刹那の先で、星になる



「先生」


目の前に立つ写真部顧問にそう呼びかけると、彼は静かに振り返った。


何も言わず、硝子玉のように澄んだ瞳で、じっとこちらを見ている。


感情が読めない無機質な瞳。


彼は僕が入部した時から、そういう瞳を持っている先生だ。



「僕、初めて入りました。この美術倉庫。案外綺麗なんですね」



そう言って壁に視線を流すと、大きな額縁に飾られている、一枚の写真に目が釘付けになった。


息をするのも忘れて、その写真に見入る。


雲が幾重にも重なり、息を呑むほどの鮮烈な赤や、淡いピンク、澄んだ青、そしてそれを全て包み込むようなオレンジが溶けるように広がっている黄昏(たそがれ)の空の写真だった。


ぐっと僕の心を掴んで離さないあまりの美しさに息を呑んでいると、ふと額縁の下に小さなプレートがあることに気がついた。


視線を下にずらし、そのプレートに書かれた文字を目で辿る。


【生きる意味】


単純で、端的な題だった。

目を凝らすと、プレートの端に記されているのは、目の前の顧問の名前だった。



「先生にとって……空を撮ることが、生きる意味、なんですね」



激しく心を揺さぶられて、魂が抜けたような状態のままつぶやく。



彼はそれに答えることはなく、ゆっくりと窓の外に視線を遣った。


そこには、雲ひとつない澄んだ青空が広がっている。



「今日は……星がよく見えるな」



ぽつりとこぼし、彼は静かに瞑目した。




つまらない。
ただそれだけだった。
毎日同じ通学路を通って学校に通い、変わらぬクラスメイトとたいして面白くもない話をして、見慣れた景色を見ながら家に帰る。

────僕が自殺を考えたのは、そんな何の変哲もない日常に飽きてしまったからだったと思う。

家庭環境が殊更(ことさら)悪かったわけでも、いじめを受けていたわけでもない。ただ、色のない世界に飽き飽きした。それまでのことだ。

気がつけば、立入禁止とされている屋上に立っていた。
前にここから飛び降り自殺をした生徒がいたため、立入禁止になったらしい。
立入禁止ときつく言われている割には、鍵がきちんとかかっているわけではなく、随分と古びたものだった。きっと屋上に足を踏み入れる生徒がいなかったため、ただの脅しとして放置されていたのだと思う。得体の知れないものがあるかもしれない屋上に行くのは、一般的な考えを持つものなら普通に躊躇うものだ。

はは、と乾いた笑いが洩れる。
そんななかで、どうやら自分と同じ考えのやつが過去にもいたらしいということに、なぜだか無性に笑いが込み上げてきた。
理由がどうであれ、自らを殺めるという点では、僕とその生徒は同じなのだ。

フェンスに身を乗り出して、春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)たるのどかな春風を身体に受ける。風に踊る髪を押さえながら静かに目を閉じると、瞼の裏に、この世界にたった一人の姉さんの姿が映った。

……僕がいなくなったら、姉さんはどんな顔をするだろうか。

僕にとって、姉さんが一番身近な存在だった。僕より十個も上の彼女は、僕の面倒をよく見てくれていた。どんなに困ったことがあっても、持ち前の明るさと賢明さで僕を導いてくれた。
彼女は己の芯を強く持っている女性(ひと)だ。卑劣な行動はいっさいせず、人生を真っ当に生きている。半面、感受性が豊かで、よく本を読んでは涙している。
彼女はきっと、涙を流してくれるだろう。いつも弟である僕のことを気にかけてくれた。そんな姉さんを裏切ってしまうことだけが、僕の唯一の心残りだ。

おもむろに天を見上げると、そこには果てしない青空がひろがっていた。小さな悩みなんて溶けて消えていくような、どこまでも続く空だった。
この景色を見られなくなるのだと思うと、ほんの少し惜しい気もする。
日本に生まれて良かった点をあげるとすれば、四季折々の景色をこの目に焼き付けることが出来た点と、こうしてのどかに空を見上げることが出来たという点だ。

