(9)
 青い空の下、深紅のジャージはよく目立つ。
 わたしは、一人で階段に腰を掛ける兄の克己を見つけた。しかし、先客が来たようだ。
「克己の後輩、まじでやべぇな。いや、克己もあれはただのやばい奴だった」
「西田まじでうっせぇ、ほっとけ」
 西田、と呼ばれた人は兄と同じ深紅のジャージを羽織っており、すぐにチームメイトであることが分かった。
 少し小柄な西田さんは兄の肩を組んだが、兄は嫌そうに体をよじらせた。それを西田さんが不快に思わないか心配になったが、あまり気にしている様子はなかった。
「いや、まじで。あんときばかりは克己が何を思って笑ってるのか、さっぱり理解できんかった。もはや恐怖」
「いや、なんか懐かしくなって」
「懐かしくてもあんなに笑わんやろ。試合中やぞ…… お前もあとで監督にこってり絞られるな、ありゃ」
 遠目からでもわかるほど、西田さんは表情をころころ変える。今は信じられない、と唖然としていた。信じられないとでも言いたげに唖然とした表情のあと、からかうように笑って見せた。
「この気持ち、西田にはわからねぇのかよ」
「わからんって」
「そうか、わからんかぁ。まぁ、そんなもんか」
 兄は安心したように笑っていた。そんな表情を見せられる相手がいる、ということが羨ましかった。そして、その顔を引き出した西田さんに少しだけ嫉妬してしまう。わたしも結構、ブラコン気質なところがあるのかもしれない。
 でも、そのやりとりを聞いて心の底から安堵した。
 兄はもう大丈夫だ、と言う確信を持てた。
 わたしが何かをしなくても、兄は大丈夫。
 強くなる過程で兄は自らの鈍感さに苦しんだ。でも、強くなるにつれて兄のことを理解できる仲間が現れた。スポーツは一筋縄ではいかない。強くあり続けるためには、どこか突出した個性が必要になるのかもしれない。個性あふれる集団に囲まれて、兄はようやく自らの突出した強さを受け入れられた。自らの強さにつぶされないだけの別の強さを手に入れた。
 仲間に西田さんがいてよかった。
 兄にバレーボールがあってよかった。

 西田さんが離れたことを確認したわたしは、兄に近寄った。
「おつかれさま、お兄ちゃん」
「ありがとう」
 段差に腰を掛けていた兄のすぐ横に腰を下ろす。兄の体はまだ熱を帯びていた。
「なぁ。あいつ。樹って果歩の彼氏?」
 思わず声をあげて笑ってしまった。試合後の熱を帯びた体で、神妙な面持ちで、妹に対する第一声がそれか。
「樹くんはただの後輩だよ」
「そっか、そうだよな。よかった」
 兄は肩の力を落として、あからさまに安心した様子を見せた。あまりにもわかりやすくてまた笑えてしまう。その様子を見て、兄は不満を口にした。
「やっぱりさ、お兄ちゃんって鈍感だよね。それが確認できてよかった」
「どういうことだよ、失礼だな」
「ふふ、そのまんまだよ。それより、良かった。お兄ちゃんがわたしのお兄ちゃんで」
「なんだよ、かわいいこと言うじゃんか」
 人の痛みが分からない。そんなことは当たり前じゃないか。それは兄に限ったことでない、わたしたちは分かったフリが上手くなりすぎただけだ。兄はわかったフリができなかっただけだ。
 兄は雲を掴めて、わたしは掴めない。そんなことはあり得ない。雲は無数に描けるのだ。兄は努力と運が味方して、はじめに描いた雲に手が届きそうなだけ。

 そう、それだけのことだった。