刹那の先で、星になる

呼吸が止まった。
包み込むような淡いタッチも、繊細な筆遣いも、その中から感じられるたしかな強さも。一目見ただけで、美花の絵だと分かった。右下に視線を落とすと、そこには『Mihana』とサインが記されていて、確信する。

「これ……」

震える声を洩らすと、先生は「ああ」と目を細めて荷物を横にあった机に置く。そして、腕を組んでゆっくりと口を開く。

「ぐっと人の目を惹きつける魅力があるだろう。初めてこの絵を見たとき、本当に圧倒されてね。本当は五年以上経ったものは捨てないといけないけど、これだけは十年間捨てられずにずっとここにとってあるんだ。彼女が使うキャンバスは水彩用の特別なキャンバスで、本人が絶対にスケッチブックじゃなくてキャンバスに描くこだわりがあってね」

先生は眼鏡の奥で、静かに目を細めた。大切にそのキャンバスを手に取り、「でも、そろそろ潮時かな」と小さく洩らす。

「どういうことですか」

どっどっ、と心臓がいやに速く鼓動している。"あった"という過去形や"潮時"という言葉に違和感を覚えて問い返す。先生の言っていることが上手く理解できず、こめかみを冷たい汗が伝うのが分かった。
先生は額に手を当て、記憶を掘り起こすように重々しく口を開く。

「──── 十年前に亡くなったんだよ。この学校の屋上から飛び降りて」

すうっと背筋が冷たくなり、周囲の雑音が消える。先生の目をまっすぐに見つめながら、先程の言葉を頭の中で反芻する。

十年前に、亡くなった?屋上から飛び降りて?……美花が?

「彼女が命を絶ったのは、卒業式の前日だった。本当に良い絵を描く子だったんだ。性格も、素直で明るくて、気さくで。それなのに、どうして……」

悔しげにうつむく先生の姿を呆然と見つめる。

「賞とるから楽しみにしててね、って何度も口にしながら真夏の暑い中没頭していた。美術部のなかで一番楽しそうに描いていた。彼女はよくここで絵を描いていてね。この窓から、空を眺めて毎日毎日描いていた。だから、この窓はずっと、傷ひとつなく綺麗に保とうと思ったんだ。彼女がもう一度ここに戻ってきたとき、いつでも絵が描けるように」

あまり使われていない割には、違和感を感じるほどものすごく綺麗だった窓ガラス。
けれど。
美花が十年前に亡くなったなんて、ありえない。
だって現に美花は僕の前に現れているし、それに、存在を証明するものだってあるじゃないか。
彼女を撮った一枚が、彼女の存在の証明になる。

それなのに、なんだ。この落ち着かない胸騒ぎは。なにがこんなに僕を不安にさせる?
ばくばくといやな鼓動を続ける心臓を静めて、肩にかけていたカメラを持ち、撮った写真を見返す。
空の写真。一緒にした鮮やかな花火の写真。そして。
傷ひとつない綺麗な窓と、降り注ぐ雨をバックに。

─────透明な彼女が、写っていた。



さらさらと風に踊る髪の毛。華奢な肩幅に、細くて白い手足。

「……美花」

フェンスに身体を預けるようにしていた美花は、薄茶の髪を揺らしてくるりと振り返った。僕の姿を認めると、ぱっと花が咲いたように笑う。

「東悟くん、待ってたよ!どうして昨日は来てくれなかったの?ああ……あと、これ。借りてて返しそびれたやつ。学ラン、ありがと」

近くに歩み寄って、学ランを差し出す小柄な彼女と向かい合う。昨日はあれから屋上には行かずに、家へ帰った。事実として理解できなかった。布団に潜り込んで、ただひたすら悶々とするしかなかった。そうしているうちに、きっと全て夢だったのではないかという気さえしてきたのだ。
けれど、決定的に現実だと僕に突きつけるものがあるのは、紛れもない真実だった。静かにその紺青の瞳を見つめる。

