(8)
 久し振りに見かけた樹は、以前よりも痩せた気がする。特に腕周りの筋肉が目に見えて減っていた。もうバレーボールをしていない。そのことを知っていても、事実を目にすると悲しくなるものだ。
 彼は、僕のせいでバレーボールを辞めた。
「……周大。久し振り」
「うん、久しぶりだね」
 続く言葉はいつまでも出てこない。一度目が合って会釈をした女性は、樹の彼女だろうか。そんな他愛のないことさえも、聞くことができない関係になり果ててしまっていた。
「……僕たち、どこで間違えちまったんだろうね」
 絞り出した自分の声は、やけに情けなく震えていた。
「なんで、こんなことになっちまったんだろうな」
 樹は何も言わない。何も言えないのかもしれない。
「やり直せたらいいのにね」
 僕はずっと一人で喋っている。お前に罵ってもらえれば、少しは心が楽になる気がするんだ。だから、なんでもいいから僕を咎めてくれよ。
「全部やり直すんだ。僕はもっとバレーボールを練習して、そしたらずっと仲間でいられた」
 そうだろ? と尋ねるように視線を向けると、樹はようやくその重たい口を開いた。やっと咎めてくれる、そう思った。
「そんなことねぇよ。俺、本当はバレーのことそんなに好きじゃなかったんだと思う」
「僕には、樹がバレーを好きだったように見えてたけど」
 意外な発言に僕は大きく首を振って否定した。
「俺は仲間と何かをする時間が好きだっただけ」
「それをバレーが好き、って言うんじゃないの? バレーは仲間がいないと成り立たないし、仲間がいてこそのバレーだろう?」
 咎めてもらうつもりが、僕の声に熱が籠っていく。
「誰が何と言おうが、月見樹はバレーボールを愛してた。百パーセントの愛情を仲間に注ぐ、これを愛って言わないなら何て言うんだよ。本当に、ほんとうにバレーをないがしろにしてたのは僕なんだよ…… 僕の心が弱かったから、樹は傷ついて、バレーを辞めて」
 震える声で自分が泣いていることに気が付いた。そのことに気が付いてしまうと、川が決壊するように留まることなく涙が溢れる。
「僕が、樹からバレーを奪ったんだ。仲間を、バレーを、その熱量を。僕が全部」
 時間が経つにつれて膨らんでいった罪悪感。それはもう、破裂寸前の風船のように膨らみ切っていた。直前で割れることを耐えていたその風船は、再会という起爆剤によって爆発してしまった。
「罵れよ。そして、僕を咎めてくれよ。お前なんて仲間じゃねぇ、そう言って咎めてくれよ」
 樹は僕を黙って見つめた。
 ただ黙って、僕の肩に手を置いた。樹は泣いていた。静かに泣いていた。怒りや、悲しみではない。その涙は、ただ優しさだけで満たされていた。
「俺が周大を咎める事なんてねぇよ。それより。試合、頑張れよ。ちゃんと観てるから」
 樹は何かを諦めた顔をしていた。やっと、肩の荷が下りた。そう言いたげな表情だった。
 すっきりと澄み渡る空のように、それは穏やかな感情だった。
 もう俺は後悔なんてしていない。彼の瞳はそう告げていた。
 いつだってそうだ。月見樹は優しすぎる。仲間を思いやりすぎる。それがみじめで悔しくて。でも、いまはその優しさが痛いほど嬉しかった。
 嬉しくて苦しかった。


