「私も警戒していたし、会う頻度は少ないけれど、危ない橋を渡っていたのは、あなたと同じね。……昔の……知り合いの話よ。彼はいつも不安定で、どこ見てるのかも分からなかった。だから心配で離れられなかったんだけど、やっと自然な彼に戻れたみたいでよかったって。……ただの独り言よ」
沖浦さんが、結局何を言いたいのか理解できなかったけど、彼女がどこか物寂しそうな瞳をしたのを、俺は見逃さなかった。
 こんな弱々しい彼女を見たのは初めてだ。
「沖浦さん。そろそろ帰りましょうか」
俺の静かな問いかけに、彼女は何かを拭い去る様にふっと息を吐いた。そして俺の方に向き直ると、軽く腰に手を当てた。
「抜け出したと思ったら、すぐに帰りたがったり。よく分からない子ね」
「すみません。それに新曲が浮かんできたから、早く奏でたいんです」
 どうやらいつもの沖浦さんに戻ったらしく、彼女は何も言わずに頷いて応えた。

 俺は、深桜が階段を上る姿が見えなくなるまで見送ってからも、その場から立ち去ることもできずに、階段の一番下の段に腰かけていた。逃げることもできないほど、俺の心はぼろぼろだった。
 深桜は闇に溶けて行くように、階段の先へと消えて行った。
 あれからどれくらい時間がたったのかも、分からない。
 俺は三人で、ここを通る度に手を合わせた地蔵の横に座ったまま、じっとしていた。
 ここにいたからといって、どうすることもできない。
 現実をこの目で見るよりも、誰かの話で聞いた方がまだいいのかもしれない。
 その方が、まだ傷つかずにすむのかもしれない。
 俺はここから逃れたいと思いながらも、ただずっと地蔵に寄り添うように、傾く朝顔の葉をぼんやりと眺めていた。
 本音を言えば、戻ってきてほしい。でも、きっと彼らの時間を奪い続けた俺は、そんなことを願ってはいけない。
 俺は、彼女から今朝貰ったネクタイを、自分の気持ちを抑えつけるように、ぎゅっと握り締めた。
たぶんこのネクタイは巻けない。彼女の思いが詰まったものなんて、巻けるわけない。
 それをぼんやりと眺めていると、小さな違和感が広がった。よく見ないと分からないけれど、ほんのりとネクタイの先が膨らんで見えた。
 そこを指で摘まんでみると、どうやら何かそこに柔らかいけれど、固い芯の入ったものが入っているみたいだ。