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『表彰状、優勝、有田小春殿』
 有井小春は自室の壁に掛けられた表彰状を見て、もう何度目かわからない溜息を吐き出した。この表彰状は所属するクラブチーム内での小さな大会で獲得したものだ。小学生の部、中学生の部、高校生の部。私は中学三年の時に、中学生の部で優勝を果たしている。そして、今年は高校の部で一年生ながらに優勝した。小さなクラブチームだけれど、多くの生徒が優勝を目指して競っている。自分はそこの頂点に立ったのだ。
 ただ、悔しくて仕方がない。
 中学一年と二年の時、私は無念の準優勝だった。それは、一つ上に夕凪果歩がいたからだ。彼女が卒業して、繰り上がりで私が優勝している。これが悔しくないわけがない。
 しかし、今年のトーナメントに夕凪果歩の名前はどこにもなかった。去年の優勝者の夕凪果歩は棄権どころかエントリーすらしていない。その表を見たとき、私は激しく憤った。戦うこともせずに、彼女の上に立つことになった。それは、試合でぼろぼろに負けるよりも屈辱的なことだった。
 彼女の右手のサポーター。練習中に時折見せる苦しく歪んだ顔。それを見れば、嫌でも怪我をしていることは分かった。同情する。私もその立場になったら苦しむだろう。でも、今の夕凪果歩は、前よりもずっとムカつく。
 中途半端に縋りつくくらいなら、辞めてしまえ。
 どんどんと崩れていく夕凪果歩を見ていると、そう叫んでやりたい衝動に駆られた。
 ピコン
 部活動のメッセージグループが通知を知らせた。特に実のない連絡に既読をつけることさえせず、削除する。
『明日から、練習に顔を出します』
 二週間ほど前にそのメッセージを受信したことを思い出し、スマートフォンを投げ捨てた。勢いよく投げ捨てたはずなのに、布団に勢いを吸収されてスマートフォンは無傷だ。
 彼女が練習に参加すると分かってから、私はずっと部活を休んでいる。クラブチームの練習があるから練習不足に悩むことはなかったが、なぜ私が夕凪果歩に気を使っているのか。彼女のせいで全てのことに腹が立っていた。
 私は夕凪果歩のことが嫌いだ。
 それが確実に嫉妬からくる感情であることは自分自身が一番よく理解している。それでも、負の感情の波を抑えることはできなかった。
 私が卓球の世界に足を踏み入れたのは小学校に入学したと同時だった。夕凪果歩は一つ年上だが、卓球を始めたのはほぼ同時期だった。実力は同程度だった、というのが自己評価。いま、昔の動画を見返したとしても同レベルだと思える。いや、小学生の頃ならば僅差で私の勝ちだったかもしれない。
 しかし、公式戦で私が夕凪果歩に勝利を挙げたことはたったの一度もない。勝負強さ、粘り強さ、本番を楽しむことができるだけの度胸。私になくて、夕凪果歩にはあるもの。その差が大きすぎた。実力が拮抗しているからこそ、その差は顕著に表れてしまった。
 クラブチームの中で最も実力者と呼ばれる斎藤穂高コーチは、夕凪果歩ばかりを可愛がった。同じ生徒でここまで差をつけるものなのか。当時はひどく落ち込んだりもしたが、高学年に上がる頃にはコーチの心境も痛いほどに理解できた。実力に精神力まで兼ね揃えた夕凪果歩と、実力は同じでも何かが劣る私。どちらに期待をするか、どちらを愛弟子にするか。その答えは、苦しいほどに明白だった。
 中学生に上がり、夕凪果歩は初めてブロック大会に出場した。結果は悪いものではなかったが、決して輝かしいものでもなかった。初出場で三回戦。すごいと言えばすごいが、上には上がいるものだ。その舞台にも立てていない私は、その程度の実力なのだと思い知らされた。
 ただ、そのころからだろうか。夕凪果歩の視界から私が消えた。
 それまでの私たちの関係は、よきライバルだったはずだ。特別仲が良かったわけではない。しかし、互いにどこか意識しあっていた。小さな田舎町、他にライバルがいなかっただけ。そう言われてしまうと何も言えないが、私は唯一のライバルだったと思っている。
 それでも、夕凪果歩の視界から自分の姿が消えた。
 それは彼女が上を目指すようになった何よりの証拠だった。弱い私の姿は必然的に見えないものになった。それを痛感することは、ひどく惨めで苦しいことだった。
(少しくらい、私の方を向きなさいよ)
 そう強く念じても、彼女がこちらを向くことはない。彼女の実力に抱いていた嫉妬が憎悪に変わったのもこの頃だ。
 引きずり下ろしたかった。上ばかりを向いて、下に見向きもしないお前は足元をすくわれればいい。私がその足を捕まえてやる。
 常に前を歩いて行く夕凪の背を睨みながら、私は初めて卓球を嫌いだと思った。


 二週間と少し。久しぶりに足を運んだ卓球場には、当たり前のように夕凪果歩がいる。怪我をするまではクラブチームの練習にばかり比重を置いて、部活になんて顔を出すこともなかったのに。我が物顔で居座る彼女を見ていると、こちらのほうが居心地悪く感じてしまう。はらわたが煮えくり返りそうだ。
 ラケットを振り、彼女が放つ打球をぼんやりと眺める。この中では悪くないレベルだけど、もうかつての鋭さは見当たらない。
 今の彼女の実力ならば、私は決して負けないだろう。それでも、ようやく同じところまで堕ちてきた彼女に声を掛けずにはいられなかった。
「あれ、カホ先輩じゃないですか。球拾い、しに来てくれたんですかぁ?」
 自分が紡ぐ言葉がスポーツマンらしくなく、また人間としても最低に分類されるものだとは重々承知している。
 それでもなお、やっとこっちを見た先輩に憎悪の感情をぶつけたくて仕方がない。
 辞められない。
 私がこれを続けることで彼女が傷つくことも、自分が自己嫌悪に陥ることも、何一つ益を生まないことも。ちゃんとわかっているのに、辞められないのだ。
「ううん。練習しに来たの。わたしも総体に出るから」
「えー、そうなんですねぇ。『最後の大会』頑張ってくださいねぇ」
 わざとらしく『最後』を強調したのは、先輩が少しでも傷つけばいいと思ったからだ。
 それが、どれだけ汚い感情だとしても。