(2)
 シューズが体育館の床を摩擦する音が響く。
 なるべく腰を落として、守備範囲は広く。腕は決して振ってはいけない、ボールの落下点に差し出すのだ。
 いつも思う。
 コートにずっと立っていたい、と。しかし、自分はローテーションが進めばコートから出ないといけないポジションだ。悲しいけど、最悪なくても進行できるポジション。自分が得点を稼ぐことはほとんどない。必要とされるためには、誰よりもプレーの精度を高めることが求められる。
 初動で迷いが生じれば、勢いよく打ち込まれたボールに追いつくことは不可能。スパイクモーションからコースを適切に見極めなければならない。泥臭く、粘り強く。派手なプレーはいらない。堅実で正確な一球を。
 一歩。
 腕にずっしりとした重み、衝撃。俺はその回転を殺す。セッターに向かって緩やかな軌道を描くボールを繋ぐ。
「ナイスレシーブ!」
「レフトレフト!」
 その言葉が。セッターの手から描かれる軌道が。スパイカーの自信に満ちあふれて打ち切るその表情が。
 コートに存在するものすべてが、たまらなく愛おしい。
 それは麻薬のような快感。もっと、もっと、と技術の向上を求めてしまう。
 大好きなんだ。バレーボールも、共に汗を流し切磋琢磨する仲間のことも。
 中学三年生。
 引退はもう目の前に差し迫り、俺たちは最後の大会である総合体育大会の予選に向けて練習に励んでいた。
 去年の結果は無念の二位。優勝校だけが上位大会に進出することができるので、先輩たちは引退となってしまった。あれだけ盤石だと謳われていた先輩たちの引退は、あまりにも早すぎるものだった。無敵のセッターと称された克己先輩の捻挫。前衛同士の接触事故だった。それは滅多にないことではない。割と頻発する事故だった。しかし、司令塔を失った俺たちはもうどうすることもできなかった。
 圧倒的優位な点差からの敗北。勝負は何が起こるかわからない。それを俺はコートの中で痛感した。
 それゆえに、今回の大会にかける熱量は人一倍だ。今年こそは優勝をして、次のステップに進んでみせる。そう思っているのは、去年代理のセッターとしてコートに立った大西周大も同じはず。
 周大はあの試合のあと、ひどく落ち込んだ。その気持ちは痛いほどによくわかる。 
 たった一人、自分の交代によって試合が大きく崩れたのだ。
「周大のせいじゃない。俺ら全員がカバーできなかった結果だ」
 当時の三年はそう声をかけ、周大は固い表情で頷いた。あんな顔、もう二度と見たくない。

 しばらくの間はひどく落ち込んでいた周大だが、うまい具合に立ち直り、復活してみせた。今ではチームキャプテンとして、名実ともに司令塔の役割を果たしている。
「おい、樹。さっきのカット、少しネットに近かったぞ」
「悪い、もっと手前に出す」
「ネットに近いくらいなら、Bパスでいいから離してくれた方が助かるから」
「おう、すまねぇ」
 周大と俺は息の合ったコンビだと思う。それはクラスメイトとしても、チームメイトとしても、だ。馬が合うってこういうことなんだろう。多少厳しいことをいっても理解してくれるし、厳しいことを言われても納得できた。特にプレーに関することは、互いに引かない。だからよく激しい言い争いになってしまう。
「あ、それから一つ朗報もある。明後日、克己先輩たちが練習見に来てくれるってさ」
「まじで? 克己先輩めっちゃ久しぶりじゃね? うわぁ、めっちゃテンション上がる」
 克己先輩の怪我は幸いなことに、軽い捻挫で済んでいた。克己先輩自身も少し落ち込んだのだろうが、現在は私立の強豪校で一年生ながらに控えのセッターに選出されているらしい。
 以前、周大と二人で試合を見学しに行った際には、ピンチサーバとして試合に出場していた。
「なぁ、樹」
「なんだよ」
「樹はさ、克己先輩の学校を受験する気なの?」
「あー、したいとは思ってる。でも偏差値的には全然無理。足元にも及ばん。それこそ高校浪人しないと無理だわ。もうめちゃくちゃにスポーツ推薦が来ることを祈ってる」
「奇遇だね、僕も推薦を待ってる。他の所はいらない」
 周大はにやりと笑った。俺も同じように笑って見せる。
 俺たちは共に進学をして、チームメイトとしてプレーし続けるのだ。
 言葉にはしない共通目標。
 総合大会で優勝し、上位大会に進む。そして、二人で克己先輩の後輩となる。
 俺は少年漫画の主人公にでもなった気分になった。
 やってやる、俺たちならできる。そう信じて疑わなかった。