「……東悟くん?」

彼女の瞳が、不安げにゆらりと揺れる。

「……東悟くん、顔色悪いよ。熱でもあるんじゃ────」

僕の髪に伸びてきた彼女の細い腕を掴む。そして、流れるように手を滑らせて、そのまま彼女の手を握った。

「どう、したの……?東悟くん」
「冷たい」

目を見張る彼女の手は、雪のように冷たかった。

「見たよ。十年前の、空の絵」

その刹那、美花の碧眼がわずかに見開かれた。

「十年前……って何の話?私、まだ高校生だ────」
「雨の日に撮った写真」

被せるように言うと、美花ははっと目を見張る。そんな彼女をまっすぐに見つめて、重い口を開いた。

「あの写真に、美花は写っていなかった。それからその半袖も。何か理由があるんだろ……?」

問いかけると、美花はゆっくり目を伏せた。長い睫毛が目元に影をつくる。

「……そっか」
「どうして」

口からこぼれた声は、自分でも分かるほどに震えていた。目の前で顔を歪める美花をじっと見つめる。美花はぐっと唇を噛み締めてから、僕を見上げて、へへ、と口角を上げた。

「……端的に言うと、病気、だったんだよね。医師からもう治らないって告げられてさ。だから、もういいやって思って。卒業式の前日に、死んじゃった。ここから空を飛べたら、この空に溶けていけたらどんなにいいだろうって。最後に大好きな空、飛んでみたかったんだよね。夢叶ったっていうか、ほら、なんていうか……」

言いながら、彼女の目から透明な涙が一粒こぼれ落ちた。彼女の手を引いて、その華奢な身体を引き寄せる。手だけではなく、彼女の身体は氷のように冷え切っていた。

「夢叶ったなんて、嘘だよな、美花。本当は悔しくてたまらないんだろ。もう我慢するなよ。無理して笑わなくていいよ」
「……っう」

閉じ込めるように抱きしめた彼女の口から、呻きのような声が洩れた。

「そうだよ。私、死にたくなかった……。どうして病気は私を選んだの?なんで死なないといけなかったの?もっとたくさん絵を描きたかったし、ずっとずっと綺麗な世界を見ていたかった」

泣きたくなるほど切なる声で、彼女の口から溢れ出す心の叫び。それは、いつも明るい彼女が見せた、最初で最後の弱さだった。抱きしめる腕の力を強める。

「私はよくこの屋上と美術倉庫で絵を描いてて。未練、っていうのかな。それが私には一つだけあって。ほら、“ユーレイ"って、思い入れが強いところにとどまるって言うじゃん。だから私はきっと、この屋上と美術倉庫だけには行けたんだよ。私が半袖なのはきっと、病気のことを言われる前の一番元気だったときが、夏だったからだと思う。あの絵を描いたのも、そのときだから」
「……うん」
「あの日、ここの屋上から飛び降りようとしてた君を見た時、気付いたら身体が動いてた。自殺した私が言えることじゃないけど、それでも君に死んでほしくなかった。本当につらくて耐えられなくて、何度も悩んだ末に自分が出した結果なら仕方がないと思ってたけど、もしも一瞬の気の迷いとかだったら止めなきゃ、って」
「……うん」
「君と過ごした二週間は、本当に楽しかった。絵を描いてる時と同じくらい大切で、私にとっての宝物。ありがとう、東悟くん」
「……っ、うん」
「明日は卒業式だね。私は十年前の今日死んだから、もうここにとどまっていられるのは今日が最後なんだ。……嘘つきでごめんね。東悟くんはちゃんと生きなきゃだめだよ────ううん、生きて。私の代わりに」
「……っ」

嗚咽で返事すらできなかった。ふんわりと桜の香りが鼻腔をつく。

「東悟くんなら大丈夫。きっと素敵な写真家になれるよ。たくさん良い写真を撮って、数えきれないほどの写真を撮って、天国で会った時に見せてよ。それまで気長に待ってるから」
「……必ず、行くよ」
「あ、でも早く来すぎないでね?早く来すぎたら追い返すから。よぼよぼのおじいちゃんになるまで来ちゃだめだよ」
「うん、分かった」

うなずくと、美花は少しだけ身体を離して、「じゃあ、約束」と小指を差し出してくる。

「最後まで人生を全うしてから、会いにきて」
「うん」

細い指に、自分の指を絡める。彼女は「約束」ともう一度つぶやいて、綺麗な顔をわずかに歪めた。

「……っ、最後にひとつだけ、いい……?」

星屑のごとく小さな声の後、肩に置かれた細い手が、ぐいと僕を引き寄せた。突然のことに思わずよろけると、その刹那、唇にぬくもりが触れた。目を見張ると、彼女はいつものように口角を上げ、大きな目を細める。

