(3)
雨が降りそう。
空に浮かぶ分厚い雲を見て、そう予感する。決して乗り気というわけではないが、せっかく屋上で食事をとるならば、晴れていた方がよかったに決まっている。
あのあと、月見くんは事務的で簡素なメッセージを送ってきた。
『屋上で待ってるっす』
男の子らしいメッセージは絵文字もスタンプも付属していない。それが何だか意外で、不思議な心地だった。
どうしてわたしだったのか。七星のように美しい容姿でもなければ、これといって秀でた取り柄もない。自分に面白みのあるものなど、何一つあるとは思えなかった。
それだけは解明できない謎のまま燻っていたが、考えることは無駄だと放棄した。どれだけ考えて答えを出したとしても、所詮はわたしの自己完結の憶測にすぎない。それならいっそ、流れに身を任せてしまったほうが幾分楽だ。
時刻は十三時十分を過ぎた。
お腹の虫が鳴っている。先に食べてしまおうかとも思ったが、もうすぐ月見くんが来るはずだ。春期講習中は午前中に授業をすべて終えてしまうので、昼休みが永遠に続く。それならば、先に食べてしまうのは少し感じが悪いかもしれない。
ふと、視界に入る前髪の乱れが気になった。屋上の入り口に設置された窓ガラスの反射を利用して、鏡の役目を果たしてもらう。前髪を手櫛で整えて、気休め程度のカラーリップを塗る。自らの容姿に対して深く何か思うところはない。そりゃあ、コンプレックスの一つや二つはあるけれど、それを必要以上に深く悩んだことはなかった。それよりも、右手に巻きつけられた黒くて分厚いサポーターが目立って仕方がない。
私は月見くんに特別な感情を寄せている。
それはきっと、同情にも似た共感だ。彼の眼は笑っているのに、何かを諦めて泣いている。
わたしはその瞳をよく知っていた。
そう、目の前の鏡に映る自分自身によく似ている。
ガチャリ
屋上の硬いドアノブをひねる音がして、勢いよく扉が開いた。
「夕凪先輩、お待たせしたっす」
「ううん、わたしもさっき来たところだよ」
月見くんはすでに制服を着替え、ジャージを身に纏っていた。きっとこのあと、また外周に向かうのだろう。毎日毎日、彼はよっぽどのもの好きだ。
日光に温められた床にスポーツタオルを敷いて、腰を掛ける。硬い感触が布越しに伝わった。
「横、どうぞ」
「あざっす」
短い返事をした彼は、上に羽織っていたジャージを床に敷いて座った。露わになった腕には火傷のような跡が複数個所に残っている。
「急に誘っちゃってすみません。正直、来てくれるとは思わなかったっす」
「七星がうるさくてね。行かないと、ずっと騒ぎそうだったから」
月見くんは苦笑いを浮かべて、制定のカバンからお弁当を取り出した。黒いお弁当箱には白米と、それに合いそうなおかずがぎっしりと詰められている。茶色が多い弁当だった。茶色いおかずは美味しいに決まってる。わたしも茶色いおかずは大好きだ。お母さんが作っているのだろうか。
自分の弁当の中身を眺め見る。兄と同じタンパク質で構成されたお弁当。色鮮やかで見栄えもよい。お母さんには本当に感謝している。春休み期間にもかかわらず、こうやって毎日お弁当を作ってくれるのだから。
でも。たまにはサンドイッチとか、そういうお腹にたまらない女の子らしいものが食べたい。
言えばいい、それは分かってる。言葉にさえすれば、お母さんはわたしの為にそんなお弁当を用意してくれるに違いない。
でも、兄はわたしと違って雲を掴める人間だ。
わがままを言うことは、わたし自身が許せない。ただでさえ出来損ないなんだから、迷惑なんてかけちゃいけない。
タンパク質の塊を口に含む。お母さんが砂糖水に付け込んでくれていたおかげか、鶏胸肉はしっとりとしていた。そのはずなのに、なぜだか飲み込みにくくて苦しかった。
「そういえば、夕凪先輩は何部なんっすか? 外周してたってことは運動部っすよね」
「卓球部だよ。月見くんさ、自分が帰宅部なのによく言ったね」
「俺、ちょっと特殊っすから。卓球部かぁ、おんなじクラスにもいますよ。有田と平田ってやつなんすけど」
「あぁ、二人とも知ってるよ」
特に前者は嫌と言うほど、知ってるよ。
