「やっぱり最後はこれだよね」
しんみりとしたようすで美花が最後に手に取ったのは、線香花火だった。互いに一本ずつ握り、静かに火をつける。点火すると、短い火花が重なり合い、牡丹のような形を作った。パチパチと心地よい音が聞こえる。その音色を楽しみつつ、しゃがんで目の前にある鮮やかな火の花を見つめた。
「ねぇ、東悟くん」
ふいに、彼女には珍しい静かな口調でぽつりと名前を呼ばれる。「ん?」と顔を向けると、ひどく切なげな瞳と視線が絡む。その瞳は、夜空をそのまま切り取ったような深い深い藍で、神秘的で淡い儚さを纏っていた。いつもの美花とはまるで別人のようだった。見たことのない彼女のようすに、すっとこめかみを汗が伝う。
「勝負しない?線香花火が先に消えた方が負けね」
「……なんだよ」
心配して損した。どうしてそんな重い雰囲気で告げるのか分からなかったけれど、とりあえず軽い内容だったことに安堵して、了承する。なるべく花火を揺らさないように、手にぐっと力を込めた。いつの間にか、線香花火は、"柳"と呼ばれる段階になっていた。
「線香花火って、命みたいだよね。脆くて儚くて、揺れたらすぐに落ちて消えちゃう」
ひどく静かな口調でぽつりと洩らす美花。今日の美花はやっぱり普段とどこか違う。
「……私、も」
「え、っ」
思わず肩が揺れる。線香花火は無情にもぽとり、と地面に落ちて消えた。
「もう、美花のせいで落ちたじゃん。私も、ってどういう意味だよ?」
おどけたように言って、美花の横顔を見る。美花は自分の線香花火をじっと見つめたまま黙っていた。
ひやり、と冷たいものが背中を伝う。なんだか嫌な予感がした。
「……美花?」
「……」
しばらく押し黙っていた美花は、急に目線を上げて悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「なーんてね」
「……ったく」
安堵で全身の力が抜ける。どっどっと心臓がまだ速く鼓動を打っている。
やがて、美花の線香花火も、散りゆく菊の花弁のように小さく細い火花が舞い落ち、火玉が燃え尽きてぽとりと落ちて消えた。
「あ、落ちちゃった」
ひらひらと火が消えた花火を振って、美花は目を線にして微笑んだ。先程の憂いを帯びた表情は消えている。辺りはもうすっかり日が落ちている。時間的にはそこまで遅くはないけれど、流石にこの暗さでは遅くまで学校にいるわけにはいかなかった。
「そろそろ帰らないと。美花、送っていこうか」
自然と口をついた言葉に、だんだん頬が紅潮していくのが分かる。
今僕が言った言葉は、まるで。
「────なんか、恋人みたいだね」
言葉にされて、ぼっと顔から火が出る。美花はにんまりとからかうような笑みを浮かべた。
「ち、違うから。暗いと危ないと思って。美花、一応女の子だし」
「うん、"一応"そうだね」
「あ、ごめん」
"一応"と言ってしまったことを強調される。しまった、つい。
「いいよ、私は大丈夫。ありがとね、東悟くん」
美花はひらひらと手を振った。暗いから危ないよ、と言おうとしたけれど、送ってもらいたくない理由があるかもしれないのでぐっとその言葉を抑える。嫌がっている女の子を無理やり家に送るなどの行為はよろしくない。彼女自身が大丈夫と言っているのだから、きっと大丈夫なのだろう。
「そっか。分かった」
返事をしてバケツに手をかけると、美花が「大丈夫!」と僕の手からバケツをさらった。
「私が片付けるから、東悟くんは先に帰っていいよ」
「そういうわけにはいかないだろ」
「いいの!花火に付き合ってくれたお礼!」
きっぱり言う美花は、バケツを両手で持ってにこりと花が咲いたような笑みを浮かべた。花火とは比べ物にならないくらい綺麗な笑顔だった。
「───明日」
気付けば言葉が口をついていた。「え?」と目を丸くする美花をまっすぐに見つめる。
「明日、天体観測しない?」
「てんたい、かんそく……?」
ゆっくりその言葉を繰り返した美花は、紺青の瞳をキラキラと輝かせた。
「したい!天体観測っ」
案の定食いついてくれてホッとする。慌てて口から出た言葉だったから不安だったけれど、彼女は気に入ってくれたようだ。
「夜、この屋上で会って、天体観測しよう。望遠鏡はないけど、肉眼で。それでもいい?」
「いいよ。絵描きの視力は馬鹿にはできないからね」
「知ってる」
その刹那、えへん、と腰に手を当てる美花の目がわずかに見開かれた。一瞬の出来事だったので、特に気にすることなく暗色に包まれる空を見上げる。
きっと、美しい絵を描く彼女のことだから、その瞳が映す夜空はたとえ肉眼でも素敵に違いない。
「バケツ、本当にいいの?」
「うん。今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかった」
柔らかく笑う彼女の薄茶の髪を風がさらう。
卒業まで、あと四日。
僕が学生としてここにいられるのも、あと少しだけだ。