「……ごめん。だいすき」

苦しげにつぶやいた美花は、もう一度僕に身体を預ける。小刻みに震える華奢な身体を抱きしめ返す。

「ありがとう、東悟くん。この二週間、東悟くんといられてとっても幸せだった。これから東悟くんはたくさんの人と恋愛をして、結婚して、また会った時に奥さんを紹介してね」
「……ばか、僕の好きな人は生涯通して美花だけだよ」

彼女の嗚咽さえ閉じ込めるように、強く強く抱きしめる。そのとき、辺りが目を開けていられないほどの眩い光に包まれた。無意識に、目を細める彼女にカメラを構える。

「東悟くん。どうせ撮っても写らないよ」
「……任せてよ。僕は君のお墨付きをもらった、カメラマンなんだから」

この美しい瞬間を、彼女が描いた美しい世界を、彼女が生きた証を、遺したい。
たとえ彼女が透明でも。
それでも僕は、この永遠のような刹那を写真に収めたい。

そうだ。僕はこの一瞬を撮ることに、二度とない刹那を逃さないよう写真という形で遺すことに魅力を感じて、写真を撮ることが好きになったのだ。
僕の生きる意味は、もうすでに存在していたのだ。
この世界は決してつまらないものではなかった。クラスメイトと談笑することも、空を見上げることも、花火をすることも、死んでしまえば何一つできない。生きているからこそできることばかりだ。

僕の生きる意味。
それは、生きたくても生きられなかった、愛する人のために生きること。
そして、その人が深く愛した空を撮り続けることだ。

「東悟くん、生きる意味、見つけられた?」
「ああ。僕の生きる意味は────だよ」

言葉を紡いだ瞬間、美花の顔が歪んで、今までで一番切なげに、それでいて柔らかく綻んだ。

「助かった命、絶対に無駄にしないでね」
「ああ。約束する」

黄金色に輝く世界に、美花がうっすらとぼやけていく。
すっと一筋の涙が彼女の頬を伝って、地面に落ちる。

「東悟くん、だいすき」

ファインダー越しに、泣き笑いを浮かべる彼女と目が合う。心臓の鼓動が耳の奥深くで鳴り響くのを聞きながら、僕はシャッターを切った。
その瞬間、美花の身体の輪郭が景色に溶けるように消えていく。

「っ、行くなよ、美花……」
「ごめんね、東悟くん」

美花の身体はあっというまに半透明になり、足元からまるで星屑の如く小さな断片になって、ふんわりと空に舞い上がっていく。黄昏の空に溶けていく彼女の姿は、息を呑むほど幻想的だった。

「────愛してる」

ふと唇からこぼれ落ちた愛の言葉。美花は何も言わず、ただ眉を下げて微笑むだけだった。身体の半分以上が溶けて、空に戻っていく。やがて、美花の顎のあたりも空に溶け始める。

「生きる意味を見つけてくれて、ありがとう。僕の二週間をもらってくれて、ありがとう」

視界が滲んで美花の顔がぼやけて見えなくなるのも構わず叫ぶ。強引に目元を拭うと、あとからあとから余計に涙が溢れてくる。

「東悟くん。もう、お別れだよ」
「……っ、やだよ、僕。やっぱり、美花と生きていたいよ……」

すがるような視線を向けても、美花は首を横に振るだけだった。紺青の瞳は揺らぐことなくまっすぐに僕に向けられている。

「私も。でも、それは無理なんだよ。だから、後悔しないように、限りある今を生きて」

唇を噛み締めながら、最後の言葉が紡がれるのを待つ。
美花の全てが消えてしまうその刹那、また注がれた柔らかな笑み。
そして、ふんわりと桜の香りが鼻腔をついた。

「だいすきだよ、東悟くん。それと────莉桜(りお)ちゃんに、よろしくね」

美花は、星屑のように淡い光を放ちながら、空に溶けて消えていった。それと同時に鮮烈な光を放っていた太陽が沈み、夜の闇がおとずれる。
光が消えた空をゆっくりと見上げると、すでに姿を現した一番星が輝いていた。己の存在を主張するように、強い光を放っている。

