それを聞いたときは驚いたけど、恩義あるマネージャーに頼まれたら、折れるしかないと言っていた。音楽一筋の彼を支える事務所だが、今回は特別にその仕事を受けたらしい。
 やはり彼女はなかなかのやり手のようだ。彼のデビューを早々に成功させただけのことはある。
 たぶん今後の彼のためを思い、幅を広げるための第一歩と考えているに違いない。
 俺はその場から少し離れて、クラシックが載っている雑誌を手にした。ぱらぱらと適当にページを開いて、気になったところを立ち読みした。特に好きなピアニストとかいるわけではない。
 ただ次はどんな曲を練習しようかと、そんなことを考えながら探すのだ。
 帰っても家には誰もいないし、やることもない。ただ翔奏の電話を待つよりも、こうやってピアノのことを考えている方が気が紛れる。
 でも翔奏の歌声が流れる店内では集中できず、結局家に帰ってピアノを弾いて、そわそわする気持ちを抑えつけた。
 何曲も弾いて心を落ち着かせようとしても、時間がたつにつれて焦りはどんどん増していった。
 誰に聴かせるわけでもないピアノの音は、どこまでも儚く虚しい音になっている。
 そしてその音に割り込んでくるように、電話の音が鳴り響いた。
 俺は気だるく思いながらも、電話を手に取った。このまま出なかったらどうなるだろう。
 そんなことを思ったけど、もうこれ以上この関係を続けていける自信もない。
 いつか終わりが来るんじゃないかと、覚悟はしていた。
 でもいざそのときが来たら、今の現実が壊れてしまうのが怖くて、ボタンを押すこともできない。
 そうやって躊躇っていたら、留守電に変わってしまった。このまま諦めてくれたらどんなにいいだろう。
「っ! 何やってんだよ!」
俺は一瞬でもそんなことを考えた自分に腹が立って、舌打ちした。このまま逃げ続けてもいつかばれるのだ。
 もう逃げないって決めたのだ。俺は留守電のアナウンスの途中で通話ボタンを押し、気持ちを悟られないような声を努めた。
「すまん。出るの遅れて」
「いやいいよ。もしかして今、都合悪かったか? 時間改めた方がいいならそうするけど」
「いや。構わない。翔奏忙しいんだろ?」
なんでこいつは自分のことより、俺なんかのことを心配してくれるんだ。自分の方が忙しくて、時間がないはずなのに……。