歌。……右手はまだ治らないのか?」
右手というのは俺の右手の指のことだ。怪我をしたわけではないけど、今も俺の指はピアノを弾く時、うまく動かないままだ。
「……あまり変わってない。そんなに気にすることじゃないだろう。お前みたいにプロってわけじゃないだし」
「でもほら。俺好きだからさ。お前のピアノの音」
「なんだよ。気持ち悪ぃ」
真面目な声で答えた翔奏を俺は笑い飛ばした。心配してくれるのはありがたいが、これも自分のせいだから仕方がない。自分で乗り越えるしか、治す方法はないのだ。
「はは。そうだな。じゃあまた連絡するから」
「あぁ。じゃあな」
適当に答えを返しただけで、結局また何も言えずに俺は電話を切った。
 深桜の傍にいながら、俺はいつもこんな感じで翔奏に彼女のことを隠し続けて生きてきた。彼女の話には触れず、ただ昔からの親友を演じてきた。
 翔奏のことが嫌いなわけではない。話をするのは構わないし、一番の友達だとも思う。
 ただずるずると重りを引きずるように、深桜のことに触れずにいたら、月日を重ねるごとに少しずつその重りが重くなって、もうそのことを言えなくなっていた。
 深桜に対しても、翔奏のことはできるだけ触れず、嘘も重ねてきた。