でも、この景色とも今日おさらばするのだ。

ぐ、とフェンスを握る手に力を込める。
地面を強く蹴ると、案外楽にフェンスを越えることが出来た。僅かな狭い足場にふわり、と軽やかに着地する。

妙な無気力感に包まれながら、生まれ育った街を見下ろす。真下から少し離れたところを走る車が小さく見えた。
ここから飛び降りれば、確実に死ぬだろう。
そして、この人生に終わりを告げるのだ。

ふ、と笑いが洩れる。
どうやら僕は最後の最後まで、笑うことをやめないらしい。
人生の終わりに笑顔でいられるなんて、僕はなんと幸せな男だろう。
見た目は僕なのに動かしているのは他の人間のような、そんな気持ちに包まれながら、ゆっくりと目を閉じる。

一歩足を踏み出せば、待っているのは────「死」だけ。

さようなら、姉さん。
さようなら、学校。
さようなら、世界。

来世はもう少し僕が楽しめる世界になっていることを願います。


「だめ────!」

太陽の光を遮断した瞼の裏で、そんな声を聞いた気がした。
その刹那、強い衝撃とともに身体が地面に叩きつけられる。
うっ、と小さな呻きが口から洩れた。


……死んだのか?
僕はちゃんと死ねただろうか。


微かな希望を胸にして、そろりと重い瞼を上げる。だが、視界では、予想だにしなかった人物が僕の顔を覗き込んでいた。

「何やってるの!?君、自分が何しようとしてたのか分かってる!?」
「は……?」

僕の目に映るのは、人形のような容姿をした可愛らしい少女だった。彼女は大きな目からぽろぽろといくつもの涙を流して必死に訴えている。

「なんで自分で命を絶とうとするの?だめだよ、命は大切にしないといけないんだよ!生きたくても生きれなかった人は、この世にたくさんいるんだから……!」
「……えーと」

予想外の展開に困惑する。そろりと辺りを見回すと、先程越えたはずのフェンスが目に入った。

つまり僕は……彼女に助けられたということ。

いや、僕は死のうとしていたわけだから、邪魔されたと言ってもいいだろう。そうしてふと疑問が浮かぶ。

「あの……もしかしてなんですけど。僕をフェンスの向こう側からこっちに戻したのって、君ですか」

もしかしてだ。万一の可能性を考えて訊いたまでだ。
普通に考えて、現役男子高校生の身体を持ち上げて戻すなんて行為、華奢な彼女には不可能なことくらい分かっている。
けれど彼女は泣き顔から一変、にこりと笑い、あっさり頷いた。

「そうだよ。私が君をここまで」
「は……?うそ、だろ」
「嘘じゃないよ。みんなによく驚かれるんだけどね。私こう見えて結構力あるんだよ?」

腕の筋肉を見せるようなポーズをとる彼女に唖然としてしまう。
僕は年相応の身長と体重だから、小柄ということは全くない。それなのに、彼女の細い身体で本当に僕をここまで戻したのだろうか。
理解しかねる事実に頭を抱えつつ、彼女の姿を今一度確認する。

華奢な肩に、半袖の制服から伸びる細くて雪のように白い手足。
頬はふっくらしていて女の子らしさを感じさせるけれど、顎周りはスッキリとしていて輪郭がはっきりしている。
色素の薄い大きな目、スッと鼻筋が通った鼻、薄くて潤いのある唇。

クラスの男子たちが「可愛い」とこぞって言いそうな顔のつくりをしている彼女は、にこっと花が咲いたように笑った。
泣いたり怒ったり、叫んだり笑ったり。表情がくるくる変わるところも、きっと彼女の魅力なのだろう。


「えっと、名前を教えてくれないかな」

春風が、彼女の茶髪を揺らす。毛先が少しくるんとしている彼女の髪が、躍るようにさらりと肩に落ちた。

「……美花(みはな)

心の中で「美花」という響きを反芻する。
改めて聞いてみると、彼女───美花の声は少しハスキーだった。けれど、聞き取りづらいということは一切なく、むしろそこがまた彼女を魅力的にしていた。

