【立入禁止】と書かれた黄色いテープをくぐり、ドアを開ける。
今日の空は曇天。なんとなく気分が落ち込む。
どんよりとした気持ちで屋上に足を踏み入れると、前方で、大きなキャンバスと向かい合っている生徒の姿が目に入った。

静かに近寄って、背後から声をかける。

「───絵は順調?」
「うわっ、ビックリした!!」

びくりと肩を震わせて、彼女がくるりと振り返る。
大きな瞳が僕をとらえた。

「だからそれやめてって言ってるでしょ!間違って絵の具がベチャってなったら東悟君のせいなんだからね!」
「はは、勘弁しろよ」

くつくつと笑いながらキャンバスを覗く。そこには、いつも通り水彩画で今日の空が描かれていた。
浅葱鼠(あさぎねず)をメインに、ところどころ黒や白が混ざりあって明と暗をつくっている。

「相変わらず淡いタッチだね。綺麗だけど、飽きないの?」

問いかけると、美花は躊躇うことなく「うん」と即答した。

「自分が心から好きなものって、飽きることがないんだよ。東悟君は、趣味とか熱中するものとかないの?」

問い返されて、ぐ、と言葉に詰まる。僕の口から洩れたのは「ないことも、ないんだけど……」という控えめで曖昧な肯定だった。
美花はその言葉を聞き逃すことはなく、「何?教えて」と筆を動かしながら問うてくる。

今まで誰にも───親にすら言ったことがなかった、僕のただひとつの趣味。
それは。

「……写真」
「写真?撮られる側?」
「なんでだよ。撮る方だよ」

美花にツッコミを入れる。
それから少し遅れて、敢えて彼女はボケたのだ、と悟った。
僕が少しでも笑いながら趣味を明かせるように。

「それはスマホで、ってこと?それとも本格的に一眼レフ、みたいな」
「一応、一眼レフを自分で買った」
「ええっ、自分で?バイトしてってこと?」
「うん、まぁそうだね」

首肯すると、くるりと振り返った彼女は目を丸くした。

「それでいいじゃん」
「え?」
「君の生きがい。写真を撮ることを生きがいにすればいいじゃない」

名案だというように筆を持ったまま、ポン、と手を打つ美花。

「いや……ただの趣味だから、生きがいとかじゃないし」
「ただの、って。立派な趣味だよ。写真が撮れるってすごいことだよ!」
「撮ろうと思えば誰だってできるし」

小さく洩らした僕を、美花は「こら!」と小突いた。

「何言ってるの。誰にでもできることじゃないでしょ。世界中の写真家さんたちに謝らなきゃだよ、東悟君」
「……」
「絵と写真って似てるよね。描けば描くほど上手くなるし、撮れば撮るほど上手くなる。もちろん才能もいるよ。でも、結局はどれだけ継続できるかだと思うんだよね。いくら才能があっても、実践しないと開花しないし。何事も努力あっての才能開花」

彼女の言っていることは(もっと)もだった。素人目から見ても、彼女の絵は上手い。きっと、何年も何年も、何枚も何枚も描き続けた努力の積み重ねなのだと思う。けれど、彼女には紛れもなく才能がある。絵を見た人をぐっと惹きつけるような、そんな魅力が彼女の絵にはある。

「今度、見せてよ」

そう言って彼女はまたキャンバスに向き直る。滲ませるように陰影をつけ、「仕上げ」と言って隅にサインを施した。

「完成」

頭上に広がる空をそのまま描いているはずなのに、美花の絵にはどこか柔らかさがあった。そこが彼女の絵の一番の魅力だと思う。本人は「あー、疲れた」と言いながらいつものように地面に寝転がった。

「曇り空も悪くないね。描くのは大変だけど」
「何年間描いてるの?」

疑問を口にすると、彼女は「……ちゃんとは覚えてないけど、長いよ」と告げた。
湿気を帯びた風が、頬を撫でるように僕たちの間を通り過ぎていく。寝転ぶ彼女の隣にゆっくりと腰をおろした。

「卒業まであと一週間だね」
「……うん」

美花の呟きに、控えめに首肯する。
この屋上で出会ってから一週間、彼女は宣言した通り、毎日絵を描いていた。
僕も気が向いた時に赴いて、ただ彼女の横で談笑しながら彼女がつくりだす世界を眺める。
一緒に何かしたり、遊んだりするわけでもなく、ただ自分の好きなことをしている。そんな彼女の絵を見ている僕も楽だった。
毎日変わるその絵は、見応えがあって何より綺麗だった。明確な「生きる意味」はまだ見つかっていないけれど、彼女の絵を毎日見れるなら、生きていてもいいかもしれない。
そんなことを考えて、打ち消すようにぶんぶんと(かぶり)を振る。

「あと一週間、何しよっか」

考えるような仕草をしながら、美花が問いかけてくる。

「絵、描くんじゃないの?」
「それは、そうなんだけど。何もしないままじゃつまんないじゃん?」
「絵を描いてるだけで楽しいでしょ、美花は。僕もその絵見てるだけで楽しいし」
「楽しいというか……描かなきゃいけないの」

ぽつりと呟かれた言葉を聞き返す前に、「あ、私やりたいことある!」と美花は声を上げた。

「何、やりたいことって」
「秘密ー」
「なんだよ、意味わかんね」

美花は楽しげに肩を揺らしながら笑う。

「楽しみにしてて。きっと楽しいよ」

花が咲いたように笑う美花は、空に手を伸ばした。

「一週間経っちゃったもんね。私、そろそろ本気出すから」
「なに、本気って」
「言ったでしょ。東悟くんが生きたい!って思えるようにすることだよ。だから、残りの一週間は毎日会いに来てね」

会いに来て、って。
それじゃあまるで、僕が君に執着しているみたいじゃないか。

そう思ったけれど、あながち間違いでもないような気がして、言い返そうとした言葉を呑み込んだ。

「分かった」

ケラケラと笑う姿に、どくんと心臓の音が聞こえたような気がして、思わずその笑顔から視線を逸らした。