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「智歌先輩。あの曲弾いてくれませんか?」
「……またか。いい加減飽きないのかよ」
先輩はため息交じりの声で呆れながらも、ピアノの蓋を閉めようとはしなかった。嫌そうな顔を浮かべているけど、それは単なる照れ隠しでしかないことが分かる。その証拠に、先輩は手をそっと鍵盤の上に乗せた。
私をここに呼んでくれたのも、私の大好きな曲を聴いて元気になってほしいからだろう。その優しさが私にはちゃんと伝わっている。
やっぱり先輩は優しい。その優しさも先輩と一緒にいたいと思う理由の一つだ。
「飽きません!! だってその曲……なんか懐かしい感じがして、落ち着くんです」
「はぁ。しょうがないなぁ」
私は先輩にこれ以上心配をかけないように、元気よく断言した。そしてそっと目を閉じて、耳だけに集中する。
先輩のため息はピアノの音にかき消されて、静かな講義室は先輩の奏でる音で満たされる。
始まりは、一人で散歩をしているようなゆっくりとしたテンポで進んでいく。
陽だまりを景色を眺めながら、歩いているようだ。
そこから、徐々にリズムが細かくなり、友達と合流した子どもが、二人で走ることを楽しんでいるように、音が転がっていく。
先輩の指が鍵盤の上を滑り、高音を追いかけるように、低音が後をついていく。
そして、それぞれの音が速度を緩めていき、高音と低温が穏やかに溶け合っていく。
その穏やかなリズムが心地よく流れていき、二人が手を取り合うように、最後の音が静かに溶け合い、そっと余韻を響かせながら曲が終わる。
どこか懐かしく、優しい曲が、私の全身を包み込むように紡がれていく。
この曲に、もし歌詞がつくならどういう歌詞になるのだろう。きっとそれは純粋で、思わずドキドキしてしまいそうな、甘い初恋の言葉が紡がれる気がする。
でもこの曲を創った先輩は、言葉を重ねようとはしない。
「ただ適当に創った曲だし、そもそも歌詞をつけるために造った曲じゃない。インスト!」と、私が言葉をつけようとしてもそれを絶対に許してはくれなかった。
先輩の言う通り、言葉はいらないのかもしれないけど、言葉をつければきっともっと優しくなれる。そんな気がしてならない。
私の好きなアーティスト、藤沢翔奏ならきっと私よりも素敵な言葉で飾るに違いない。でもそんなことを私が考えていることは、先輩には秘密だ。
先輩は隠し通せてると思ってるみたいだけど、私には分かるのだ。私が翔奏のことを熱く語ると、簡単に聞きながしているようで、先輩は少し焼きもちをやいている。
音楽をやる者として、プライドが傷ついているのかもしれない。
だからもし先輩が創った曲を翔奏が歌詞をつけたら……なんて語ると、きっと先輩は嫌な気持ちになるだろう。怒って口を聞いてくれなくなるかもしれない。
先輩のプライドを傷つけるのも嫌だし、不快な思いもさせたくない。それに先輩と話せなくなるのなんて絶対に嫌だ。だから翔奏が言葉を飾るのは、私の妄想だけにとどめている。
別に言葉を飾らなくても、充分この曲は翔奏に負けないくらい素敵なメロディを奏でている。だから先輩はもっとピアノの腕にも、自分自身の才能にも自信を持ってもいいのに、先輩は「まだまだ甘い」と自分に厳しい。
だから余計に尊敬の念が高まってしまう。
そんな先輩がピアノを私のために今弾いてくれたのだ。これ以上ない幸せだ。
でも耳をすませても、心の中に薄暗く渦巻く重い感情がじんわりと滲んでいく。
そもそも先輩に弾いてくれるように頼んだのも、この感情を紛らわすためだ。その気持ちを先輩はくみ取ってくれて、文句をたれながらも弾いてくれた。
嬉しいはずなのに、どこか切なくて悲しい。
それは何より、私の大好きな藤沢翔奏が審査員を務める恋愛小説大賞に落選したからだ。
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ことの発端は三か月前の夏である。
私が藤沢翔奏のSNSをスマホでチェックしていたときだ。
次はいつ新しいCDを出すんだろう。そんな気持ちでぼんやりと見ていたとき、最新メッセージにとんでもないことが載っていたのだ。
それは小説大賞の審査員に自分が選ばれたというもので、彼も「たくさんの応募を待っています」という応援メッセージ付きだ。私は信じられず、リンクが貼ってあるURLをタップして、その小説公募のサイトをすぐさま確認した。
約数ヶ月前から公募している賞で、昨日までは審査員は芸能人の誰かが務めるというまだ曖昧な情報しかなかったみたいだ。
でも今日その審査員の発表があったようで、そこには「審査員:藤沢翔奏」とはっきりと刻まれていた。
