でも彼女の唇に触れようとした瞬間、俺の胸に添えていた彼女の手が俺の服をぎゅっと一瞬掴んだ。それは明らかに、無意識に俺を拒絶した反応だった。
 俺はそっと顔を遠ざけ、彼女を見つめた。ぎゅっと瞑った彼女の瞳の端から、そっと一滴涙が零れていた。
 彼女自身も拒絶したことに、気づいていないのだろう。まだ目を閉じて固まっている。
 俺は彼女から手を離し、そっと彼女に背を向けた。もうこんな彼女は見たくない。
 そして何となく、彼女は俺よりも好きなやつがいるんだという考えが、すとんと心の中に納まった。

 突然のことに驚いて、全速力で走った後のようにドキドキしていた脈が、翔奏の腕が離れると次第に静かになっていった。
 軽い女だって思われてもいい。ずっとずっと恋焦がれていた翔奏と、ファーストキスができるなら、全てを受け入れようと心に決めて、目を閉じた。
 それなのに彼の腕に抱かれて、彼の顔が近づいた途端、智歌先輩が浮かんだのだ。
 智歌先輩とさっき階段で別れたときに見せた、切なさを堪えて、精一杯微笑んでくれた彼の姿が……。
 その姿が目に浮かんだ後、心の奥から誰かのダメっていう叫び声が聞こえた。その誰かが無意識に私の身体を動かして、翔奏の服をぎゅっと握らせた。
 どうしてそんな声が、聞こえてきたのかは分からない。
 でも、その刹那のできごとで、翔奏は自分が拒絶されたことに気づいて、私を手放した。
 ずっと憧れていた彼を受け入れたのに、その彼からのキスを拒んでしまった。
「あの……翔奏さん。ごめんなさい。私……」
その時、先輩が最後に残した一言が頭を掠めた。

――俺、待ってるから

 その声は、いったいどんな気持ちを込めて言われたのだろう。
今も智歌先輩は待っていてくれているのだろうか。
 彼のことが気にかかったら、もう止まらなかった。
力ない翔奏の背中に謝りたくて、声をかけてもその後が続かなかった。彼を傷つけてしまったのは明白で、それが悲しくて苦しくて涙が零れそうだ。
 こんなに好きなのに、全てを翔奏に捧げてもいいって思ったのに、今は智歌先輩のことが気になって仕方がない。
 自分の心が不安定になったみたいに、ふわふわ浮いている。
 でも、きっとこれが、私が抱く本当の気持ちだ。
「ごめん。ただちょっとこうしたかっただけ」