(7)
「ほら、月見くん。行くよ」
青空を背にして立つ果歩先輩は、ふと誰かに似ているような気がした。でも、それが誰だったかを思い出すことはできない。
「どうして今日なんっすか? 別に他の試合でも……」
「今日。とにかく今日なの。今日じゃないといけない」
「うっす……」
俺は、とにかく今日は避けたかった。
春の高校バレーの予選二日目。山北高校対満井大学付属高等学校。周大が通う高校と、俺たちが行きたかった克己先輩の通う学校だ。今の時代、ネットで少し検索をかければ、トーナメント表なんてもの簡単に見つけることができる。見つけたとき、絶対にこの日は避けたいと思った。だって、克己先輩たちは絶対に負けないし、周大もここまでは勝ち上がることは目に見えていたからだ。
でも、果歩先輩はとにかく今日にこだわった。
「樹くんはさ、どうしてバレーボールを辞めたの?」
徒歩で向かうことができる体育館までの道のりを、ゆっくりと歩きながら夕凪先輩はそう尋ねた。
「なんでなんっすかね。もう辞めないといけなくなっちゃって」
「怪我、じゃないよね」
「怪我じゃないっすね」
果歩先輩はあまり納得していなかったようだが、深く突き詰めてくることもなかった。
「樹くんはさ、バレーボール好き?」
「たぶん好きっすよ。正しくは、『好きだった』っすよ」
「今は好きじゃない?」
「やっぱり昔ほどはね」
先輩は「そっか」と言い、少し歩調を速めた。すぐうしろをついて歩いていた俺も、慌てて歩調を合わせる。そうでないと、おいて行かれてしまいそうだった。
「樹くんさ、ポジションはリベロ?」
「そうっすよ。よく知ってましたね、俺、そこまで小さくないんっすけど」
俺はリベロの中では、あまり小柄ではない。普通にスパイカーでも担えたと思う。でも、小学生のときに開催されたイベントに来ていた実業団の監督に言われた。
「君はいつかすごい選手になる。でも、もしかすると少し身長が足りないと思うかもしれない。だから、リベロかセッターをしたらいい。体力づくりだけは怠っちゃいけないよ。そしたら、十分通用する選手になれる」
その一言で、リベロになることを決めた。オーバーハンドパスよりアンダーハンドパスの方が好き、という安易な理由だ。相手の渾身のスパイクを綺麗にセッターに返す快感は、あとになってから知った。
その監督は俺の両親が小柄なことを見て、そう言ってくれたのだろう。確かに、全国で名を馳せるスパイカーと並べば俺は小柄に見える。克己先輩が進学した学校なんかだと、特に。中学生に上がる頃にはリベロでよかった、リベロだから高みを目指すことができると実感していた。
結局、すごい選手にはなれなかったけど。
果歩先輩との距離が徐々に広がる。どうして先輩はそんなに急いでいるのだろう。そう思ったが、違った。俺の歩く速度が落ちているのだ。前に出す足が重たい。鉛のように重たい。進みたくない。前に進めば、また現実と向き合わないといけない。
一人ぼっちの孤独。
もう、嫌だった。一人ぼっちになるのも、誰かを傷つけてしまうことも、もう十分だった。
前に進むための足が止まった。こんなことをしても、果歩先輩はきっと諦めてくれないし、困らせるだけだと分かっている。それでも、歩き出す勇気がなかった。
ゆっくりと果歩先輩がこちらに引き返す。華奢で白い腕が、俺に伸びる。引っ張られるのかな、という予想に反して、先輩の手が優しく俺の手を包んだ。
「樹くんはさ、引けなかったんだね」
「え……?」
優しく笑う先輩は、少し泣いてしまいそうだった。
「樹くんはさ、『これでおしまい』っていう明確な区切りを引けなかったんだね」
それはかつての俺が先輩に向かって用いた言葉だった。先輩を総体に出場させるために振るったエゴだった。