「「ありがとうございました」」
 練習で声を張り上げすぎて掠れ始めた声がこだまする。三対三のミニゲームで負けたペナルティランが足の疲労に繋がった。摩擦で生じた火傷がひりひりと痛むが、それですらも勲章に思えるのだから不思議だ。
「樹。僕、職員室に行ってくる。先輩たちが差入で持ってきてくれたアイスもついでに」
「おー、サンキュ」
 周大は手をひらひらと振り、職員室に繋がる廊下を駆け足で進んでいった。
 額を伝う汗をスポーツタオルで拭っていると、克己先輩が手招きをして俺を呼ぶ。
「今日はありがとうございました。やっぱ、克己先輩はすごいっす」
「いや、お前らの成長のほうがすごいよ。俺らの時よりも強いんじゃないか? 今年こそ優勝が近いな」
「そうっすかね」
 確かに、今年は強い。周大は去年の克己先輩に近づいていることは確かだし、俺だって成長している。それに、二年の渡辺孝弘の伸長が伸びた。あまりにも急に伸びたのでフォームの修正が追い付かないのではないかと危惧されていたが、それすらも杞憂だった。渡辺は上手いこと修正している。このまま成長すれば、来年にはどこでも通じるエーススパイカーになるだろう。
 ただ、いつも頭によぎるのは去年のあの敗北。勝負は最後の一瞬まで何が起こるかわからない。しかし、そこのことを本人である克己先輩に告げることに戸惑っていた。
「お前はほんと、顔に出やすいなぁ。今でもみんなには悪かったと思ってるけど、俺は意外と気にしてないんだよ。後遺症に残るような怪我でもなかったし、結局は推薦で志望してた私立に行けたしな」
「うっす」
 克己先輩は組んでいた腕を組みかえて、優しく口角を緩めた。
「なぁ、樹。お前、俺の高校に進学して来いよ。監督がさ、今年もうちの中学にスポーツ推薦出すって。お前はこのままいけば確実だと思うよ。この大会を終えたら声がかかる。あとは周大。西中にタッパのあるセッターがいて、そいつと迷ってみるみたいだけど。この大会で活躍さえすれば行けると思う」
「本当っすか」
「あぁ。だから、絶対に優勝しろよ。あとで俺から周大にも伝えて置くから」
 もう一度感謝の言葉を伝えた時、反対の正面玄関から周大がアイスクリームの袋を抱えて飛び込んだ。「アイスはみんな一個ずつだからなー」と言う声がこだまして、克己先輩が「ほら、行ってこい」と指をさす。
 俺は体育館の外通路から正面玄関に向かって走る。
 いつもより空が近くて、雲に手が届くのではないかと錯覚した。
 俺も、周大も。雲はいつか掴めるものだ。
 あの日までは、そう信じていた。