私はこのページをお気に入りに登録して、机に置いてあるノートを広げ、プロットをかき始めた。
こんなこと滅多にない。大好きな人に自分の作品を読んでもらえるのだ。応募しないわけにはいかない。
シャープペンを握る手が震えて、文字は汚いけれど構わず走らせた。
この公募のジャンルは恋愛小説であること。それ以外はプロ・アマ問わず、年齢制限もない。規定枚数から長編ではあるけど、三ヶ月もあれば完成させられる。
きっと間に合わせてみせる。
私は夜中にも関わらず、無我夢中でプロットを書いた。明日は大学で授業が一限目にあるけれど、このままベッドに入っても寝つけはしない。
恋愛小説はどちらかというと私の得意分野だ。きっとこの勢いなら完成させられる。
私は「ただ翔奏に逢いたい」、「翔奏に読んでもらいたい」という思いで、次の日からパソコンのキーを叩き始めた。
記憶を辿るように、みるみる浮かんでくる場面や言葉が私の手を動かし続けた。
自分でもよく分からないけど、こんなことは初めてだった。頭で浮かぶより先に、手が勝手に動いているときもあった。不思議な感じだったけど、私は一ヶ月半で完成させ、その後、何度も読み返し、推敲を重ね、締切日一日前に応募した。
その日は、今までの疲れが一気に押し寄せたみたいに身体はくたくただったのに、ちゃんと届いているかそわそわして、応募してすぐに届いたはずの応募完了のメールを何度も見ても、眠ることができなかった。
でも選ばれることを信じて待ち続けた。待つ間も気になって休まることはないけれど、できるだけ考えないようにはしていた。ずっとまだかまだかと待っていたら、どうにかなってしまいそうだからだ。
そしていよいよ一次選考通過者の発表のときがやって来た。
昔から作家を目指して、かいてきたけど、今回ばかりは気の入れようは半端なかった。
だって選ばれたら、翔奏に間近で逢えるのだ。そんな機会またとこない。だから絶対受かって、表彰式で翔奏から一言書評を言ってもらったり、表彰状を受け取りたかった。日が変わるにつれて妄想は膨らみ、留まることはなかった。
受賞したらどんなことを言おうかとかいろいろ考えたりもした。
私はその気持ちをそのままに、今日という日を迎え、わくわくしながら、その結果を見つめた。この日をどれだけ楽しみにしてきたことだろう。
今日、最後の講義が終わって、学生がぞろぞろが出ていく講義室に残り、私はスマホでインターネットに公開された一次結果を見た。ずらっと並ぶ作品の題名とその横に記されたペンネームを一つ一つ目で追っていく。
「絶対通っている」という自信もあった。だから期待と希望で胸がドキドキ弾む中、自分の名前を探した。でも指でスクロールして、もう画面が動かなくなった瞬間、一気に絶望と不安がこみ上げてきた。
――どうして自分の名前がないんだろう。
何だか信じられなくて、私はまた最初から自分の名前を探した。でもやはりどこにもない。
そこでやっと自分は一次にも通らなかったのだと理解した。
私は両肘を机につけて、祈るようにスマホをぎゅっと握りしめたまま、その手に頭を預けた。一次予選も通過しなかった私には、もう翔奏から表彰状を受け取るという夢が叶わなくなったのだ。
そもそも翔奏に、私の小説すら読んでもらえない。
ちゃんと原稿は届いたのだろうかと疑いたくもなった。でもそんなことを考えても、仕方がない。一次結果に私がいないことには変わりないのだ。
作品が評価されなかったことよりも、翔奏に逢えないことの方がショックだった。こんなんだから、いつまでたっても作家になれないのだろうか。
夢見て、どきどきしていた私が馬鹿みたいだ。
自信はあったとはいえ、自惚れ過ぎていた自分が恥ずかしい。
どのくらいそうしていたか分からない。
ただ茫然と俯いたまま、自分の愚直さをかみしめることしかできなかった。
チャイムがなり、はっとして時計を見ると、夕方の五時を回ろうとしていた。
一人取り残されていた講義室を後にした。
幾人かとの学生とすれ違いながら、私はもみじが彩る外を見ながら廊下を歩いた。
私ももう帰ろう。
心の中でそっと呟いて、私は中庭を歩きながらスマホを起動した。
作品を応募したことを知っているのは、智歌先輩だけだ。
友達の中で唯一私が小説をかいていることを知っている千歳さんにもなんだか恥ずかしくて、応募したことを言っていない。
千歳さん以外の友人には私は考古学が好きで、その勉強に勤しんでいる学生としか映っていないだろう。
だからこの悲しみや絶望を伝えられるのは、先輩しかいなかった。でも期待していただけに、その先輩にすらこの結果を伝えるのも億劫で仕方がない。
発表が今日であることも先輩は知っているし、いずれ伝えなくてはいけないだろう。