「引かなきゃ。どれだけ時間が立ってても、ちゃんと引かなきゃ。じゃないと、樹くん一生後悔するんでしょう?」
優しく握られていた手のひらに力がこもる。ラケットを握るときにできたマメが何度もつぶれて硬くなっていた。
「行こう」
そう言って先輩は、俺の手を引いて歩き始めた。
しばらく進んでから、先輩は「見て」と空を指さす。
「ねぇ。今日なら、手、届きそうじゃない?」
見上げた空に浮かぶのは、一直線な飛行機雲だ。まっすぐ一本、空を区切るように引かれた線は確かに手が届きそうだ。
「でも、届かないですよ。あれは気体っすから。掴めたりするもんじゃないっす」
「諦めなければいつか届くよ。あれは、そういうものだから」
高く、遠く伸びるその線をなぞるようにして、果歩先輩の手は宙を泳いだ。
俺はあの線を引くことができなかった。明確な区切り、それを引くには心が弱すぎた。
仲間じゃない。そう言われてもなお、仲間を完全に諦めきれなかった。
試合に行くのが怖い。
周大が新しい仲間たちと上手くやっている姿を、克己先輩がチームの中心で統率を取っている姿を見るのが嫌だった。
俺がいかに無能で、いかに仲間を傷つけた人間か。
それを直視することが、たまらなく怖かった。
ぐっと唇をかみしめる。乾燥した唇が切れて、嫌な血の味が広がった。
先輩はそれを咎めるみたいに、反対の手で俺の頭を撫でた。
「全部わたしのエゴだけど、樹くんはわたしの大切な仲間だから。わたしを救ってくれた仲間だから。わたしのエゴがいつか君を救うよ」
「先輩は、俺のこと仲間と思ってくれてるんっすか?」
俺は仲間を持たない方がいい。いつかまた、先輩のことも傷つけてしまうかもしれない。でも、仲間が欲しかった。
「当たり前じゃない、大切な外周仲間。樹くんとわたしは、ずっとこれからも仲間だよ」
「俺がどんなにひどい奴でも?」
「どんなにひどいやつでも、樹くんはわたしを救ってくれたから」
ずっと穴が開いたままだった心が、少し埋まった気がした。欲しかった言葉はしっくりと心に落ちて、その穴を満たした。残された喪失感を埋めるのに必要なパーツが何かは分かっている。それを埋めるのに必要なのは――
そう、かつて失った仲間だった。
体育館の正面玄関が見えた。
その手前にいる深紅のジャージは、間違いようがなかった。だって、何度も会場に出向き、憧れを深めてきたから。俺が行きたかった学校。克己先輩が通う、県内屈指の強豪校だ。
「あの人。真ん中にいるあの人が、わたしのお兄ちゃんなの」
指さす先を視線で追いかけると、そこに居るのは克己先輩だ。「双子なんだけどね」と笑う果歩先輩は、確かに克己先輩に似ている。
「夕凪克己。苗字で気が付いてるかと思ってたよ」
確かに、そうだ。苗字を見れば気が付くはずだった。夕凪なんてよくある苗字じゃないし、よく見れば顔も似ている。それに、克己先輩と外周で遭遇したこともあった。それでも気が付いていなかった。
「俺、下の名前でずっと呼んでたから、克己先輩の苗字なんて浮かばなかったっす……」
「あぁ、そっか。わたしはずっと知ってたよ。樹くんがお兄ちゃんの後輩で、どうしてバレーボールを辞めたのかも」
すべてを知っている、それは衝撃的な事実だった。脳が急激に冷静さを取り戻し、これまでの自らの発言を恥ずかしく感じた。
「いつからっすか?」
「ぜんぶ、はじめから。樹くんがあの校門の前で『雲は掴めたか』って聞いてきたあの日から。だから断らなかった。だから、わたしは君とご飯を食べようと思った」
「先輩、ずっと知ってたんっすね」
「知ってたよ。ずっと救ってあげたかった。樹くんはわたしとよく似てるから」
よく似てる? 俺と先輩が?