 どこかの顧問が審判を務める。県内の試合ではよく見かける顔だった。
「えーっと。これより第○回春の高校バレー地区予選三回戦を始める」
 観客がいつもより多いのは、きっと相手が克己先輩たちだからだ。
 ネットを挟んで対峙する克己先輩は、ひどく恐ろしい怪物のように見える。僕と背丈はほぼ変わらない。体格は先輩の方が確かに大きい。でも、それ以上にもっと大きく恐ろしい。
 背筋が冷えた、指先が震える。
 この人に勝てる未来なんて見えやしない。もともと、この試合の勝者は決まっているようなものだ。
 勝てるはずがない。勝てるはずなんてない。だって、相手は王者だぞ。何年連続で春高バレーに出ていると思ってるんだ。
 そう思う気持ちと、樹に格好悪い姿を見せたくないという葛藤が同居する。
 試合開始のホイッスルが、一層の緊張感を連れて鳴り響いた。
 チームメイトのサービスから試合が開始する。
 サービスは相手チームの三番リベロの正面に飛び、克己先輩をめがけて綺麗な軌道を描いた。流れるようにセンターからタイミングの速い攻撃が繰り出される。こちらのセンターがブロックを飛んだが、大きくはじかれてアウトになった。
「「ナイスキー」」
 強豪校は応援まで強い。統率された軍隊のように、時に自由に駆け回る子どものように。手を変え、色を変え、無駄なものは一つもない。
 一撃目をセンターに取られた僕たちは、ごくりと生唾を飲んだ。
「つぎ一本で切るぞ」
「「おうっっ」」
 緊張はぬぐい切れないが、せめてもの声出しとしてチームメイトに声をかける。
 再びホイッスルが響き、相手チームのサービスが始まる。
 サーバーは克己先輩。ということは、ツーアタックはない。
 ただ、前衛に上がってきた大柄のガタイのいい八番がネックだ。立っているだけでブロックしているようなもんじゃないか。
克己先輩はジャンプサーブを得意としている。それは前々から周知の事実だった。ゆっくりとした動作でボールを投げ上げる。軽い助走をつけてからしなった腕は、高い打点でボールを捉えた。
 回転が掛かっている。威力は抜群。スピード、コース共に文句を付けようがないサービス。
 そのサービスを大きくはじいたのは、リベロの寛太さんだった。
「次、一本取り返しましょう」
 声をかける。激励の言葉だが、慰めに聞こえてはいないだろうか。それが不安だった。
 ミスをした選手にとって、一番苦しいのは慰めだ。特にサーブレシーブだけは、個人の責任になってしまう。もちろん、カバーができる範囲のミスやお見合いはチームの責任だ。しかし、純粋に正面に来たボールを大きく弾き飛ばしたり、ノータッチエースで足元を抜かれたりした場合は責任が個人に追及される。そのとき、慰められた選手のみじめさは僕が一番よく知っていた。
 怒鳴られるより、失望されるより、中途半端な同情めいた慰めが一番心を侵食する。自分の情けなさを、痛感する。だから、僕は慰めの言葉はかけたくなかった。
再び、ホイッスルが鳴り響く。
 克己先輩の二度目のサービス。
 大きくしなった腕から放たれたサーブは、ネットに当たって威力を失った。
「カバー」
 その声にワンテンポ遅れて、寛太さんがファーストタッチをあげる。少し、低かった。オーバーでは取れないが、アンダーで取るには高すぎる。そんな微妙な返球だった。
「レフト!」
 そう呼べば、レフトは助走をつけて飛んだ。
 けっして悪く無いスパイクモーションだった。しかし、そのスパイクは相手のブロックによって、こちらのコートに叩きつけられた。リベロのカバーは届かない。
「ドンマイドンマイ、ブロック高いから、コース意識してこう」
 言いきかせるように、無理の下明るい声がコートを飛び交う。しかし、メンバーの顔に不安の色が浮かんでいた。
 もちろん、僕もそのひとりだ。

