(4)
「せんぱーい、おはようございます」
 大声をあげて叫ぶと、夕凪先輩は遠くから小さく手を振ってくれた。その横にはいつも通り桜井先輩がいて、彼女は大きく手を振ってくれている。
 四月に入って、夕凪先輩が外周をする姿をみることはめっきり無くなってしまった。
 でも、それは良いことだ。先輩は最近、卓球場に顔を出すようになったらしい。この間すれ違ったとき、赤いラケットケースとシューズを手に持った先輩を遠くから見かけた。まだ不安が残る表情をしていたが、それは仕方のないことだ。ずっと休んでいた練習に参加することは勇気がいる。今まで顔を出してこなかったのならば、なおさらだ。その不安な気持ちもわかるけれど、先輩が卓球場を目指して歩くその足取りは軽い。それを見ていると、なんだか大丈夫な予感がしていた。
「よし、俺も走るか」
 一周ちょうど、一キロメートル。毎日代わり映えのしない外周が、なんだか今日はキラキラと輝いて見えた。足取り軽く、景色は流れるように移り変わる。
 先輩は卓球が好きで、先輩は夢を諦めない人間で。いつかきっと、雲を掴んで見せる人間だ。
 だって、彼女は手を伸ばすことは決して辞めなかったから。
 そう、俺とは違う。
 きらきらと輝く道に、俺は影を落としながら走った。


 春休みが明けてしまい、煩わしい通常授業が始まってしまう。春期講習とは違い、五十分を六限分座っていなければならない。特に七限がある日は苦痛でしかなかった。
 温かい春の日差しが差し込む窓際の座席は、自分の意に反して睡魔を増長させる。
 うとうとと船を漕ぎかけるのを懸命に耐えながら、板書を取ることに集中しようと試みる。しかし、なかなか上手くはいかなかった。もう授業に集中することは諦めよう。
 おもむろにスクールバックからスマートフォンを探し出し、教科書を探すふりをしてメッセージを送信する。
『夕凪先輩、久しぶりに一緒にお昼食べませんか?』
 断られるかな、と思いつつも送ったそのチャット。想定よりも早く既読が付いて、思わずスマートフォンをカバンの中に落としてしまう。
『七星も一緒でいいなら』
『もちろんっす』
 担当教師はもうボケかけたおじいちゃんでよかった。口角が緩んでいても、多少液晶画面に気を取られても気が付かれることもなく、単調な授業が続いた。


 昼休み。
 いつも一緒に昼食を取る友人たちには適当な理由を告げて抜け出した。駆けて行く先は、あの日と変わらない屋上。
 少し錆びて硬くなった屋上のドアは、音を立てて開いていった。
「あ、やっほー。お邪魔してまーす」
 手をひらひらと振るのは桜井先輩だ。濃くはっきりとした顔をくしゃくしゃにして笑う、太陽のような人だ。
「こんにちは」
 横でほほ笑む夕凪先輩は、太陽とは違う。対になるのは月かもしれないが、それも違う。
 うーん。そう、雲のような人なんだ。天気や気温でその形を変える、雲のような人。周囲の環境やちょっとしたきっかけさえあれば、自由自在に空を泳げる。
「早く座りなよ、食べる時間無くなっちゃうよ」
「いっただきまーす。あ、鶏ハム美味しそう! もーらいっ」
 夕凪先輩がお弁当の蓋を開けた途端、桜井先輩の箸がその中身を奪い去っていった。
「やっぱり、果歩のママさんは料理上手だなぁ。しかもヘルシー、女子高生の味方だね」
 そう呟いた桜井先輩の昼食は、駅前にある地元のパン屋で購入されたパンたちだった。ミックスサンドウィッチのボックスとフルーツサンドだ。
「はい、果歩。お礼に一つとっちゃってよ」
「え、ほんと? じゃあ、フルーツの方が欲しい」
 差し出されたフルーツサンドを齧る夕凪先輩は、幼い子供みたいだ。食べ慣れていないのか、クリームが横からはみだす。悪戦苦闘しながら食べ進めていく様子が、なんだか新鮮だった。
「果歩にサンドウィッチって不思議な組み合わせ。なんだかんだでさ、カホ毎日お弁当持ってるから。パン好きだった?」
「好きだよ。お兄ちゃんもお弁当だから、言えないだけでもっとパン食べたいもん」
「えぇ、もったいない。じゃあさ、また交換こしようよ。ナナは果歩ママの弁当食べれて、果歩はパン食べれるよ!」
 桜井先輩はまるでとてもすごいことを思いついたように、誇らしげだ。それを見て、思わず笑い声を出してしまう。
「あー! 月見くん、今、ナナのこと馬鹿にしたでしょ」
「してないっす。ほほえましいなぁって」
「後輩にほほえましいって言われるのって、なんか屈辱ね……」
 夕凪先輩は、ウエットティッシュで口元を拭いながら不満そうに呟いた。桜井先輩は相変らずけらけらと笑い声をあげる。
「あ、そうだ。月見くん、ナナとも連絡先換しようよ。果歩と月見くんは外周仲間なんでしょ? 親友の仲間は、もうナナの仲間でもあると思うんだよね」
「七星、ちょっと言ってる意味が分からないから」
 確かに言っている意味はちょっと分からなかったけど、なんだか仲間の響きが妙に嬉しかった。だから夕凪先輩の嫌そうな顔を横目に、俺は連絡先を交換した。
 桜井先輩も不満そうな夕凪先輩を指差して笑い、とても満足げだった。
 夕凪先輩はその様子を眺めながら、またひとつ溜息をこぼした。子どもを見守る母が零すような、優しさを帯びた溜息だ。
「あんまり月見くんに迷惑かけちゃだめだよ、七星」
 その言葉に桜井先輩は元気よく返事を返したが、
「ねぇ、月見くん。単刀直入に言うけどさ、陸上部入らない? 君なら即戦力だよう」とすぐに話題を逸らせた。
「あー、遠慮しておきます。俺、ただ走ってるだけなんで。陸上部の皆さんに迷惑かけちゃいますよ」
「えぇ、君なら駅伝メンバーにすぐなれるって。次に二年になるやつがあんまりいなくてさ、ね? どうかな?」
「あー、すみません。団体競技は特に興味なくて………」
「ねぇ、果歩もなんとか言ってよ。ナナ駄々こねるよ?」
「勝手にこねとけ」
 夕凪先輩がバッサリと切り捨てると、桜井先輩はしぶしぶといった様子で諦めたようだ。誰にも気が付かれないように、そっと胸をなでおろす。
「月見くん、ありがとね」
「はい?」
「背中押してくれて、ありがと。昔みたいにはできないけど、卓球楽しいよ」
「うっす」
 大きく頷いた拍子に、弁当箱からミニトマトが零れ落ちた。
 それを素早く夕凪先輩はキャッチして、彼女の動体視力の真価を垣間見た。それがなんだか誇らしかった。