「樹くんもわたしも、何かに固執して諦められなくて、泣きたいのに泣けなくて」
ちがう、ちがう。果歩先輩と俺は違う。
「俺は先輩とは違うますよ。先輩は諦めずに雲に手を伸ばし続けたじゃないっすか」
「あれは、戒め。わたしは諦めなかったんじゃない、諦めることを許せなかっただけ。誰も比べたりしないのに、勝手にお兄ちゃんと比較して。だから辞められなかった、それだけだよ。でも、君も諦めたんじゃないでしょう。樹くんは手を伸ばしちゃいけないって思いこんでるだけだもん」
ちがう、ちがう、俺は諦めたなんて言葉で片づけていいものじゃない。もっと残酷で、もっと凶悪で、そう。咎められるべき人間なのだ。
「俺は…… 仲間を傷つけたから。周大は俺のせいで傷ついたから。それに、バレーボールだってそんなに好きじゃないっす、きっとそこまでの熱量はもともと持ってなかった」
「どうしてそう思うの」
「俺は誰かと、何かを成し遂げる。その『時間』が好きだったんっす。別に、バレーボールじゃなくてよかった。なんだってよかったんっす」
周大の気持ちが分からなかった、傷つけてしまった。その原因は、たぶん向かう目標が微妙に違ったからだ。俺はこの幸せな時間が延々と続くように、周大はバレーボールそのものに焦点を置いていた。最初から目指す地点が違ったんだ。だから、首を絞めた。
「じゃあ、なおさら。まだ手は伸ばせるじゃない」
果歩先輩はあっけらかんとそう言った。
「だって、わたしも違う雲を描けたんだもん。樹くんだって、また違う雲を描けるよ。だから、ちゃんと引かなきゃ。関係の修復って難しいけど、本当にもう間に合わない?」
もう無理なんですよ。
そう言葉にしようとして、辞めた。いや、できなかった。果歩先輩が浮かべた表情に言葉をすべて奪われてしまった。
寂しそうで、羨ましそうで、それでいて幸せそうだった。俺は、先輩が浮かべたその表情の名前をまだ知らない。
「わたしはずっとわかんなかったんだ。修復したいと思えるほど、競技で深くつながった仲間がいなかったから。でも、今ならわかるよ。もしも、樹くんとか七星と疎遠になったら、どんなにそれが苦しくても、わたしは絶対に修復させる。それくらい、二人が大切だから」
「……俺はあの日、どうすることが正解だったんっすかね」
手の隙間から逃げて行った雲。それを俺はどうしたら留めて置けたんだろう。
どこにもない答えを探すことに、もう疲れ切ってしまっていた。
「樹」
その声は、かつてよく聞いていたものだった。少し遅れていた声変わりで掠れていたはずのその声は、低い男の人のものになっている。それでも、俺の名前を呼ぶその人は
「……周大、久しぶり」
間違いなく、大西周大だと確信をもって振り向いた。
「ほら、月見くん。行くよ」
青空を背にして立つ果歩先輩は、ふと誰かに似ているような気がした。でも、それが誰だったかを思い出すことはできない。
「どうして今日なんっすか? 別に他の試合でも……」
「今日。とにかく今日なの。今日じゃないといけない」
「うっす……」
俺は、とにかく今日は避けたかった。
春の高校バレーの予選二日目。山北高校対満井大学付属高等学校。周大が通う高校と、俺たちが行きたかった克己先輩の通う学校だ。今の時代、ネットで少し検索をかければ、トーナメント表なんてもの簡単に見つけることができる。見つけたとき、絶対にこの日は避けたいと思った。だって、克己先輩たちは絶対に負けないし、周大もここまでは勝ち上がることは目に見えていたからだ。
でも、果歩先輩はとにかく今日にこだわった。
「樹くんはさ、どうしてバレーボールを辞めたの?」
徒歩で向かうことができる体育館までの道のりを、ゆっくりと歩きながら夕凪先輩はそう尋ねた。
「なんでなんっすかね。もう辞めないといけなくなっちゃって」
「怪我、じゃないよね」
「怪我じゃないっすね」
果歩先輩はあまり納得していなかったようだが、深く突き詰めてくることもなかった。
「樹くんはさ、バレーボール好き?」
「たぶん好きっすよ。正しくは、『好きだった』っすよ」
「今は好きじゃない?」
「やっぱり昔ほどはね」
先輩は「そっか」と言い、少し歩調を速めた。すぐうしろをついて歩いていた俺も、慌てて歩調を合わせる。そうでないと、おいて行かれてしまいそうだった。