 また、一本スパイクがブロックに拒まれた。
 焦ったスパイカーが、タッチネットで失点。
 一点、ようやくこちらが点を取った。相手のサーブミスだ。
 次の一点は克己先輩のサービスエース。そして、重ねてストレートにレフトのスパイクが叩き込まれた。
 点差は徐々に離れていく。すでに一セットを奪われており、もうあとがない。それは十分にわかっているが、成す術がなかった。
 克己先輩のセットアップはもちろん、ブロックは高く、コースを読むことに長けていた。相手のリベロは凄腕だ。レフトとライトもコース取りが上手く、こちらのブロックはザルも同然だった。
 どこか一つの綻びなら、それを改善することが叶ったかもしれない。でも、全てが綻んでいた。いや、チームとしての機能が何一つとして正常に機動していない。
 だれも、文句を言わない。
 だれも、プレーに要望を言わない。
 それが、このチームにおける何よりの問題点だった。
 それが、このチームを束ねる僕自身の問題点だった。
 分かっていても直せないことがある。直したいと思う気持ちはあっても、それができるかどうかは全くの別問題だ。何より、僕はまだ一年だ。コートに共に立つ先輩たちに大きな顔で文句などは言えなかった。たとえ、それが要望だとしても。
 セッターはチームの司令塔。例外はあるが、コートにたった一人。すべての攻撃を中継する。セッターが変われば、チームのコンセプトが変わる。どんな攻撃を、いつ、どこで、どのタイミングで。すべてはこの手にかかっている。スパイカーを生かすも、殺すも、全てトス一つが左右する。
 それくらい重要な役割であることは、よく知っている。
 でも、僕はその役割を果たしたことがない。
 特にこの試合はひどがった。目の前の敵は克己先輩。会場のどこかには、樹がいるのだろう。情けない姿は見せたくない。ちっぽけなプライドだけど、彼を傷つけて置いて下手くそな姿は見せたくなかった。
それに加えて、うしろにいるはずの仲間ですら敵に見えてきた。
 今まで感じたことのないような不安。緊張、という言葉では表現しきれないほどの体の強張り。それがずっと付きまとっていた。
 トスは乱れ、攻撃は単調に。上手くセンター線を使うこともできなかった。
 僕はそう、いつだって大切なときに限って実力を発揮できない。
 いつだって、司令塔にはなれなかった。
 それでも、誰も何も言わない。誰も僕を咎めない。
 それが、いつもひどく苦しい。僕を孤独にさせる。それを仲間には言えない、仲間も何も言わない。
 嫌な考えばかりが頭を駆け巡り、心臓が異様なまでに早く脈打っていた。

「おい!! 周大、諦めた顔したセッターなんていらんわ。しっかり先導せんかい。お前が司令塔やろ!」

 静寂を打ち破るような怒声が響いた。
 僕をはじめとしたコート中の視線が、その発信源に注がれる。
 その怒声は、間違いなく樹のものだった。
 部外者は立ち入り禁止の体育館のフロアで仁王立ちをしている。
「だれだよ、あいつ?」
「おい。周大の知り合いか?」
 コートの中にいる先輩が不審な声をあげる。怒声をあげた樹は、どこかの監督に咎められた。それでもなお、何か大声でこちらに向けて叫んでいる。当たり前だが、強制退場させられた。
 猪突猛進、あいつは昔から変人のバカだった。
 相手コートの選手も、みな何かしらマイナスのリアクションをとった。囁き合ったり、睨んだり、程度は違うがプラスではないことだけは確かだった。
 その中で、僕と克己先輩だけが笑っている。
 そう、昔のように笑っていた。

 乾いた笑い声で笑う克己先輩を一瞥する。先輩は親指を立てて、こちらに向けた。
 僕はようやく思い出した。
 僕は司令塔だということを。
「レシーブは多少乱れても大丈夫です。その代わり、高く上げてください。なるべく高く、ネットから遠く。それ以外の要望はないです。お願いします」
「「おう!」」
 あぁ、ここで思い出せてよかった。
 ひとつ、深呼吸をする。思ったより呼吸が浅くなっていたようだ。新鮮な酸素が肺を満たしていった。
 もう一度、克己先輩を見る。
 先輩はにやりと不敵に笑って見せた。
 僕はずっとこの人のうしろにいた。この人の控えにいた。やっと正セッターの座を射止めたとき、それでも僕は樹におんぶにだっこだった。情けないことに、それで一人前になっていたような気がしていた。
 でも、山北のセッターは他の誰でもない僕だ。そう。僕はいまやっと、一つのチームの司令塔なんだ。
 許してくれ、そうは言わない。でも、誰でもいいから咎めて欲しかった――そんなことはない。許して欲しかった。他の誰でもない、樹に許して欲しかった。お前は仲間だと、チームが離れても、どこに居ても、お前は仲間だと言って欲しかった。
 本当は、それだけだった。
 あぁ、ずっと。ずっと仲間でいたかった。