心の中で悪態をついてぼんやりと思い出した顔は、まだ幼さを残した有田小春だった。同世代で、同時期に競技を始めたわたしたちは自然と練習ペアを組まされることも多かった。
「あいつら外周してるの見たことないけど、先輩は自主練っすか?」
「怪我、してるの。もうずっとラケットは握ってない。だから、今の部内のことはほとんど知らないかな」
「そうだったっすね。すみません。そんなことも、知らないで……」
月見くんはあからさまに肩を落とした。あるはずのない犬の耳が垂れ下がって見える。
「いいのいいの、気にしないで。前から部活にはあんまり参加してなかったし」
「そうなんっすか?」
「うん。なんていうのかな、地域のスクールみたいなところでずっと練習してたんだ。葛城卓球スクールって知ってるかな」
「あ、そこ。有田のところだ。あいつ、なんか大会みたいなので優勝して、その表彰状をSNSに投稿してたんっすよ」
「そうそう、コハルちゃんは小学生の頃から知り合いだよ」
そうか、今年度の葛城カップは有田小春が優勝したのか。
まぁ、そうか。葛城カップの決勝で当たるのは、いつだって有田小春だった。最後に対戦した一昨年の葛城カップから彼女はどれくらい強くなったのだろう。
「あ、そうか。有田が言う『カホ先輩』って夕凪先輩のことなんっすね」
「コハルちゃん、わたしのこと、何か言ってた?」
「すっげえ強くて上手い先輩がいるって、あいつ負けん気強いから、絶対に勝つって意気込んでましたよ」
「……今はコハルちゃんの方が強いんじゃないかな」
「そんなに怪我ひどいんっすか……?」
月見くんはまた顔をしかめて、肩を落とした。
「どうだろう、もうわかんないや。練習してないから、怪我が痛むことはないんだけどね。だいぶ長いこと休みすぎたから、帰るタイミング無くなっちゃって。クラブチームは実質、退会処分みたいなもんだし、部活は名前だけ参加してたようなもんだし。だからつい、外周ばっかりしちゃうの」
言葉にすると、どうして自分が卓球に縋りついているのか、ますますわからなくなった。
辞めればいい。
もう、辞めてしまえばいいんだ。
自嘲気味になった自身の言葉を誤魔化すように、わたしは愛想笑いを浮かべた。
「ごめんね、つい。愚痴になっちゃうや」
「先輩はほんとに好きなんっすね」
「え?」
「卓球。怪我しても、退会処分になっても、辞めないってことは好きなんだなぁって」
「うーん。もう忘れちゃったかな。ずっと夢見てきた世界には手が届かないし。所詮、その程度の実力しかなかったんだよ。上には上がいくらでもいるしね」
卓球が好きかどうか。
それはもう、わからないことだった。
「夕凪先輩、空見てください」
言われた通りに空を見上げるが、そこに映るのはどんよりと重たい灰色の雲だけだ。切れ目から差し込む光がその雲の厚さを物語っている。
「雨、降りそうだね」
「そういうことじゃなくて。手、届きそうじゃないっすか?」
「届かないよ」
ほら、と言って空に向けて手を伸ばした。雲を掴もうともがいた手は、当たり前のように宙を彷徨うだけだった。
「でも、地上にいた時より近くないですか? もっとほら、スカイツリーとか。そこまでいけば手が届きそうな気がしません?」
「なにそれ、届かないよ。届いたとしても、掴めたりするものじゃないでしょ。だってあれ、気体だもん」
「うー」
彼は悩まし気に顔を歪め、うめき声をあげた。
そして、意を決したようにこちらを向く。
「俺、夕凪先輩のことまったく知らないんっすけど。でも、先輩が卓球してるとこ、見てみたいと思ったんすよね。ほら、もうすぐ総体あるじゃないっすか。引退でしょう?」
月見くんはそう言って、真剣な瞳をこちらに寄せた。向けられたまっすぐな瞳が揺れ動く。
「そっか。わたし、もう三年生になるんだ。引退なんだね。そっかぁ。終わりが来ることなんて考えたことなかったから」
そうだ。わたしが辞める決意などしなくとも、もう辞める時が近寄っていた。心のどこかで、これからも当たり前のように卓球を続けていく。そう思い込んでいた。ラケットを握ることさえしていないのに。