「樹くんさ、ポジションはリベロ?」
「そうっすよ。よく知ってましたね、俺、そこまで小さくないんっすけど」
俺はリベロの中では、あまり小柄ではない。普通にスパイカーでも担えたと思う。でも、小学生のときに開催されたイベントに来ていた実業団の監督に言われた。
「君はいつかすごい選手になる。でも、もしかすると少し身長が足りないと思うかもしれない。だから、リベロかセッターをしたらいい。体力づくりだけは怠っちゃいけないよ。そしたら、十分通用する選手になれる」
その一言で、リベロになることを決めた。オーバーハンドパスよりアンダーハンドパスの方が好き、という安易な理由だ。相手の渾身のスパイクを綺麗にセッターに返す快感は、あとになってから知った。
その監督は俺の両親が小柄なことを見て、そう言ってくれたのだろう。確かに、全国で名を馳せるスパイカーと並べば俺は小柄に見える。克己先輩が進学した学校なんかだと、特に。中学生に上がる頃にはリベロでよかった、リベロだから高みを目指すことができると実感していた。
結局、すごい選手にはなれなかったけど。
果歩先輩との距離が徐々に広がる。どうして先輩はそんなに急いでいるのだろう。そう思ったが、違った。俺の歩く速度が落ちているのだ。前に出す足が重たい。鉛のように重たい。進みたくない。前に進めば、また現実と向き合わないといけない。
一人ぼっちの孤独。
もう、嫌だった。一人ぼっちになるのも、誰かを傷つけてしまうことも、もう十分だった。
前に進むための足が止まった。こんなことをしても、果歩先輩はきっと諦めてくれないし、困らせるだけだと分かっている。それでも、歩き出す勇気がなかった。
ゆっくりと果歩先輩がこちらに引き返す。華奢で白い腕が、俺に伸びる。引っ張られるのかな、という予想に反して、先輩の手が優しく俺の手を包んだ。
「樹くんはさ、引けなかったんだね」
「え……?」
優しく笑う先輩は、少し泣いてしまいそうだった。
「樹くんはさ、『これでおしまい』っていう明確な区切りを引けなかったんだね」
それはかつての俺が先輩に向かって用いた言葉だった。先輩を総体に出場させるために振るったエゴだった。
「引かなきゃ。どれだけ時間が立ってても、ちゃんと引かなきゃ。じゃないと、樹くん一生後悔するんでしょう?」
優しく握られていた手のひらに力がこもる。ラケットを握るときにできたマメが何度もつぶれて硬くなっていた。
「行こう」
そう言って先輩は、俺の手を引いて歩き始めた。
しばらく進んでから、先輩は「見て」と空を指さす。
「ねぇ。今日なら、手、届きそうじゃない?」
見上げた空に浮かぶのは、一直線な飛行機雲だ。まっすぐ一本、空を区切るように引かれた線は確かに手が届きそうだ。
「でも、届かないですよ。あれは気体っすから。掴めたりするもんじゃないっす」
「諦めなければいつか届くよ。あれは、そういうものだから」
高く、遠く伸びるその線をなぞるようにして、果歩先輩の手は宙を泳いだ。
俺はあの線を引くことができなかった。明確な区切り、それを引くには心が弱すぎた。
仲間じゃない。そう言われてもなお、仲間を完全に諦めきれなかった。
試合に行くのが怖い。
周大が新しい仲間たちと上手くやっている姿を、克己先輩がチームの中心で統率を取っている姿を見るのが嫌だった。
俺がいかに無能で、いかに仲間を傷つけた人間か。
それを直視することが、たまらなく怖かった。
ぐっと唇をかみしめる。乾燥した唇が切れて、嫌な血の味が広がった。
先輩はそれを咎めるみたいに、反対の手で俺の頭を撫でた。
「全部わたしのエゴだけど、樹くんはわたしの大切な仲間だから。わたしを救ってくれた仲間だから。わたしのエゴがいつか君を救うよ」
「先輩は、俺のこと仲間と思ってくれてるんっすか?」
俺は仲間を持たない方がいい。いつかまた、先輩のことも傷つけてしまうかもしれない。でも、仲間が欲しかった。
「当たり前じゃない、大切な外周仲間。樹くんとわたしは、ずっとこれからも仲間だよ」
「俺がどんなにひどい奴でも?」
「どんなにひどいやつでも、樹くんはわたしを救ってくれたから」
ずっと穴が開いたままだった心が、少し埋まった気がした。欲しかった言葉はしっくりと心に落ちて、その穴を満たした。残された喪失感を埋めるのに必要なパーツが何かは分かっている。それを埋めるのに必要なのは――