でもまだ言いたくなくて、私はぎゅっとスマホを握り締めた。
メッセージアプリを開いたものの、メッセージを送るのもどう切り出していいのかわからないし、電話でも何だか言いづらい。
今日はとりあえず伝えるのはやめて、明日改めて言おうか。
でもそんな私の思惑に関係なく、後ろから大きな声で呼ばれて、私はその声にビクッと身体を震わせた。
「深~桜~!!」
――どうして今なのだろう。
今、連絡するのを躊躇ったばかりなのに……。
でもこのまま無視するわけにもいかない。私はアプリを閉じて、その声の方に振り返った。
やはりそこには智歌先輩の姿があった。そんなに大きく手を振らなくても分かるのに、満面の笑みで三階にある講義室からこちらに手を振っている。
でも私の浮かない雰囲気で全てを察したのか、少し気まずそうに目を逸らした後、とりなすみたいにまた微笑んだ。
「深桜。こっちこいよ」
今度は小さく手を振って、私を招いた。
先輩はサークルでまだ学校に残っているのだろう。
このまま何も言わずに帰る訳にもいかないし、帰ったところで塞ぎこんで、先輩に伝えるのがますます嫌になってしまいそうだ。
それに中庭にいた学生たちが、私たちの方をちらちら窺っている。ただでさえ先輩はかっこよくて、成績がいいから先生たちからの評価も高くて、目立つのだ。それ故に女性関係の方では少々問題があるらしいんだけど、そんなことは今はどうだっていい。
どんどん集まってくる視線に、私はここから逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
恥ずかしくて、頬が少し熱い。どうして先輩は恥じらいもなく、あんな大きな声で私を呼べるのだろう。私は恥ずかしくて、そんなこと絶対にできない。
それにもし女の子から人気の高い先輩の申し出を断ったら、今集まっている視線が冷たくて鋭いものに変わってしまうだろう。
私は三階にいる先輩にできるだけ近づいて、周りの礼儀として、一応訊ねた。
「お邪魔じゃないですか?」
この質問は単なる「私から先輩のところに行くんじゃありません」という周りへの意思表示だ。あまり周りの目は気にしないけれど、後から変な誤解を生みたくはない。一応そうすることで、先輩を好きな女の子に変な嫌がらせも受けなくてすむだろう。
「大丈夫。もうみんな帰っちまったから」
案の定、先輩はいたずらっぽく微笑んで、カーテンをすっと空けて誰もいないのを見せてくれた。
でもこの距離だと中に人がいるのかどうかは分からない。
もう断れないところまで来てしまった。
ここはもう講義室に行くしかない。
集まる視線の中、講義室に行くのは少し恥ずかしいけど、私は先輩の待つピアノがある講義室へ向かった。
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先輩が言った通り、講義室には先輩以外誰もいなかった。
「こんにちは」
いつもはそんな挨拶なんてしないのに、私はぎこちなくそう言いながら、講義室に入った。
いつもと変わらない空間なのに、どこか違う。
そのせいか、先輩も私と目を合わせようとはしない。入って来た私を見たら、すぐにピアノの蓋をあげて視線を鍵盤に向けた。
私はいつもと同じピアノの斜め向かいに座った。黒板がよく見える一番前の席だ。ほかの講義室よりも小さい講義室に沈黙が広がる。
いつもは何も話さなくても居心地がいいのに、今は沈黙が辛い。でもどう話を切り出していいのか分からなかった。
言わなければいけないのに、言うことができない。
現実を受け入れたくない自分が言葉にすることを拒み続け、その思いが渦巻いて口を閉ざしている。自分から落ちてしまったことを言えば、それが「真実」になってしまう感じがして口を開くことができないのだ。本当は見間違いかもしれないと、まだ希望を捨てきれない自分を断ち切ることができなかった。
ずっと俯いていると、先輩がちらりと私の方を見たのが何となく分かった。それでも顔を上げることができない。
先輩が私の言葉を待っているのが分かる。落選したことが悲しいのか、何も言うことができない自分が情けないのか分からないけれど、零れそうな涙を我慢するようにぎゅっと膝の上にある両手を握りしめた。
どうして自分はこんなに臆病なんだろう。今にも零れそうな涙を堪えて、私は顔を上げた。
すると先輩は静かに指を動かし、控えめに音を奏で始めた。私の心を宥めるように、優しく響くピアノの音。その音が静かな講義室に軽やかに舞い始める。
先輩が昔からよく練習曲として弾いていたパッヘルベルの「カノン」。私が一番好きなクラシック曲。
ゆったりとした低音に高音がそっと被さるように始まる。
そして少しずつ音が早くなっていく。