「あ、いや。すみません、そうっすよね。総体が引退って決まってるわけじゃないっすよね」
「別にいいよ。忘れてただけで、きっと出場もせずに辞めてたと思うから」
「出ないんっすか? 強いんでしょ、先輩」
「うーん。たぶん、エントリーはしてもらえてると思うんだけどね。こんなに練習してなかったらさ、もうだめだよ。迷惑になっちゃう」
手首に巻きつけられた黒いサポーターを撫で、卓球をしない理由を探して口にした。
辞めるのはわたしのせいじゃない。全部、この忌々しい怪我のせい。
しないんじゃない。できないのだ。
「誰の迷惑になるんすか?」
「……対戦相手? いや。むしろ感謝されるか」
「ほら。じゃあ、いいじゃないっすか。それに、まだもうちょい時間はありますよ」
「本気でそう思ってる? 一朝一夕でどうにかなるもんじゃないことくらい、月見くんなら知ってるでしょ」
「だけど、でも」
月見くんは言葉を詰まらせた。
これで終わり、月見くんもこれ以上は何も言えないだろう。
「俺、どうしても先輩に雲を掴んで欲しくて。あの日、先輩を初めて見た時に、先輩なら掴める気がして……」
尻すぼみになっていく言葉とは裏腹に、彼の視線はまっすぐ私を捉えている。彼は良くも悪くもまっすぐだ。見ているこちらが痛いほどに、不器用。
雲を掴めるのは、わたしの兄のような人間だけ。
兄とわたし。
競技は違うけど、歴然とした差があることは確かだった。痛いほどに突きつけられた現実は、いつだって顕著にわたしを苦しめた。
「俺、先輩ならできる気がして。先輩に頑張ってほしくて」
だけど、少しだけ。本当に少しだけだけど、真っすぐすぎる月見くんの熱に冒されてわたしの思考回路は乱されてしまったようだ。
全て彼のせいにしてしまおう。
それは笑ってしまうくらい単純で短絡的な衝動だった。
『明日から、練習に顔を出します』
総体は四月の最終週に開催される。残された時間は、三週間と少し。
取り戻せるとは思っていない。追いつかないのは分かりきった事実。それでも、最後の悪あがきをするには丁度いいのかもしれない。
雨が降りそう。
空に浮かぶ分厚い雲を見て、そう予感する。決して乗り気というわけではないが、せっかく屋上で食事をとるならば、晴れていた方がよかったに決まっている。
あのあと、月見くんは事務的で簡素なメッセージを送ってきた。
『屋上で待ってるっす』
男の子らしいメッセージは絵文字もスタンプも付属していない。それが何だか意外で、不思議な心地だった。
どうしてわたしだったのか。七星のように美しい容姿でもなければ、これといって秀でた取り柄もない。自分に面白みのあるものなど、何一つあるとは思えなかった。
それだけは解明できない謎のまま燻っていたが、考えることは無駄だと放棄した。どれだけ考えて答えを出したとしても、所詮はわたしの自己完結の憶測にすぎない。それならいっそ、流れに身を任せてしまったほうが幾分楽だ。
時刻は十三時十分を過ぎた。
お腹の虫が鳴っている。先に食べてしまおうかとも思ったが、もうすぐ月見くんが来るはずだ。春期講習中は午前中に授業をすべて終えてしまうので、昼休みが永遠に続く。それならば、先に食べてしまうのは少し感じが悪いかもしれない。
ふと、視界に入る前髪の乱れが気になった。屋上の入り口に設置された窓ガラスの反射を利用して、鏡の役目を果たしてもらう。前髪を手櫛で整えて、気休め程度のカラーリップを塗る。自らの容姿に対して深く何か思うところはない。そりゃあ、コンプレックスの一つや二つはあるけれど、それを必要以上に深く悩んだことはなかった。それよりも、右手に巻きつけられた黒くて分厚いサポーターが目立って仕方がない。
私は月見くんに特別な感情を寄せている。
それはきっと、同情にも似た共感だ。彼の眼は笑っているのに、何かを諦めて泣いている。
わたしはその瞳をよく知っていた。
そう、目の前の鏡に映る自分自身によく似ている。
ガチャリ
屋上の硬いドアノブをひねる音がして、勢いよく扉が開いた。
「夕凪先輩、お待たせしたっす」
「ううん、わたしもさっき来たところだよ」