 総合体育大会の三日目、準決勝及び決勝戦。
 忘れたいと願うその日のことは、まるで昨日のことのように鮮明に思い出すことができる。
 準決勝は南中との対戦で、俺たちは接戦を強いられていた。セッターにタッパがあるのが痛い。周大が小さいわけではないのだが、相手が大きすぎる。マッチアップを強いられると、どうしても劣ってしまった。それに、以前試合をした時よりも格段にセットアップの精度が上がっている。現時点だけを切り取れば、誰がどう見ても周大よりも南中のセッターが上手いと言うだろう。
 なんなら、今の周大は本当にあの大西周大か疑うほどだ。
 セットアップがネットに近い。さっきのトスはダブルを取られた。あまりにも初歩的なミスだ。それに、もうずっとレフトにしかボールをあげていない。
「おい。周大どうしたんだよ。調子悪いのか?」
「いや、ごめん。そんなことはないはずなんだけど……」
 彼はそう言うが、誰がどう見ても調子がいいようには見えなかった。
 第五セット、二十四対二十三のこの局面。どうしても次の一点を取り切りたかった。デュースになれば、勝ち目はないと予感している。
 手のひらに嫌な汗がにじんで、慌ててユニフォームの端で拭った。
 南中のセッターがサービスを放つ。鋭い弾道。しかし、そのボールは俺の守備範囲に打ち込まれていた。正面でボールを捉える。
 俺はサーブレシーブが一番得意だった。これを正確にレシーブしてこそのリベロだ。
 だけど、俺は周大にレシーブをするべきか迷った。
 自分の直感を信じて、あえてBパスで上げる。
 ゆっくりと、高く。
 そして、周大ではないライトの山岸の名前を呼んだ。
「山岸! レフトだ!」
 山岸は一瞬困惑したようにも見えたが、すぐにボールの落下点に走りこむ。
「レフト」
 とっさの対応だったが、山岸は比較的綺麗で高いトスをあげた。十分だ。渡邊なら打てるし、俺がブロックカバーについている。
 鋭く打ち切る。
 そのまま相手のエンドラインを割って、試合終了のホイッスルが鳴った。
「山岸、渡辺。ナイス!」
 駆け寄って、喜びを分かち合おうとしたそのとき。ひどく傷ついて立ち尽くす周大と目が合った。
「周大ナイスファイト。決勝で取り戻していこう」
「おう」
 目が合わない。さっきのプレーを引きずっているのだろう。そう分かっていたから、不必要に声はかけなかった。タオルを手渡し、コートから引き上げる。
「集合」
 監督が俺らを収集する。監督を起点として、ぐるりと一周の円を描くように集合した。ちょうど、正面に周大が立った。斜め下を向いている周大とは視線が合わない。意図的に逸らしているようにも見えた。
 ついさっきの試合の総評を受け、決勝のスターティングメンバーを決める。先ほど試合に出場していたメンバーが現在のベストメンバーであり、変える必要はないと思われる。
 ただ、それはいつもならば、だ。
 監督が俺らを一瞥して、鋭い視線を一点に向ける。多分、その場にいる全員が何を告げられるのか理解していたと思う。それでも、俺らは固唾を飲んで見守った。
「おい、周大。お前は下がれ。決勝は佐藤をセッターに置く」
「監督、もう一度チャンスをください」
 周大の声はひどく震えていた。目にはすでに厚い涙が膜を張っている。たぶん、何を告げられるのか彼自身も分かっていたのだ。
「今日はお前をださねぇ。今のお前なら佐藤の方がましだ」
「でも、佐藤はセットアップですら未熟です。自分の方が上手くやれます」
「だから、今のお前よりはましだと言ってるだろう。樹のレシーブを何本無駄にしたかわかるか?」
「……」
 佐藤はまだ一年だ。運動センスに優れていて、素直な性格が幸いして呑み込みも早い。しかし、どうしてもバレー歴が浅かった。小学五年の終わりに始めたというから、二年経っていないくらいだろう。それ故に、セットアップのパターンが少ない。打つには問題ないが、どうしても駆け引きになると劣ってしまう。
「樹、渡辺、山岸。お前らが主軸で支えてけ。それでいけるな?」
 俺たちに反論する権利はなかった。その指示が理不尽なものであったなら、俺は抗議したかもしれない。でも、確かに俺は思ったのだ。あの試合の最中にも何度か――今日の周大では負けてしまう。それならいっそ、佐藤のセットアップの方がまだ活路がある、と。
「うっす」
 他人事のような自分の返事が聞こえた。冷静で納得している声音だった。俺の返事を聞いた渡辺と山岸も後を追うようにして、短く肯定の意を述べた。
 正面に立つ周大の悲痛な視線が突き刺さる。言葉にはならない叫びが、直接心に訴えかけてくるようだ。
 勝ちさえすれば、上位大会は一緒にプレーできる。俺は自分にそう言い聞かせながら、じっとシューズのつま先を見つめていた。

 勝負は何が起こるかわからない。去年の俺は、それを嫌と言うほどに実感させられたはずだ。
 今年の俺は、勝負の世界はそんなに甘くないことを学んでしまった。
 傲慢
 驕り
 慢心
 俺は自分の実力を過信しすぎていたのかもしれない。
 拾ったボールは緩やかにセッターの頭上へと上がる。俺は佐藤をサポートするために、ライトに声をかけた。佐藤はライトにセットアップする。山岸がスパイクを打ち込もうとするが、なにせさっきからワンパターンの攻撃を繰り返している。ライトから、レフトから。山岸と渡辺が緩急もなく打ち込むだけ。それだけだった。俺はブロックをされるたびに、フォローに入るが全てが拾いきれるわけではない。ただコートに落ちていくボールを呆然と見つめた。
 それでも、なるべく明るく声を大きく。今、俺は司令塔の役割も果たさなければならないのだ、と大げさに振る舞って見せた。上手く攻撃が決まれば大きく褒め称え、自分のファインプレーにも大げさに喜びを見せた。それはチームの士気を下げてはいけないと思った故の行動だった。
 それを周大はどんな気持ちで眺めていたのだろう。
 俺は、どうして周大の気持ちを考えられなかったのだろう。