いつか必ず夢を叶えて会いにいく。
だからどうか、ずっと笑っていてほしい。僕が迎えにいく、その日まで。

確かな生きる意味を心に刻んで、これからも僕はこの彩りある世界を生きていく。
僕に与えられた全ての刹那のその先で、星になった彼女と再び巡り会えると信じて。


卒業式は、何事もなく終了した。最後のクラスルームは、満開の桜の前で写真を撮り、涙する先生にお別れの言葉を述べて花束を渡し、お開きとなった。
卒業したくてもできなかった美花。こうして卒業証書を持てていることに感謝しないといけない。
僕が今も空を見上げていることができるのは、美花があのとき僕を生に導いてくれたからだ。
晴天の空を見上げながら、はらはらと桜が散る中を歩いて帰路につく。

「これ……」

家に帰ると、いつも必ずおかえりの挨拶をする姉さんが縁側で何かを持って肩を震わせていた。おだやかな春風が髪を揺らし、頬を撫でて通り過ぎていく。ゆっくりと近寄って、姉さんの手にあるものを覗き込む。そして、目を見張った。

「これ────」
「……美花の絵」

僕が言うよりさきに姉さんがつぶやき、「え」と声が洩れる。
それは、満天の星空の絵だった。淡いタッチも、その絵が放つ儚さも、紛れもなく美花のもの。けれど、そのキャンバスに描かれた絵は、美花がいつも描いてきた普通の絵と少し違う。
その絵は、左右で星空が違っていた。左の空はうっすらと下の方が青みがかり、上の方になるにつれて濃藍の空が広がっていくグラデーション。そして、数えきれないほどの星が散りばめられている。対して右の絵は漆黒の空に光る星と、煌々と光を放つ朧月だけが描かれていた。
そして、真ん中の人物がその星空の境界線に重なるようにして、三人のシルエットが肩を並べてその星空を見上げていた。

「どうして。姉さん、美花のこと知ってるの?」
「知ってるも何も……」

姉さんは悔しげにぐっと唇を噛み締めて目を伏せる。顔を歪めてうつむいた姉さんの目から、涙が落ちた。震える唇から言葉が紡がれる。


「────美花は、私が殺したの」






莉桜(りお)ちゃん。見て、空が綺麗だよ!」
「美花はほんっと空が好きだね。ずっと絵に描いてるし」
「だって空って、全部受け止めてくれそうじゃん。喜びも哀しみも、怒りも惑いも、不安も期待も嫉妬も全部」

美花の髪を風がさらっていく。踊るように絹髪が揺れ、その美しさに思わず目を細めた。

「莉桜ちゃん。今度天体観測しようよ。この屋上で」
「えー、学校に残るの?」
「いいじゃん。思い出づくりにさ」

うーんと考える素振りを見せつつ、私の答えはもうとっくに決まっている。

「しょうがないなあ」
「やったー!莉桜ちゃんだいすき!」
「知ってる」

他愛のない会話をして過ごす放課後の時間が、私はいちばん好きだった。屋上で広げられていく彼女の世界を眺めるおだやかな時間も、私にとってかけがえのない時間だった。

「空はいいなあ、どこまでも続いてて。きっと、終わりなんてないんだろうな」

手を動かしながら、空を見て美花がつぶやく。彼女は毎日、空を見るたびこの言葉を口にする。

「また言ってる」
「だって本当に思うんだもの。人生には終わりが来るでしょ?でも、空にはそれがないんだよ。いつでもどこでも存在していて、誰のものにもなるし、誰のものにもならない」
「なにそれ。矛盾してるじゃん」

迷いなく描かれていく空。美花の瞳を通した空は、こんなにも淡く、儚く、美しく映っているのだ。

「────あれ、美花。また痩せた?」

キャンバスに伸ばされた腕がまた細くなっている気がして声を上げると、美花はゆっくり目を細めた。

「大丈夫?美花は十分小柄なんだから、無理なダイエットはしちゃだめって言ってるでしょう」
「してないよ。大丈夫」

美花は夏場から結構痩せた。それは毎日一緒にいる私でも気付くぐらいに明らかなものだった。もともと華奢な体型なので、痩せると余計に骨が浮くような、変な痩せ方をしている。