「君は?」

問い返されて、「東悟(とうご)」と小さく名乗る。美花は、良い名前、と微笑んで寝転がった。

「東悟君も寝転んでみなよ。綺麗だよ、空」

目を伏せた美花は、そう言って口角を上げた。さらっと名前を呼ばれ、鼓動が大きく跳ねる。促されるまま、ゆっくりと地面に背をつけると、ひんやりとした感触が背中に伝わった。

「……なんであんなことしたの?」

責めるわけでもなく、問い詰めるわけでもなく、ただ包み込むような声音で問われる。叱るとか怒るとかそういうことをするためではなく、純粋に知りたいから訊ねた、そんな口調だった。

「……つまんなかったから、かな。生きる意味なんてないし」
「そっか」

何事もないように僕の言葉を流した美花は、しばらく黙っていたけれど、「じゃあ」と言って目を開いた。
硝子玉のように澄んだ瞳と視線が絡み合う。どきりと心臓が音を立てたような気がした。

「生きる意味、見つけようよ。私と」
「は……?」

突拍子もないことを言う美花に思わず声が洩れる。
彼女は目を丸くする僕を気にすることなく、むくりと身体を起き上がらせて、自身ありげににっこりと笑った。

「卒業までのあと二週間。私と楽しいこといっぱいして、生きる意味を探そうよ」
「生きる、意味……?」
「そう。生きるって楽しい、生きててよかった、って東悟君が思えるように、私頑張るからさ。どうせなら二週間楽しいことしてみない?」

悪戯っぽい笑みを浮かべる美花には、何か考えがあるようで。
寝転んだまま呆然とする僕の肩をトンと叩き、ヘーゼルの瞳でまっすぐに僕を見つめながら微笑んだ。

「君の二週間を私にください」

いつの間にか赤やオレンジが滲み出した空に、彼女がすうっと溶けていくような錯覚に陥る。

会ったこともない、存在さえも知らなかった人の言葉を聞いて思いとどまるなどどうかしている。
そう自分でも思ったけれど。

『生きる意味、見つけようよ、私と』

その言葉が、まっすぐな視線が、僕の心を掴んで離さない。

どうせ死ぬのなら、二週間を彼女と過ごしてからでもいいのではないか。
そんな思いが小さく胸の内に生まれて、どうしていいか分からなくなる。

「気の迷いだったら、東悟くんは絶対に後悔する。人生は、世界は、つまらなくなんてないよ。それを私が証明するから。私と卒業までの二週間を過ごして、それでも死にたいんだったら、私はもう止めないよ。だから、ね?」

彼女は僕が死ぬことを否定しなかった。ただ、死ぬまでの期間を少しだけ延ばそうとしただけ。
その事実だけで、心が少しだけ軽くなるような気がした。

「東悟くん。二週間、よろしく」

もう僕が首を縦に振ることが決まっているようなそんな物言いに、思わず笑みがこぼれる。
美花の言葉にゆっくりと頷くと、美花はまた嬉しそうにゆらゆらと身体を揺らしながら笑う。

「あ、でも最初の一週間は、ちょっと私の好きなことをさせて」
「好きなこと?」
「うん。私は毎日この屋上にいるから。気が向いたら、遊びに来てよ」

人は、出会うべき時に出会うべき人と出会うという。
この出会いが、僕の人生を大きく揺るがすことになるとは、このときの僕は思いもしなかった。




【立入禁止】と書かれた黄色いテープをくぐり、ドアを開ける。
今日の空は曇天。なんとなく気分が落ち込む。
どんよりとした気持ちで屋上に足を踏み入れると、前方で、大きなキャンバスと向かい合っている生徒の姿が目に入った。

静かに近寄って、背後から声をかける。

「───絵は順調?」
「うわっ、ビックリした!!」

びくりと肩を震わせて、彼女がくるりと振り返る。
大きな瞳が僕をとらえた。

「だからそれやめてって言ってるでしょ!間違って絵の具がベチャってなったら東悟君のせいなんだからね!」
「はは、勘弁しろよ」

くつくつと笑いながらキャンバスを覗く。そこには、いつも通り水彩画で今日の空が描かれていた。
浅葱鼠(あさぎねず)をメインに、ところどころ黒や白が混ざりあって明と暗をつくっている。

