「まあね。おかげで子どもの僕たちは奥さんを大事にしなくちゃって思えたんだよ」
「……」
「親がめちゃくちゃだと子どもはしっかりするものさ。激しい親を見ていて、僕は怒らないようにしようって決めたんだ。怒ったって、いいことないからね」
「怒らずにいるって、できますか……?」

「そりゃあ、最初からは無理だけど。訓練だよ。なんだってそうだけどね。なりたい姿を頭に思い描いて掲げておくんだ。そこに近づけるように少しずつ自分を修正していく。手習いだって、お手本の真似をして上手くなるだろう。目標を持つことが大事だよね」
「目標……」
「若い頃はそれが見つからなくて迷ってしまうのだろうけど。小さなことでいいんだよ。こうなりたいって憧れを持つこと。僕の場合、親が反面教師になったというわけ」
 それは郁子もそう思う。母親のように、ヒステリックに相手を責めるだけの人にはなりたくない。

「でも……あの……、お母さんに、優しいんですね」
「そりゃあ、この年になればね」
 息子さんはおかしそうに腕を組んで笑った。
「許すって、そういうことだよ。時間が経てばそうなれる。無理に許そうとすることはないさ」
 察したようにそう言ってくれたけど、郁子にはぴんとこない。母親と仲良くしようとはとても思えない。
「今はそれでもいいんだよ」
 穏やかに郁子の肩を叩いて息子さんは立ち上がった。

「僕まで余計なおしゃべりして悪かったね」
 郁子はふるふると首を横に振る。息子さんが手を上げて行ってしまいそうになったから、郁子は慌てて呼び止めた。
「わたし、もうすぐ退院できそうなんです」
「そう、良かったね。それじゃあこれが最後かな。元気でね」
 郁子も立ち上がってぺこりとお辞儀をした。生垣の外の歩道に出て建物の方へ戻っていく姿を見送る。

「先輩ですよね?」
 背後から声をかけられて郁子は振り返る。心臓が跳ね上がった。郁子の高校の夏服を着た女の子が立っている。小さな顔に大きな瞳、長い髪を今はふたつに結んでいる。修司と付き合っていた、生徒会の彼女だった。