「細すぎて心配になる痩せ方だよ。もっとしっかり食べてね美花」
「うん。頑張る」

ふんわりと笑う美花が抱えるものに、どうして私は気付いてあげられなかったんだろう。
なぜ、確かに感じた違和感を流してしまったんだろう。


あとになって後悔しても、遅すぎるというのに。






「天体観測楽しみすぎる!」
「そうだね。私も楽しみだよ」

はしゃぐ美花の隣で、ふ、と小さく息を吐く。

「もう星がいっぱい出てるね。見て、あの星赤いよ!こっちは白っぽい」
「美花、目良すぎ」
「絵描きの視力は馬鹿にはできないからね」
「知ってる」

えへん、と胸を張る美花は、地面に寝転んだ。澄んだ瞳が夜を映す。私も同じようにして瞳に夜を映した。

「卒業まであとちょっとだね」
「うん」

しみじみとつぶやいた美花はうなずく。
それからふと私の方を向いて、私の耳までの髪をそっと撫でた。

「え、なに?」
「莉桜ちゃんの髪はすごく綺麗だね。私、莉桜ちゃんの髪、好きだよ」

ふふ、と目を細くする美花は、女の私でも惚れ惚れするほどに美しくて。
照れていることを隠すように寝返りを打つと、「ごめん」と小さな謝罪が耳に届いた。

「どうしたの」
「勝手に触ってごめんね。でも、一回は触ってみたかったんだ。莉桜ちゃんの髪の毛」
「別に、いいけど」
「予想通り、さらさらだった。ちゃんとお手入れしてるんだね。いつも桜のいい香りがするもん」

何と返していいのか分からなくて沈黙すると、美花は小さく笑う。

「大切にしてね」

それから二人の間には再び静寂が降ってきた。
何も発することなく夜空を見ていると、そのままぽつりとつぶやきが耳に届く。

「ねえ莉桜ちゃん。人って、死んだら星になるのかな」
「え、急にどうしたの。やめてよ、そんな話。まだ遠い未来の話じゃない」
「私たちのことじゃなくて。人間っていう生物自体がの話。どんな死に方をした人も同じだと思う?」

星あかりが美花の横顔を静かに照らす。淡い光に照らされて、美花の瞳が輝きを深くする。

「そうだな……」

きっと、死というものは私が考えるより美しいものじゃない。だからこそ、人はその出来事を美しくするために"星になる"という言葉を使って必死に美化しようとしてきたのかもしれない。

「……私はね、星になりたいの」

口を開こうとした瞬間、聞こえてきた言葉に言葉を呑む。横を向くと、美花が眉を下げて笑っていた。

「単純に、星って綺麗じゃない?こうやってだいすきな人と見上げたとき、言葉じゃ表せないくらいの幸せを感じてもらえる星って羨ましい。空の一部になって輝けるなんて、素敵なことだと思わない?」

瞬きすると、美花は夜空に向かって手を伸ばした。

「だいすきな人がこの世からいなくなっても、こうやって手を伸ばせば届くような気がする。夜になれば、また会える。たぶん、昔に生きた人も、今を生きる人も、未来に生きる人も、考えることはおんなじだよ。夜は感情を包み隠さず全部溢れさせてくれる。誰かを想って泣く夜もある。そんな夜が、私は好きなの」
「……だったらなれると思うよ。その人が強く願えばなんだって叶うんだから。人生を全うした先にあるのは美しい世界だって、私も信じる」