「相変わらず淡いタッチだね。綺麗だけど、飽きないの?」

問いかけると、美花は躊躇うことなく「うん」と即答した。

「自分が心から好きなものって、飽きることがないんだよ。東悟君は、趣味とか熱中するものとかないの?」

問い返されて、ぐ、と言葉に詰まる。僕の口から洩れたのは「ないことも、ないんだけど……」という控えめで曖昧な肯定だった。
美花はその言葉を聞き逃すことはなく、「何?教えて」と筆を動かしながら問うてくる。

今まで誰にも───親にすら言ったことがなかった、僕のただひとつの趣味。
それは。

「……写真」
「写真?撮られる側?」
「なんでだよ。撮る方だよ」

美花にツッコミを入れる。
それから少し遅れて、敢えて彼女はボケたのだ、と悟った。
僕が少しでも笑いながら趣味を明かせるように。

「それはスマホで、ってこと?それとも本格的に一眼レフ、みたいな」
「一応、一眼レフを自分で買った」
「ええっ、自分で?バイトしてってこと?」
「うん、まぁそうだね」

首肯すると、くるりと振り返った彼女は目を丸くした。

「それでいいじゃん」
「え?」
「君の生きがい。写真を撮ることを生きがいにすればいいじゃない」

名案だというように筆を持ったまま、ポン、と手を打つ美花。

「いや……ただの趣味だから、生きがいとかじゃないし」
「ただの、って。立派な趣味だよ。写真が撮れるってすごいことだよ!」
「撮ろうと思えば誰だってできるし」

小さく洩らした僕を、美花は「こら!」と小突いた。

「何言ってるの。誰にでもできることじゃないでしょ。世界中の写真家さんたちに謝らなきゃだよ、東悟君」
「……」
「絵と写真って似てるよね。描けば描くほど上手くなるし、撮れば撮るほど上手くなる。もちろん才能もいるよ。でも、結局はどれだけ継続できるかだと思うんだよね。いくら才能があっても、実践しないと開花しないし。何事も努力あっての才能開花」

彼女の言っていることは(もっと)もだった。素人目から見ても、彼女の絵は上手い。きっと、何年も何年も、何枚も何枚も描き続けた努力の積み重ねなのだと思う。けれど、彼女には紛れもなく才能がある。絵を見た人をぐっと惹きつけるような、そんな魅力が彼女の絵にはある。

「今度、見せてよ」

そう言って彼女はまたキャンバスに向き直る。滲ませるように陰影をつけ、「仕上げ」と言って隅にサインを施した。

「完成」

頭上に広がる空をそのまま描いているはずなのに、美花の絵にはどこか柔らかさがあった。そこが彼女の絵の一番の魅力だと思う。本人は「あー、疲れた」と言いながらいつものように地面に寝転がった。

「曇り空も悪くないね。描くのは大変だけど」
「何年間描いてるの?」

疑問を口にすると、彼女は「……ちゃんとは覚えてないけど、長いよ」と告げた。
湿気を帯びた風が、頬を撫でるように僕たちの間を通り過ぎていく。寝転ぶ彼女の隣にゆっくりと腰をおろした。

「卒業まであと一週間だね」
「……うん」

美花の呟きに、控えめに首肯する。
この屋上で出会ってから一週間、彼女は宣言した通り、毎日絵を描いていた。
僕も気が向いた時に赴いて、ただ彼女の横で談笑しながら彼女がつくりだす世界を眺める。
一緒に何かしたり、遊んだりするわけでもなく、ただ自分の好きなことをしている。そんな彼女の絵を見ている僕も楽だった。
毎日変わるその絵は、見応えがあって何より綺麗だった。明確な「生きる意味」はまだ見つかっていないけれど、彼女の絵を毎日見れるなら、生きていてもいいかもしれない。
そんなことを考えて、打ち消すようにぶんぶんと(かぶり)を振る。

「あと一週間、何しよっか」

考えるような仕草をしながら、美花が問いかけてくる。

「絵、描くんじゃないの?」
「それは、そうなんだけど。何もしないままじゃつまんないじゃん?」
「絵を描いてるだけで楽しいでしょ、美花は。僕もその絵見てるだけで楽しいし」
「楽しいというか……描かなきゃいけないの」