月見くんはすでに制服を着替え、ジャージを身に纏っていた。きっとこのあと、また外周に向かうのだろう。毎日毎日、彼はよっぽどのもの好きだ。
日光に温められた床にスポーツタオルを敷いて、腰を掛ける。硬い感触が布越しに伝わった。
「横、どうぞ」
「あざっす」
短い返事をした彼は、上に羽織っていたジャージを床に敷いて座った。露わになった腕には火傷のような跡が複数個所に残っている。
「急に誘っちゃってすみません。正直、来てくれるとは思わなかったっす」
「七星がうるさくてね。行かないと、ずっと騒ぎそうだったから」
月見くんは苦笑いを浮かべて、制定のカバンからお弁当を取り出した。黒いお弁当箱には白米と、それに合いそうなおかずがぎっしりと詰められている。茶色が多い弁当だった。茶色いおかずは美味しいに決まってる。わたしも茶色いおかずは大好きだ。お母さんが作っているのだろうか。
自分の弁当の中身を眺め見る。兄と同じタンパク質で構成されたお弁当。色鮮やかで見栄えもよい。お母さんには本当に感謝している。春休み期間にもかかわらず、こうやって毎日お弁当を作ってくれるのだから。
でも。たまにはサンドイッチとか、そういうお腹にたまらない女の子らしいものが食べたい。
言えばいい、それは分かってる。言葉にさえすれば、お母さんはわたしの為にそんなお弁当を用意してくれるに違いない。
でも、兄はわたしと違って雲を掴める人間だ。
わがままを言うことは、わたし自身が許せない。ただでさえ出来損ないなんだから、迷惑なんてかけちゃいけない。
タンパク質の塊を口に含む。お母さんが砂糖水に付け込んでくれていたおかげか、鶏胸肉はしっとりとしていた。そのはずなのに、なぜだか飲み込みにくくて苦しかった。
「そういえば、夕凪先輩は何部なんっすか? 外周してたってことは運動部っすよね」
「卓球部だよ。月見くんさ、自分が帰宅部なのによく言ったね」
「俺、ちょっと特殊っすから。卓球部かぁ、おんなじクラスにもいますよ。有田と平田ってやつなんすけど」
「あぁ、二人とも知ってるよ」
特に前者は嫌と言うほど、知ってるよ。
心の中で悪態をついてぼんやりと思い出した顔は、まだ幼さを残した有田小春だった。同世代で、同時期に競技を始めたわたしたちは自然と練習ペアを組まされることも多かった。
「あいつら外周してるの見たことないけど、先輩は自主練っすか?」
「怪我、してるの。もうずっとラケットは握ってない。だから、今の部内のことはほとんど知らないかな」
「そうだったっすね。すみません。そんなことも、知らないで……」
月見くんはあからさまに肩を落とした。あるはずのない犬の耳が垂れ下がって見える。
「いいのいいの、気にしないで。前から部活にはあんまり参加してなかったし」
「そうなんっすか?」
「うん。なんていうのかな、地域のスクールみたいなところでずっと練習してたんだ。葛城卓球スクールって知ってるかな」
「あ、そこ。有田のところだ。あいつ、なんか大会みたいなので優勝して、その表彰状をSNSに投稿してたんっすよ」
「そうそう、コハルちゃんは小学生の頃から知り合いだよ」
そうか、今年度の葛城カップは有田小春が優勝したのか。
まぁ、そうか。葛城カップの決勝で当たるのは、いつだって有田小春だった。最後に対戦した一昨年の葛城カップから彼女はどれくらい強くなったのだろう。
「あ、そうか。有田が言う『カホ先輩』って夕凪先輩のことなんっすね」
「コハルちゃん、わたしのこと、何か言ってた?」
「すっげえ強くて上手い先輩がいるって、あいつ負けん気強いから、絶対に勝つって意気込んでましたよ」
「……今はコハルちゃんの方が強いんじゃないかな」
「そんなに怪我ひどいんっすか……?」
月見くんはまた顔をしかめて、肩を落とした。
「どうだろう、もうわかんないや。練習してないから、怪我が痛むことはないんだけどね。だいぶ長いこと休みすぎたから、帰るタイミング無くなっちゃって。クラブチームは実質、退会処分みたいなもんだし、部活は名前だけ参加してたようなもんだし。だからつい、外周ばっかりしちゃうの」
言葉にすると、どうして自分が卓球に縋りついているのか、ますますわからなくなった。
