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もうすっかり見慣れたドアノブに手をかけて回すと、がちゃりと音がした。ドアを開けて一歩踏み出すと、前の方に身をかがめて絵を眺めている彼女の姿があった。
なるべく音を立てないように忍足で近づき、声をかける。
「何の絵?」
後ろから訊ねると、美花はくるっと身体ごと振り返ってキャンバスを隠した。
「だーめ。内緒」
悪戯っ子のような笑みを浮かべる美花は、僕の姿を見て「あれ」と声を上げた。目を丸くして、こてんと首を傾げる。
「カメラは?写真撮らないの?」
どうやら僕の軽装が気になったらしい。天体観測と言いながらカメラを持たず手ぶらなのだから、そう思っても仕方がないだろう。
「あー、うん。実は、姉さんが天体観測好きだからよく家族で天体観測をするんだけど。いつも肉眼で見るから、その癖で」
美花はしばらく黙っていたけれど、キャンバスをそばにあった手提げにしまって、いつものように地面に寝転んだ。
「楽しみ。晴れてよかった」
目を閉じたまま美花がぽつりとつぶやいた。今日の天気は晴れ。天体観測にはもってこいの、晴れ晴れとした空だ。
美花の隣に腰を下ろして、ふと思って口を開く。
「美花は時間大丈夫だったの?ほら、夜だし」
「うん。大丈夫」
美花はやけにきっぱりと答えた。
天体観測となれば辺りが真っ暗になる闇夜で行うものだし、そうなると遅くまで学校にいなくてはならない。立入禁止の屋上にこうして来ていること自体、バレたら職員室行きは免れないしだろう。ましてや夜までいるなんて、校長の大目玉をくらうかもしれない。
それに、美花の両親だって心配するはずだ。男子ならまだしも美花は女子で、しかも力があるようには思えない華奢な女の子だ。といっても、初日に僕を持ち上げてフェンスを越えさせるほどのパワーを持っているみたいだが。それでも、男性の力に及ぶのかといったら、そうではないだろう。
いや。もし頼まれれば、僕が送っていけばいいだけの話だ。そうすれば、いくら夜遅くても問題はない。次々と浮かんでくるとりとめのないことを考えながら、ちらと美花に視線を遣ると、透き通った紺青の瞳と視線が絡まる。
「東悟くんこそ、大丈夫だったの?ここまでくるときバレなかった?」
「ああ。影が薄いし、全然平気だったよ」
自虐ネタを披露すると、美花はあはは、と口を大きく開いて笑う。
その刹那、どくっと鼓動が波打つ。思わず空に目を向けると、すでにいくつもの星が瞬きだしていた。
冷たい床に、彼女のように背をつける。しばらく二人で寝転んだまま、遥か彼方の光を見つめる。
淡く、ぼんやりとしていて、それでいて、確かにその存在を放っている星。夜の涼しい風が、頬を撫でていく。
「静かだね。それに星、とっても綺麗」
「ああ」
これほどまでの静寂に包まれたのはいつぶりだろうか。しんとした夜の空気は二人の息遣いだけを響かせる。
「ねえ、東悟くん」
ふいに名前を呼ばれて顔を横に向けると、同じように横を向いた美花と至近距離で目があった。神秘的な光に、思わず目を細める。
「卒業しても、たまにはこうして星空を見上げてね」
「……ああ。見上げるし、写真も撮るよ」
「ううん、見上げてくれるだけでいいの」
よく分からないことを言う美花を見て、はたと気付く。
「美花、寒くない?」
彼女の格好はいつもどおり半袖だった。体質はそれぞれにあるかもしれないけれど、まだ春が始まったばかりの夜にはそぐわない格好のはずだ。
「私、暑がりだから」
「いや、流石に暑がりだったとしてもこの気温は寒いでしょ。これ着て」
「だめだよ。東悟くんが寒くなっちゃう」
「いいから」
学ランを脱いで彼女に差し出す。美花は首を横に振っていたけれど、やがて観念したように僕の学ランを羽織った。
「いいにおいする。東悟くんのにおい」
すん、と学ランに鼻を近付けでそんなことを言う美花を、気付けば僕は引き寄せていた。
「と、うごくん……?」
驚いたようすで微動だにしない彼女の身体を包み込む。美花の身体は雪のように冷たかった。
「ほら、絶対寒いだろ。嘘つき」
「嘘つき、か……」
ぽつりと洩らす美花は、僕の背中に腕を回した。ぎゅっとその小さな手が僕の身体を包む。
「なんでかな……」
「え?」
聞き返すと、美花はふるふると首を横に振った。それから何も言わずに、ただじっと静寂の音を聴く。
「────美花」
呼びかけると、美花はうずめていた顔を上げて僕を見つめた。夜を映した瞳がまっすぐに僕をとらえている。
「数多の星のなかで君に出会えたことは、僕にとって奇跡だと思う」
「……ポエムっぽいこと言うんだね」
「────夜だから仕方ないだろ」
急に口をついて出た言葉に恥ずかしくなってそっぽを向くと、美花はクスリと笑って僕の頬に手を寄せた。
「夜の魔法ってやつ?想像力とか表現力が格段にあがる時間帯」
「たぶんそれ。こんなキザな台詞、今夜しか言わないよ」
「じゃあ、今夜は特別だね」
す、と美花の細い指が僕の頬をなぞるように移動する。躊躇うように恐々と撫でられて、軽く身じろぎすると、「ごめん」と目を逸らして美花は手を下ろした。