ぽつりと呟かれた言葉を聞き返す前に、「あ、私やりたいことある!」と美花は声を上げた。

「何、やりたいことって」
「秘密ー」
「なんだよ、意味わかんね」

美花は楽しげに肩を揺らしながら笑う。

「楽しみにしてて。きっと楽しいよ」

花が咲いたように笑う美花は、空に手を伸ばした。

「一週間経っちゃったもんね。私、そろそろ本気出すから」
「なに、本気って」
「言ったでしょ。東悟くんが生きたい!って思えるようにすることだよ。だから、残りの一週間は毎日会いに来てね」

会いに来て、って。
それじゃあまるで、僕が君に執着しているみたいじゃないか。

そう思ったけれど、あながち間違いでもないような気がして、言い返そうとした言葉を呑み込んだ。

「分かった」

ケラケラと笑う姿に、どくんと心臓の音が聞こえたような気がして、思わずその笑顔から視線を逸らした。


「ほんっと、意味分かんないよね。せっかくやりたいことあったのに、雨なんてさ」
「まーね」

昨日の曇天に引き続き、というよりむしろ悪化し今日の天気は雨。
悔しい、と嘆く彼女を見ながらカメラを持つ。

「おおっ、ついに!」

今にも泣きださんばかりに落ち込んでいた彼女は、途端にパッと笑顔になって僕の後ろに回った。

「雨、撮るのね?あっ、窓開けようか?」

再び窓に近寄ろうとする彼女を止める。

「開けたら床が水浸しになるだろ」
「でも、ガラス越しでもちゃんと撮れるの?反射して東悟君が映っちゃうことない?」

屋上の代わりにやって来た美術倉庫と呼ばれるここの窓ガラスは、何故だか驚くほどに綺麗なのだ。
だから、ガラス越しでも綺麗に撮れる。

「反射はこうやって防ぐんだよ」

鞄から自作の暗幕を取り出し、セッティングする。

「さっすが」

パチパチと拍手する美花は、そう言って僕の肩をポンッと叩いた。
そうして撮った写真は、我ながら良い出来だったと思う。

「どんな感じ?見せて見せて」

僕の手元を覗き込む美花は、写真を見た瞬間、感嘆の声を洩らした。

「すごいじゃん……!才能だよ、これ。誇るべき東悟君の特技だよ」
「そう、かな」
「うん!私が保証する。君は写真を撮るのが上手いっ」

腰に手を当ててビシッと僕を指差す美花。
そんな彼女が何故だかたまらなく愛おしくて、思わずカメラを向ける。

「ちょっと、だめ!」

手で隠すようにして倉庫内を逃げ回るその姿ですら、可愛らしい、と思う。



────この感情を、人はきっと。



己の心に生まれた想いを包み隠すように、僕はシャッターを切った。







「おかえり」

帰宅した僕の気配を感じたのか、姉さんがリビングから顔を覗かせてにこりと笑った。腰の辺りにある髪の先がまっすぐに落ちている。僕の記憶があるうちはずっとロングヘアー、高校時代は短かったらしい。もはや髪の短い姉さんなど想像できないほどに、ロングヘアーが定着してしまっている。
「姉さん、昔は短かったのよ」と高校の卒業アルバムを見せようとしてくるのを、何かと理由をつけて避けているけれど、そろそろ限界が来るかもしれない。普通に考えて姉の卒アルなどに興味はないけれど、そんなことを言うと怒られそうなので、言葉をぐっと呑み込んでいる。

「ただいま」

いつものように言ったつもりだったけれど、姉さんは何やら訝しげな顔をして片眉を上げる。

「何かあった?」

即座に問われて、心臓が跳ねる。なるべく勘付かれないように、平静を装って答える。

「何かって、なにが?」
「それを訊いてるの。嬉しそうだけど、いいことでもあった?」

そんなに顔に出ていたのだろうか。思わずきゅっと顔を引き締める。

「べ、別に。何もないよ」

焦ってしどろもどろになる僕を、姉さんはじっと見つめた後、「ふーん、そう」とだけ返してまたリビングに顔を引っ込めた。
ふ、と安堵の息を吐いて自分の部屋に入る。ほんのり香るフレグランスに包まれながら鞄を置く。学習椅子に身を委ねると、わずかに椅子が軋む音がした。まだ鞄の重さが残るような気がする肩を軽く回して、深く息を吐く。

