彼は私の方に振り返って、智歌先輩みたいに自分の気持ちを必死に抑えつけた笑みを浮かべた。月明かりが、ちょうど木の葉から差し込んで、薄らと見えたその微笑みにズキっと心が痛んだ。
「ごめんなさい。……私」
「君が謝ることじゃないよ。突然変なことしてごめんね。こんなところ週刊誌にでも撮られたら大変だし」
彼はズボンのポケットに手を突っ込んで、またフェンスの向こうを見つめた。
 月が動いて、また闇が溶け込んで彼の顔が見えなくなる。
 私は、何も答えることができなかった。
 自分の優柔不断な行動で、彼を傷つけた自分が許せない。
そして何より、心の奥底では、ほっとしている自分に腹が立ってしまう。
 思わせぶりなことをして、拒んで、安心して。自分の本当の気持ちに素直に気づいてさえいれば、彼にこんな苦い思いをさせずにすんだのに……。
「少しだけ聞いてくれるかな。……俺の話」
私はただ頷くことしかできなかった。
「ここじゃなんだから、あっちに座ろうか。ごめんね。あちこち移動させて」
翔奏の声は落ち着いていて、温かい。私は彼を傷つけたのに、どうしてこんな優しく接してくれるのだろう。
 涙ぐんだ目を拭って、私は彼に導かれるまま、古いお寺の縁に座った。
 その隣りに、そっと彼も腰を下ろした。
 そして、今度は優しく私の手を握った。力はあまりこもっていない。ただほんのりとした温かさが伝わってくる。
「俺の話が終わるまで、こうしてていいかな? それ以上のことは何もしないから」
彼は月の光をあびるみたいに顔を空に向けた後、懐かしいものを見るような目で私に穏やかな笑みを向けた。

「昔……好きな女の子がいたんだ。その子が俺にとっての初恋の子でね。その子を想ってずっと歌を歌ってきた」
「知ってます。雑誌とかネットで見ました」
彼女は手を振りほどくことなく、ただ静かに俺の話に頷いた。
 彼女の記憶は、たぶんもう戻ることはない。何となくだけど、さっきそう思った。
 でも、彼女がちぃであることは変わりない。記憶がなくても、俺のことを藤沢翔奏としか見ていなくても、その悲しみを宥めるように、伝えたい想いが胸を鎮めていく。
「それで俺、その子にずっと伝えたいことがあったんだ」
そっと彼女の方に顔を向けると、彼女もこちらに顔を向けた。
 月が彼女の顔を照らして、白い肌をより神秘的な輝きに光らせていた。