(1)
「雲は掴めそうっすか?」
 頭上から掛けられた声に肩が震えた。視界に映る少年のことを、わたしは知っている。
 少年は口を押え、自分の発言に驚いているようにも見えた。本当に驚いたのはわたしの方であるはずなのに。雲を掴もうと手を伸ばした姿を見られるなんて、恥でしかない。
 ゆっくりと背中をアスファルトから離し、体を起き上がらせる。支えようとして地面につけた手に砂利が食い込み、小さな跡がたくさんついた。少年の顔をじっくりと眺め、自分の記憶と照らし合わせる。
「月見樹くんだよね……?」
「え、俺のこと知ってるんっすか?」
「だって君、とっても有名人じゃない。あなたのほうこそ、わたしのこと知ってるの?」
「うっす。知らないっす! はじめまして」
 わたしは彼のことを割とよく知っている。
 まぁ、この学校で月見樹の名前を知らない人間はいないと思う。そう断言できるほど、彼は有名人なのだ。爽やかなスポーツマンとして、そしてある種の変人として。
 有名人である彼がわたしに声をかけてきた理由は分からない。悲しいが、高校に入学してからは目立つ大きな戦績を残せていない。だから、彼はわたしのことを知るはずがないのだ。
「えーっと。先輩っすよね。お名前聞いてもいいっすか」
 新手のナンパかよ――心の中で悪態をつくが、目の前に立つ月見樹は純度百パーセントの曇りなき眼をしている。変人として名を馳せる彼に、そんな常識的な感性を求めるわたしがおかしかったのかもしれない。
「夕凪。二年の夕凪」
「おけっす。夕凪先輩っすね。俺は一年三組の月見樹っす」
「知ってるよ」
「ですよねー。俺、なんだか変人で有名になっちゃって。こんなつもりじゃなかったんっすよ?」
 月見くんは頭に手を当てて、大げさにポーズをとって見せた。その仕草は腹が立つようで、どこか愛くるしくも見える。彼が人気者になる理由にも頷けてしまった。
 距離が近い癖に、なんだか腹が立たないのだ。
「それで、雲は掴めそうっすか?」
「雲は掴めないよ。当たり前じゃない。だって気体だもの。そういう言葉もあるでしょ、知らない?」
 空を見上げる。雲は遠く、届くはずがない。
 わたしはつい先ほどの自分の愚かさに、ため息を吐いた。
 雲を掴む――わたしがその言葉の意味を初めて知ったのは、小学生も終わる頃だっただろうか。確か、国語のテストに出題されたのだ。兄と二人で解答を誤り、テスト直しと称された課題でスマートフォンの辞書を引いた。そのときは特に何かを感じることはなかったが、徐々に虚しさを覚えるようになった。漠然としてはっきりしない。その言葉は決して肯定的な意味で用いられない。
『雲を掴むような夢』
自分が抱く夢は、まさにそれだと痛感してしまった。

「さすがに意味くらいは知ってますよ。でも、夕凪先輩が手を伸ばしてたから。届かないのに、手を伸ばしてたんっすか?」
 笑ってごまかしてもよかったが、月見くんは真剣な表情でこちらを見る。さっきまで、あんなに軽く笑っていたのに。
 短時間の熟考。
 ふさわしい言葉は思いのほかすぐに見つかった。わたし自身、ずっとそう思っていたのかもしれない。
「戒め。うん、そうよ。これは戒めなの」
「戒めっすか?」
「うん。お前はこの程度の人間だぞって言う戒め。それに雲に夢なんて馳せたら、足元から崩れ落ちていくのは分かりきったことだから。夢なんか見るなっていう自戒」
 その言葉を吐いたとき、虚しさが心を占拠した。
 あぁ、所詮わたしはその程度で、夢を叶えるに値しない人間なのだ、と痛感する。
 目の前にいる月見くんもどこか傷ついているように見えた。マイナス思考は伝播する。底抜けに明るく振る舞う彼に、この気持ちを移してはいけない。
「今日これから用事があるから。わたし、帰るね」
「うっす、お疲れ様っす」
 月見くんに背を向けて、校門の柵に掛けたジャージを回収する。ひどくダサいジャージ。皮肉めいた言葉の羅列。有田小春の横顔。そして、手首に抱えた爆弾。このジャージには苦しい記憶しか宿っていない。
 吐き捨てるように「だっさ」と零し、その袖に腕を通した


 翌日、いつもより少し遅い時刻に教室へ向かうと、なんだか廊下全体が騒がしく賑わいを見せていた。見慣れた顔ばかりの人混みは、なぜかわたしの方に注意を向ける。
 状況を飲み込もうと周囲を観察すると、遠くであたりを見回す親友、桜井七星と目が合った。
「あ、やっと来た。月見くーん、果歩来たよ!」