「私は本日をもちまして、牧野家の母親を卒業します」
「……、はい?」

 それは牧野家長女のわたし、牧野皐月の中学の卒業式を終えて、自宅で卒業祝いのいつになく豪華な夕飯を食べている時だった。

 厳しい受験戦争を勝ち抜き、晴れて合格を手にした後、無事卒業式を終えた夜。
 いよいよ春からは新しい生活が始まるのだと、華々しい高校生活の想像をしながら食事を楽しんでいると、唐突にお母さんがそう告げたのである。

「……今、何て言ったの? 母親を、卒業?」
「皐月は今日で中学生を卒業。私も、今日で母親を卒業」
「いやいやいや、待って!? どういうこと?」
「おお、そうか、母さんは今日で卒業かぁ……早いもんだなぁ」
「ええ、本当に」
「ちょっとお父さん、何納得してんの!? 意味わかんないんだけど!」

 お母さんの意味不明な言動に対して、受け入れ態勢万全でじみじみ頷くお父さんに戸惑う。
 訳がわからない。わたしが知らないだけで、母親とは、卒業するものなのだろうか?
 両親共に何の疑問もない様子で話を進めるものだから、思わず自分の常識を疑いそうになる。

「じゃあ、今日は皐月と弥生さんの卒業式だな。いやぁ、めでたい!」
「ちょっと、ねえ、無視しないで?」
「この年で祝われるなんて、何だか恥ずかしいわねぇ」
「……」

 わたしの混乱を他所に呑気に乾杯している両親に、耐えきれずに席を立ち自室へと戻る。リビングから不思議そうにわたしを呼ぶ声がしたけれど、先に無視したのは向こうだ。

 折角の祝いの席なのに、何なんだ、一体。本当に訳がわからない。
 不貞腐れ布団に潜りながら、わたしはそのまま眠ってしまった。


*****


「……え、誰?」

 朝起きると、見知らぬ若い女性が家に居た。
 いつもお母さんが愛用していた、わたしが小学校の家庭科で作ったエプロンをして、我が物顔でキッチンで朝食を作っている。

「あ、おはようございます、皐月さん。本日より牧野家の『母親』となります、卯月です。宜しくお願いしますね」

 呆然と立ち尽くすわたしに対して朗らかに挨拶してきた母とは似つかないその女は、すぐに料理へと意識を向けてしまう。
 じゅうじゅうという食欲をそそる音と、香ばしいベーコンや卵のめちゃくちゃいい匂いがする。

 そういえば、昨夜はせっかくの御馳走を中断して部屋に戻ったのだ。美味しそうな匂いにより感じる空腹に一瞬意識を持っていかれるけれど、わたしはすぐにはっとする。

 これは、どう見ても不法侵入だ。

 咄嗟に通報しようとしたところで、お父さんが欠伸混じりに起きて来た。
 いつもはあまり頼りない、のんびりとしたお父さんだが、流石にこんな時ばかりは頼らせて貰おう。わたしは慌てて、助けを求めるように駆け寄る。

「ふあ……おはよう、いい匂いだなぁ」
「ねえ、お父さん! 知らない女の人が居る!」
「……ん? 嗚呼、皐月はもう挨拶を済ませたのかい? 彼女が新しい牧野家の『お母さん』だよ」
「……、は?」
「卯月さん。皐月と名前が似ていて親子っぽくて良いじゃないか、歳も前のお母さんより近いし、仲良くするんだぞ」
「はあ!?」

 昨夜と同じように、わたしの動揺や困惑を全く気にしない様子で軽く笑いながら定位置に座るお父さん。
 しかし今度ばかりは部屋に逃げるわけにもいかず、わたしは更に問いを重ねる。

「いや、待って、意味わかんない! 新しいお母さんって、何? 再婚でもしたってこと?」
「いや? してないぞ?」
「じゃあこの女は誰!? わたしのお母さんは何処に行ったの?」
「はは、皐月は寝ぼけてるのか? 今のお母さんは、この卯月さんじゃないか」

 お父さんは相変わらずのんびりとして、食卓テーブルに用意されていた新聞を開く。

 卯月と呼ばれた女は『お母さん』と同じように、新聞を読む邪魔にならない位置にバターたっぷりのトーストにベーコンと目玉焼きを乗せたものと、いい香りのするブラックコーヒーを用意した。

「はい、どうぞ」
「嗚呼、ありがとう。卯月さんも皐月も食べよう」
「ええ……皐月は今朝は食べるの? ダイエットばかりしてたら身体に悪いわよ?」
「……っ!」

 わたしに向けられたそれは、いつもお母さんが言っていた言葉だった。

 かつて、折角用意してくれたご飯を、ダイエットのイライラで床に投げ捨てたことがある。
 何かにつけて口煩いお母さんが嫌で、無視して部屋に閉じ籠ることもあった。
 昨日も、結局まともに話を聞けなかった。

 もしかして、お母さんはこんな我が儘娘の世話が嫌で、家出してしまったのだろうか。『卒業』とは、一体何なのか。お母さんは、何処に行ってしまったのか。
 わたしはまるで迷子の子供になったように、不安からぽつりと呟く。

「お母さんは、どこ……?」
「だから、今日から私が……、ちょっと、皐月!?」

 わたしは彼女の声を無視して、二階の両親の寝室へと向かう。
 服や化粧品、家具や小物はそのまま残っているのに、飾られていた家族写真からは『お母さん』の姿が消えていた。……否、お母さんの顔の部分に、あの女の顔写真が雑に切り貼りされていた。

「……何なの、これ!?」

 どっきりか何かにしたって、悪趣味にも程がある。
 何せ飾られていた物のみならず、アルバムの写真まで全て、その雑コラ仕様になっていたのだ。

 家族の大切な思い出の写真達。なのに重ねられたものを無理に剥がそうとすれば、破けてしまいそうだった。
 そんな雑に上書きされた歪な家族写真は、今のわたし達そのものだ。

「……何なのよ……一体……」

 何一つわからない中、涙が出そうになる。それでも諦めずにアルバム全て確認していると、不意に、違和感を覚えた。

 一番古い写真、赤ん坊のわたしを抱いているそれにも、他と同じく雑な貼り付けがされていた。けれど、その下にももう一枚、何か貼られているようなのだ。

 破かないように慎重に、丁寧にそれを一枚ずつ剥がすと……卯月という女の下には昨日までのお母さんが。
 しかし、それを剥がした一番下の元の写真には、これまた見知らぬ女が写っていたのである。

「……わたしのお母さんって、一体、誰なの……?」


*****