そう、かつて失った仲間だった。
体育館の正面玄関が見えた。
その手前にいる深紅のジャージは、間違いようがなかった。だって、何度も会場に出向き、憧れを深めてきたから。俺が行きたかった学校。克己先輩が通う、県内屈指の強豪校だ。
「あの人。真ん中にいるあの人が、わたしのお兄ちゃんなの」
指さす先を視線で追いかけると、そこに居るのは克己先輩だ。「双子なんだけどね」と笑う果歩先輩は、確かに克己先輩に似ている。
「夕凪克己。苗字で気が付いてるかと思ってたよ」
確かに、そうだ。苗字を見れば気が付くはずだった。夕凪なんてよくある苗字じゃないし、よく見れば顔も似ている。それに、克己先輩と外周で遭遇したこともあった。それでも気が付いていなかった。
「俺、下の名前でずっと呼んでたから、克己先輩の苗字なんて浮かばなかったっす……」
「あぁ、そっか。わたしはずっと知ってたよ。樹くんがお兄ちゃんの後輩で、どうしてバレーボールを辞めたのかも」
すべてを知っている、それは衝撃的な事実だった。脳が急激に冷静さを取り戻し、これまでの自らの発言を恥ずかしく感じた。
「いつからっすか?」
「ぜんぶ、はじめから。樹くんがあの校門の前で『雲は掴めたか』って聞いてきたあの日から。だから断らなかった。だから、わたしは君とご飯を食べようと思った」
「先輩、ずっと知ってたんっすね」
「知ってたよ。ずっと救ってあげたかった。樹くんはわたしとよく似てるから」
よく似てる? 俺と先輩が?
「樹くんもわたしも、何かに固執して諦められなくて、泣きたいのに泣けなくて」
ちがう、ちがう。果歩先輩と俺は違う。
「俺は先輩とは違うますよ。先輩は諦めずに雲に手を伸ばし続けたじゃないっすか」
「あれは、戒め。わたしは諦めなかったんじゃない、諦めることを許せなかっただけ。誰も比べたりしないのに、勝手にお兄ちゃんと比較して。だから辞められなかった、それだけだよ。でも、君も諦めたんじゃないでしょう。樹くんは手を伸ばしちゃいけないって思いこんでるだけだもん」
ちがう、ちがう、俺は諦めたなんて言葉で片づけていいものじゃない。もっと残酷で、もっと凶悪で、そう。咎められるべき人間なのだ。
「俺は…… 仲間を傷つけたから。周大は俺のせいで傷ついたから。それに、バレーボールだってそんなに好きじゃないっす、きっとそこまでの熱量はもともと持ってなかった」
「どうしてそう思うの」
「俺は誰かと、何かを成し遂げる。その『時間』が好きだったんっす。別に、バレーボールじゃなくてよかった。なんだってよかったんっす」
周大の気持ちが分からなかった、傷つけてしまった。その原因は、たぶん向かう目標が微妙に違ったからだ。俺はこの幸せな時間が延々と続くように、周大はバレーボールそのものに焦点を置いていた。最初から目指す地点が違ったんだ。だから、首を絞めた。
「じゃあ、なおさら。まだ手は伸ばせるじゃない」
果歩先輩はあっけらかんとそう言った。
「だって、わたしも違う雲を描けたんだもん。樹くんだって、また違う雲を描けるよ。だから、ちゃんと引かなきゃ。関係の修復って難しいけど、本当にもう間に合わない?」
もう無理なんですよ。
そう言葉にしようとして、辞めた。いや、できなかった。果歩先輩が浮かべた表情に言葉をすべて奪われてしまった。
寂しそうで、羨ましそうで、それでいて幸せそうだった。俺は、先輩が浮かべたその表情の名前をまだ知らない。
「わたしはずっとわかんなかったんだ。修復したいと思えるほど、競技で深くつながった仲間がいなかったから。でも、今ならわかるよ。もしも、樹くんとか七星と疎遠になったら、どんなにそれが苦しくても、わたしは絶対に修復させる。それくらい、二人が大切だから」
「……俺はあの日、どうすることが正解だったんっすかね」
手の隙間から逃げて行った雲。それを俺はどうしたら留めて置けたんだろう。
どこにもない答えを探すことに、もう疲れ切ってしまっていた。
「樹」
その声は、かつてよく聞いていたものだった。少し遅れていた声変わりで掠れていたはずのその声は、低い男の人のものになっている。それでも、俺の名前を呼ぶその人は
「……周大、久しぶり」
間違いなく、大西周大だと確信をもって振り向いた。