辞めればいい。
もう、辞めてしまえばいいんだ。
自嘲気味になった自身の言葉を誤魔化すように、わたしは愛想笑いを浮かべた。
「ごめんね、つい。愚痴になっちゃうや」
「先輩はほんとに好きなんっすね」
「え?」
「卓球。怪我しても、退会処分になっても、辞めないってことは好きなんだなぁって」
「うーん。もう忘れちゃったかな。ずっと夢見てきた世界には手が届かないし。所詮、その程度の実力しかなかったんだよ。上には上がいくらでもいるしね」
卓球が好きかどうか。
それはもう、わからないことだった。
「夕凪先輩、空見てください」
言われた通りに空を見上げるが、そこに映るのはどんよりと重たい灰色の雲だけだ。切れ目から差し込む光がその雲の厚さを物語っている。
「雨、降りそうだね」
「そういうことじゃなくて。手、届きそうじゃないっすか?」
「届かないよ」
ほら、と言って空に向けて手を伸ばした。雲を掴もうともがいた手は、当たり前のように宙を彷徨うだけだった。
「でも、地上にいた時より近くないですか? もっとほら、スカイツリーとか。そこまでいけば手が届きそうな気がしません?」
「なにそれ、届かないよ。届いたとしても、掴めたりするものじゃないでしょ。だってあれ、気体だもん」
「うー」
彼は悩まし気に顔を歪め、うめき声をあげた。
そして、意を決したようにこちらを向く。
「俺、夕凪先輩のことまったく知らないんっすけど。でも、先輩が卓球してるとこ、見てみたいと思ったんすよね。ほら、もうすぐ総体あるじゃないっすか。引退でしょう?」
月見くんはそう言って、真剣な瞳をこちらに寄せた。向けられたまっすぐな瞳が揺れ動く。
「そっか。わたし、もう三年生になるんだ。引退なんだね。そっかぁ。終わりが来ることなんて考えたことなかったから」
そうだ。わたしが辞める決意などしなくとも、もう辞める時が近寄っていた。心のどこかで、これからも当たり前のように卓球を続けていく。そう思い込んでいた。ラケットを握ることさえしていないのに。
「あ、いや。すみません、そうっすよね。総体が引退って決まってるわけじゃないっすよね」
「別にいいよ。忘れてただけで、きっと出場もせずに辞めてたと思うから」
「出ないんっすか? 強いんでしょ、先輩」
「うーん。たぶん、エントリーはしてもらえてると思うんだけどね。こんなに練習してなかったらさ、もうだめだよ。迷惑になっちゃう」
手首に巻きつけられた黒いサポーターを撫で、卓球をしない理由を探して口にした。
辞めるのはわたしのせいじゃない。全部、この忌々しい怪我のせい。
しないんじゃない。できないのだ。
「誰の迷惑になるんすか?」
「……対戦相手? いや。むしろ感謝されるか」
「ほら。じゃあ、いいじゃないっすか。それに、まだもうちょい時間はありますよ」
「本気でそう思ってる? 一朝一夕でどうにかなるもんじゃないことくらい、月見くんなら知ってるでしょ」
「だけど、でも」
月見くんは言葉を詰まらせた。
これで終わり、月見くんもこれ以上は何も言えないだろう。
「俺、どうしても先輩に雲を掴んで欲しくて。あの日、先輩を初めて見た時に、先輩なら掴める気がして……」
尻すぼみになっていく言葉とは裏腹に、彼の視線はまっすぐ私を捉えている。彼は良くも悪くもまっすぐだ。見ているこちらが痛いほどに、不器用。
雲を掴めるのは、わたしの兄のような人間だけ。
兄とわたし。
競技は違うけど、歴然とした差があることは確かだった。痛いほどに突きつけられた現実は、いつだって顕著にわたしを苦しめた。
「俺、先輩ならできる気がして。先輩に頑張ってほしくて」
だけど、少しだけ。本当に少しだけだけど、真っすぐすぎる月見くんの熱に冒されてわたしの思考回路は乱されてしまったようだ。
全て彼のせいにしてしまおう。
それは笑ってしまうくらい単純で短絡的な衝動だった。
『明日から、練習に顔を出します』
総体は四月の最終週に開催される。残された時間は、三週間と少し。
取り戻せるとは思っていない。追いつかないのは分かりきった事実。それでも、最後の悪あがきをするには丁度いいのかもしれない。