「……私も、東悟くんと出会えてよかった」
星屑のごとく小さなつぶやきは、夜の闇に溶けて、消えてゆく。空を見上げると、そこには満天の星空が広がっていた。
街のすべてを包み込むような星空。こうしてみると、宇宙はどこまでも果てしなく広がっていて終わりなんてない。数えきれないほどの生命が誕生し、宇宙のなかのちっぽけな星で生きている。そんなちっぽけな世界の中で出会えたこと。それを人は"奇跡"と呼ぶのだと、今なら思える。
神秘に圧倒されている僕の制服の裾を、美花が軽く引っ張った。
「ねえ東悟くん。私たち人間って、死んだら星になるのかな」
「いきなりどうしたの」
夜も更け、深い闇に包まれている"夜の魔法"故か。そんなことをきいてくる美花は、夜空をまっすぐに見上げて、ゆっくりと目を閉じた。
「よく人は死んだら星になるって言うじゃん。それって本当なのかな」
僕たちは、授業で数学や英語のように学ばなくても、"星になる"という表現が"死"を感じさせる表現であることを知っている。
星は綺麗だ。神秘的で、いつなんどきも光っていて、遠く、手を伸ばしても届かない存在。
だからこそ、人は憧れを抱き、いつしか星になりたいと思うようになったのだろう。
限りある生命を散らし、輝く星になる。言葉を紡ぐことができる人間にしかない発想だ。
誰もが死してなお美しく輝き、憧れさえも抱かれる存在になれると信じることで、死に対する恐怖を紛らわせたかったのかもしれない。
「本当なんじゃない?僕も美花もそんな経験はないし、亡くなった人が戻ってくることなんてできないから、到底解明できないけどさ」
「……でも。たとえば、犯罪を犯した人や他人の命を奪った人。そんな人も、きらきら輝く星になれると思う?」
「それは」
ぐ、と言葉に詰まる。目を開けた美花は僕の方を向いて、いつもより鋭い声でその先を続ける。
「他人って言ったけど、それは自分も同じだよ。とにかく、自分のものであろうが他人のものであろうが、命を奪ったらそれは人を殺めたってことになるよね」
出会った日の僕を、ひどく責められているような気がした。決まりの悪さに顔を背けると、ふ、と美花が小さく息を吐く音が聞こえてくる。
「私は別に東悟くんを責めてるわけじゃないよ。ただ単純に疑問なだけなの。世の中には、考えられないほどの苦悩を抱えた人がたくさんいる。そんな人たちが、もうだめだ、もう限界だ、って自分の命を手放したとき、神様はちゃんと星にしてくれると思う……?」
「そんなの」
─────なんで僕に訊くんだよ。
続けようとした言葉は、口から出ずに喉元で消えた。それは、美花がほろりと一粒の涙をこぼしたからだった。
「美花?」
光る涙の粒は、夜なのにキラキラと宝石のように輝いていて、不謹慎ながらも綺麗だと思ってしまう。
「お願い。答えて、東悟くん」
「僕、は」
黙り込んだまましばらく思案する。
星になる。
儚くて、淡くて、美しい。誰もが憧れる綺麗な星。たとえ自分を殺したって、限りある生命を散らした先にあるのは美しく輝く世界だと信じたい。
「なれるよ、きっと。自分を生きた人なら、僕は誰だって輝けると思う」
「……そっか。おんなじだ」
「え?」
「私のだいすきな人も、そう言ってくれた。星になれるって言ってくれた。だから、私は」
それきり口をつぐむ美花。涙に濡れるその顔は、嬉しそうとも切なそうともとれる表情だった。
けれど、僕はそれよりも美花の言った"だいすきな人"という言葉に引っかかってしまう。
誰だ?だいすきな人って、女?それとも男?
それは、友達としてなのか、それとも────。
「東悟くん、すごく難しい顔してるよ」
ちょんちょんとつつかれて我に返る。無意識のうちに眉間に皺が寄っていたようで、美花に笑われてしまった。その笑顔を目にした瞬間、胸の内に生まれた……いや、確かに生まれていたのに気付かないふりをしていた想いに抗うことなく、その華奢な身体を再び抱きしめる。
「……どうしたの?」
ひどく落ち着いた声音て訊ねられて、想いが己を支配していく。強く抱きしめた腕の中で、彼女がふ、と息を吐くのが分かった。
「美花」
静かに名を紡げば、腕の中で彼女が軽く身じろぎする。
ふんわりと鼻腔をつく桜の香り。ひやりと冷えた身体にぬくもりを与えるように、ただ強く抱きしめる。
「ずっと一緒にいてほしい」
夜気に溶けて消えないように、はっきりと口にした言葉は、きっと真っ直ぐに彼女に届いたと思う。
そばで笑っていてほしい。美花の描く空を、美しい世界をずっと見ていたい。
────君の全ての刹那の先で、笑っていたい。
この胸の高鳴りがどんな感情なのか、きっと僕は知っている。生きる意味が何なのか、まだ分かっていないふりをしていただけで、もうとっくに答えなんて出ていたのだ。
美花がそばにいてくれるのなら、僕はこれからも生きていける。
(僕の全てを認めて、僕の全てを欲してほしい)
心の中に、欲望が次々と濁流のように押し寄せてくる。
(お願いだから、頷いてほしい。同じ心を返してほしい)
夜空を彩る星々に願いを、輝く月に祈りを込める。
けれど。
「────ごめん。それは、できないの」
夜風が頰を撫でる静寂の中。
小さく返ってきたのは、そんな言葉だけだった。