撮った写真を見ようと、おもむろにカメラに手を伸ばしたとき、突然部屋のドアが開いた。

「うわっ」
「なに驚いてんの。……え、カメラ?」

姉さんの視線をたどり、反射的にカメラを隠す。

────しまった。見られてしまった。

どうする、と頭の中で繰り返している僕に、姉さんは容赦なく問いかけてくる。

「それ、学校で借りてるやつ?あんたそんな高価なカメラ持ってないもんね」

姉さんは妙に勘が鋭い。推理ものが好きということもあるのか、どこぞの探偵のような推理力を発揮する時があるので、姉さんに隠し事ができた経験はこれまで一度たりともなかった。

「と、友達のだよ。借りてんの」

取り繕うような笑みを浮かべると、姉さんはなお怪訝そうに僕を見て腕を組む。

「……ふーん。高価なものなんだから、壊さないようにするのよ」
「分かってる。ていうか、なんのために来たんだよ」
「ドライヤー、あんた部屋にとってるでしょ。髪は女の命なの。返して」

家族兼用のドライヤーを洗面台からとったままだったことを思い出し、部屋の隅を指差す。

「コンセントさしっぱなしじゃん。これ、高いドライヤーなんだから。もっと大事に扱ってよね」

文句を言いながら姉さんはドライヤーを持って部屋を出ていった。ドアが閉まった瞬間、安堵で身体の力が抜ける。

写真を撮ることが好きだなんて、家族には言えない。
ましてや、写真に繋がりのある職業を考えているだなんて、言えるわけがない。
たとえそれが姉さんであっても。



「じゃんっ」

美花が背中からのぞかせたのは、手持ち花火だった。

「今日は晴れてよかった。一緒にやろ、東悟君」
「言ってたやりたいことって、これ?」

問うと、美花はうんっ、と嬉しそうに頷いた。

「花火って……夏じゃないのに。どこで買ったの?そもそもこの時期に売れてるの?」
「秘密〜」

唇に人差し指を当てて、美花は無邪気に笑った。僕の返事を聞かずに、美花は花火を開封し始める。

……というか、学校の屋上で花火をしても良いのだろうか。いや、絶対にいいはずないのに、有無を言わさない美花の圧に、僕の小さな良心は簡単に消えた。

どうせもう卒業なんだから。
もっと言えば、あの日、僕達が出会った日に終わっていたような命なのだから。
もう、仕方がない。もし神様がいるのなら、今日くらいは許してほしい。

「東悟君は水、バケツに入れて持ってきて!」
「ったく、人づかいが荒ぇな」
「はやく、はやくっ」
「……無視かよ」

苦笑しつつ、バケツを取りに校舎に戻る。
春始めに花火なんてしたことがなかった。というか、しようとすら思わなかった。
彼女はたまに突拍子もないことを言う。けれど、その突拍子もなさに、面白味を感じている自分がいることは確かだった。

「おまたせー」
「おっ!待ってたよ!」

水が入ってもさして重くないバケツを片手に持って戻ると、美花はにこりと笑って手招きをした。
彼女の足元には二人でするには十分過ぎる程の花火が用意されていた。

「どれからやろっかなぁ」
「え、もう始めるの?」 

辺りはまだ明るい。太陽がまだ沈んでいないというのに、もう始めるのだろうか。
意気込む美花に問いかけると、彼女は「どうして?」と首を傾げた。

「だって花火って、基本、夜でしょ。こんなに明るいのにもうやるの?」
「そうかもしれないけど。夜まで待つわけにいかないでしょ。君も私も、帰らなきゃいけないし」

天真爛漫でいつも何を考えているか分からないような彼女だが、一応常識人らしい。いや、立入禁止の屋上で花火をしようとしている時点で常識的ではないのだが、それでも夜の学校で花火を、などという考えには至らないようだ。