 あの日から周大と目が合わない。
 俺が周大の異変に気が付いたのは、引退して三日後くらいのことだった。はじめは、あの日のやりきれない思いや悔しさがもたらす一過性のものだと踏んでいた。俺も不必要に傷を抉る必要はないと、あまり触れないようにしていた。
 しかし、それからさらに一週間。明らかに周大は俺を避けている。よそよそしく会話を切り上げ、遠くから突き刺すように冷めた視線を感じることが増えた。体育館に教室、あれだけ時間を共有していた周大は、明らかに俺を避けていた。
周大は今、俺以外に仲の良かったやつらとつるんでいる。俺も、周大以外で仲の良いクラスメイトと一緒にいる。互いに探るように向けた視線がぶつかって、どちらからともなく逸らす。じれったくて、歯がゆい。かける言葉を見つけることができず、ただただ無意味な時間を過ごした。
「なぁ、お前ら喧嘩してるのか」
 職員室に課題提出に行ったとき、教師の岡村が俺にそう声をかけてきた。遅れた課題について、岡村は言及しなかった。
 岡村は俺らの部活動顧問でもあり、一番信頼していて一番苦手な教師だ。彼が言う「お前ら」というのは俺と周大のことだろう。
「いいえ、喧嘩なんてしてないっすよ」
「そうか、それならいいんだけどな。いや、な。最近、一緒にいるところを目っきり見ないから、それに……」
 教師は分かりやすく頭を抱え、うめき声をあげた。隣に座る女教師が不審なものを見るように顔をしかめる。
「樹。とりあえず、おめでとう。来たぞ、スポーツ推薦。去年、克己が進学した私立からだ。ただ……」
 岡村は言葉を濁し、天を仰いだ。適切な言葉を考えあぐねているようだ。俺は、そこまで鈍くはない。岡村が続く言葉を濁す理由も、俺と周大の関係を心配する理由も、俺の推薦に「とりあえずおめでとう」と言った理由も。全て、そこにあるのだ。
「推薦は、今のところ樹だけだ。周大には来てない。西中のセッターに声が掛かったみたいだから、たぶん周大には来ない。そもそも、あそこはちょっと特殊なんだ。高校からのスカウトのくせに、こんなにもギリギリにしてくる。他の学校は、もっと早くから声をかけるのに」
 一息にそう言った岡村は、俺の顔色をあからさまに伺った。
 自分に来た朗報に喜ぶべきか、親友の無念を悲しむべきか。曖昧な表情でその場を取り繕うことしかできなかった。
「返事、考えとけよ。周大には俺から上手いこと伝えて置くから」
「はい」

 夕焼けに染まる帰り道を一人ぼっちで帰るのは、孤独と喪失感で苦しかった。これまでは部活で日は沈んでしまっていたし、テスト期間も周大と肩を並べて歩いた。
 二人ならどこにだって行けるし、なんだってできると思っていた。
 三年にも満たないコンビ。
 たかが三年と言われるか、されど三年と捉えるか。
 どちらにしても、俺は周大を尊敬している。だからこそ、一緒に進学したいと願っていた。でも、克己先輩とプレーすることを夢見ていたことも事実。
 夢に手が届きそうなことが、嬉しくて、こんなにも苦しい。
 茜色に染まる雲を見上げたが、涙で滲んで上手く見えなかった。