「なんか意外って顔してない?私が夜まで学校にとどまるようなことすると思う?」
「……」 
「あ!その顔は絶対思ってたね?心外なんですけどー!」

美花は、むっと眉を寄せて僕の腕を叩く。

「ちょっと、水こぼれるって!」

慌ててバケツを地面に置く。なんとかこぼれずにすんだことに安堵する。それから二人して顔を見合わせ、互いに吹き出した。

「さぁ、始めよっか!」

笑いがおさまったところで、美花がそう言って花火を持った。あらかじめ火をつけておいた蝋燭(ろうそく)に花火の先端をかざすと、一気に噴射してシュワシュワと花火特有の音を立てる。
着火したところの付近は赤いのに、飛び散る火花はオレンジだった。名の通り綺麗に花を咲かせ、しばらくすると、すうっと溶けるように消えてしまう。
こうして花火をするのは、何年ぶりだろうか。小学生くらいの頃は好んでやった気もするが、中学生……ましてや高校生になってからは花火をした記憶などない。

ふと美花を見ると、彼女は宝石を宿したように瞳をキラキラと輝かせて、まっすぐにその花を見ていた。ドクッと心臓が跳ねる。弾けるような花火の音が消えたような気がした。それくらい、彼女の姿しか見えていなかった。僕の意識の中には、彼女しかいなかった。

唐突に、その華奢な身体を抱きしめたい衝動にかられる。こんな経験は初めてだった。一歩足を踏み出しかけ、ふと我に返り(かぶり)を振る。

……だめだ。己の勝手な欲望は、抑えなければならない。

僕はこうして、楽しそうに笑う彼女を見ているだけで幸せなのだ。そんな僕の視線に気付いたのか、美花はこちらをパッと振り向いた。

「なにそんな真剣な顔してるの?笑って、東悟くん」
「あ……うん」

はは、とぎこちない笑みを作ると、彼女は満足げにうなずいて、すっかり火の消えた花火をバケツに入れる。じゅわっと音がした。美花はまた二本花火をとって、そのうちの一本を僕に差し出してくる。

「はい、次の花火。たくさんあるから、どんどんやろ」

うん、とうなずいて受け取る。
だんだんと日が落ち、辺りはゆっくりと暗色に包まれつつある。屋上には、美花の軽快な笑い声が響いていた。





赤、オレンジ、黄色と変化しながら火花を散らす花火にカメラを構える。
花火にピントを合わせる僕の耳が、美花の声を拾った。

「ちゃんと綺麗に撮ってよ、東悟くん」
「当然だろ。なにせ僕は、君のお墨付きを貰ったんだから」
「ふふ、まあね」

次々と色を変えて変化していくようすをじっと見つめたまま、美花は「ねえ、東悟くん」とやけに小さな声音で僕の名前を呼んだ。

「ん?」
「卒業までの間にさ……やっぱり、夜会おうよ、ここで」
「え、何か卑猥なこと考えてる?」
「バカ、そんなわけないでしょ。ていうか、そういうこと言う時点で東悟くんの方が変態じゃん」
「はは、ごめんごめん」

頬を膨らませる美花の手元で、しゅわしゅわと音を立てる花火。床に落ちていく火花は何度見ても綺麗で、カメラから目を離してしばらく肉眼で見つめる。そうして、先程の彼女の発言を思い出してすぐさま問いかけた。

「夜会うって、忍び込むってこと?」
「ん、そう。無理、かな」
「……無理、ってことは、ないと思う」

鍵の感じからしてこの屋上には長い間教員の意識は向いていないはずだから、たとえ忍び込んでもばれないだろう。現に、僕たちがこうして屋上にいる今ですら、気づかれていない。もう一週間が過ぎたというのに、誰もこの屋上に来ることはなかった。

「できるの!?すごく楽しみ」
「美花が上手くやってくれたらね。絶対にばれないでよ」
「任せて!」

美花が嬉しい時にゆらゆらと身体を揺らすのが癖だということを、この一週間で知った。今身体を揺らしているということは、嬉しがってくれているということだろう。
そのことが、なんだか無性に嬉しかった。