 重苦しい玄関の扉を開く。母さんが出迎える「おかえり」の声に適当な相槌を打って、自室に逃げ込んだ。
 どさり、と音を立てて落ちた荷物から、先ほど渡された高校案内の文字が見える。壁にかかったプロバレー選手のポスターに克己先輩たちと撮影した去年の集合写真。そして、床に転がったままの赤と白と緑のバレーボール。カーテンレールにかけられているのは、擦り切れた膝と肘のサポーターだ。
 この部屋はバレーボールに溢れすぎている。
 この部屋はチームメイトに溢れすぎている。
 ひどく疲れ切った思考では自分がすべきことすらわからずに、制服のままベッドに転がった。どっとダムが放流するように重たくて激しい疲労感が襲い掛かってくる。
 おもむろに制服の胸ポケットからスマートフォンを取り出す。周大からの連絡を確認するが、何一つ受信していなかった。
 深いため息を吐き、ベッドの上にスマートフォンを投げ捨てる。壁にかかった笑顔の周大と目が合った気がした。
 この頃は楽しかったな。
 そう思うと、名前をつけることさえできない感情が行き場を失い、涙となって零れ落ち落ちた。枕に顔を押し付けて、声を押し殺して泣く。悔し涙じゃない涙を流すのは、久しぶりでどうやって収拾を付ければよいのかさえ分からない。
 誰か、誰か助けてくれ。俺に引導を渡してくれ。
 そう念じた時、思い浮かんだのは憧れの克己先輩だった。彼ならば、いつも前を突き進んでいく彼ならば。
 涙でべとべとになった腕で、スマートフォンを手繰り寄せる。
 文章を推敲することもせずに、俺はおもむろに打ったそのままを送信した。
『推薦は貰いました。貰ったのは、俺一人っす。克己先輩、俺どうするべきっすか』
 俺はそのメールを送ることで、克己先輩からどんな言葉をかけて欲しかったのだろうか。慰めて欲しかったわけじゃない。
諦めろ、そう言って欲しかったわけでもない。叱責の言葉が欲しかったわけでもない。
 何を求めていたのかがはっきりしないけど、帰ってきたメッセージは求めていた言葉ではなかった。
『俺は迷わない。迷わず自分が選んだ道を進む』
 先輩から貰った言葉のせいにするわけじゃない。それでも、俺が選んだこの道は、自分が迷わないための決断だった。


 その日は、腹が立つほどの快晴だった。空に浮かぶ太陽を、それに映える入道雲も。全てのものが痛いほどに眩しかった。
 俺が呼び出した周大は小刻みに貧乏ゆすりを繰り返し、苛立っているのがすぐにわかった。
 一歩を近寄ることができず、微妙な距離を保ったまま声をかける。
「なぁ、周大。俺さ、推薦蹴って、公立に進学しようかなって。山北ならさ、二人でプレーできねぇかな」
「は?」
 聞いたこともないような低い声に視線を向けると、見たこともないような憎悪の瞳がこちらを睨んでいた。
 思わず、言葉を失い立ち尽くす。
「手に入れたくせに、いらないのかよ。わけわかんねぇよ」
 吐き捨てるような言葉だった。棘を持った言葉たちが、突き刺さる。
「お前はさ、いいよな。何でも持っててよ。あの日だって本当は心の中で僕のこと、馬鹿にしてたんだろう? 向こうの監督が来てる前で、調子を崩していく僕のことを嘲笑ってたんだろ? なぁ」
「そんなことないって、俺はそんなことしねぇよ」
「そんなこと言われたって信じられないよ。スターティングメンバー外されてさ、佐藤なんかにポジ奪われて、リベロがコートの指揮取るんだよ? こんなことはありえないんだよ、普通なら。あぁ、あれだ。準決勝の最後だって、お前は僕にパスを出さなかった。わざわざBパスで山岸に繋いだ。それが確固たる証拠だろう? あんときの僕の気持ち、樹なんかにわかるわけない!」
「あれは……」
「樹なんて大嫌いだ。消えろよ。消えてくれよ。お前みたいなやつが仲間だったなんて、もう一生思わない。あぁ。樹は違う高校に行くんだから、そもそも仲間じゃなくなるか。行けよ。僕を踏み台にして、お前は自分の道を歩けよ」
 痛かった。彼の言葉が苦しいほどに刺さった。
 でも、それよりもたぶん、俺は絶望したんだ。周大の言葉に対してではなく、自分が仲間の周大をひどく傷つけたという事実に対して。
 ずっと空を見続けていたから、隣にいる仲間の顔を見ることができていなかったのかもしれない。俺は、雲を掴んではいけない人間なのだ。
 涙は出てこなかった。乾ききった心の底で、俺の中にあった小さな火種が消えていくのを感じた。
 もう、何もかも消えてしまえばいい。


 今まで駆け抜けてきた廊下を、これほどまで長く永遠に感じたのは初めてだった。俺はゆっくりとした歩調で、一歩を前に出し続ける。
 ひどく長い廊下。
 無機質で温度のないただの道。
 その先にある扉は、鉛のように重たかった。

 自分の決断に悔いはないはずだ。もうコートには立たないと決めた。
 ただ、あれが自分の最後の試合になるなんて思ってもみなかった。自分のバレー人生に区切りをつけるには曖昧すぎる幕切れだと思う。まぁ、それもすべて仕方のないことだけど。
「監督。すみません、少し話良いっすか……?」

 俺は推薦を蹴った。
 もうバレーボールはしない。
 もう仲間はいらない。
 一人で歩けば、誰も傷つけることはないんだから。