美花の言葉を聞いているうちに口をついて出た言葉は、小さく響いて夜空に溶けた。美花はゆっくり目を伏せて、それから少しだけ口角をあげる。

「今日の星空、帰ったら絵にする。卒業式の日、莉桜ちゃんに届けにいくから」
「うん。楽しみにしてるね」
「──── 何があっても、絶対に」

ひとりごちる美花をそっと抱き寄せる。

「え……!?莉桜ちゃんからのハグとか貴重!莉桜ちゃんだいすき!」
「知ってる」

────知っている。知りすぎて困るほどに知っている。

だからこのときの私は思いもしなかった。
抱きしめたこのぬくもりが、手の届かないところに消えてしまうなんて。




「美花ー?」

ドアを開けると、晴天が広がっていた。のどかさを感じさせる、あたたかな空の色。そして、フェンスに寄りかかるようにして、美花が一人立っていた。

「こんなところにいた。探したんだよ……美花?」

そばまで近寄り、その顔がひどく切なげに歪んでいることに気付く。

「どうしたの、美花」

美花は困ったように笑って、私の肩に手を乗せた。細い指が私をそっと引き寄せる。目を開く私の耳に一つ、聞こえてきた言葉。

「……ずるいよ」

何が、と問う前に、ぎゅっと身体を抱きしめられる。どっどっと一際大きく鳴り響く鼓動は、いったいどちらのものなのか。なぜだか分からないけれど、嫌な予感が頭をよぎる。

「なんで来ちゃうの」
「え」
「どうして……?神様、ひどいよ」

真っ青な空に、震える吐露が消えてゆく。浅い呼吸を繰り返す美花は、そっと身体を離して、少しだけ背の高い私を見上げた。美花の瞳に涙が溜まっていて瞠目すると、美花は無理やり口角を上げていつものように目を細めた。細まった目から透明な涙が次々とこぼれ落ち、アスファルトにシミをつくる。
私は何も言えないまま、ただその顔を見ていることしか出来なかった。そうして、美花はくるっと回り、フェンスに身を乗り出す。ふわりと広がるスカートが揺れ、痩せ細った足がちらりと覗く。
振り向くことなく告げられる、幾度となく聞いた言葉。

「────莉桜ちゃん、だいすき」

次の刹那、フェンスを越えた先の空に消えていく美花の身体。一瞬がスローモーションのように感じられた。フェンスに身を乗り出して、夢中で手を伸ばす。

「……っ!」

かろうじて掴んだ手は、信じられないほど痩せこけて細く、華奢で。この手が、美しい世界を、彩りある世界を(えが)き出してきたのだと思うと、涙が溢れて止まらない。

「何やってるの、美花!早く、上がってきて!」
「……離して、莉桜ちゃん」
「嫌だ!離すわけないでしょう、絶対に!」

握る手に力を込める。この軽さなら、きっと私でも持ち上げられる。
身体を引き上げようとした、その時だった。

「……お願い、莉桜ちゃん」

いつも明るく天真爛漫な美花からは聞いたことがない、弱々しい声が耳に届いた。目を見張ると、紺青の瞳がまっすぐに私をとらえていた。

「もう、しんどいの。……苦しいの。私はどうせもうすぐ死ぬ。だから、ごめんね。莉桜ちゃん」
「もうすぐ死ぬ?何、言ってるの。まだまだ私たちはこれからでしょう?未来はまだ続いているんだよ……!」
「違うの、莉桜ちゃん。私は病気でもうすぐ死ぬの。もう、辛い。生きてるのが辛い。こんな苦しいだけの世界に、生きる意味なんてない。だから」

風の音も、校内から聞こえてくる部活動の声も、全てが消えた。ただ、美花の声だけが、私に届く。

「────私はもう、星になりたい」

その瞬間、雷に打たれたような衝撃が身体に走る。どっどっと速まる鼓動は、残っている冷静さの欠片さえ吹き飛ばしていく。じわりと手に汗が滲んで、美花の手がゆっくりと滑っていく。

「どうして、美花!お願いだから、生きて。私と一緒に生きようよ。空の絵をもっと見せてよ。私、美花の描く世界が大好きだから!」
「……」
「生きる意味がないなら、私が一緒に探すから。病気なんて吹っ飛ばしちゃうくらい、楽しいこといっぱいしようよ!生きる意味、見つけようよ、私と。だからお願い、美花……!」

叫んだ刹那、紡がれた柔らかな響き。


「───ごめん。だいすき」



すっと離れた手は宙を切って、力なく垂れる。

「……星になんて、なれないよ。美花」

最後に残ったのは、彼女が好きだと言っていた、満開に咲く桜の香りだけだった。







「じゃあ、美花は姉さんの……?」

問いかけると、弱々しい肯定が返ってきた。肩が小刻みに震えている。

「私は、美花を助けてあげられなかった……。だから、私が美花を殺したの」
「っ、違うだろ」

それは違うよ、姉さん。美花は、そんなふうに思っていない。
だって、美花はいつだって楽しそうに笑っていた。

───美花の"だいすきな人"は、姉さんだった。

唐突に理解した瞬間、涙が溢れて止まらなくなる。


『生きる意味、見つけようよ。私と』


これは、姉さんの言葉だった。
姉さんの想いは、ちゃんと美花に届いていた。

「会いたいよ、美花……」

ぽたり、と姉さんの涙がキャンバスに落ちる。

「だめだね、せっかくの絵が汚れちゃう」

姉さんがそう言ってキャンバスを裏返した。そして、そこに彫られていた言葉に、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚になる。

【ごめん。だいすき】

丁寧に彫られたその言葉は、美花が何度も口にしていた言葉だった。
"ごめん"に秘められた意味は一つじゃない。
謝罪の言葉を述べてもなお伝えたかった"だいすき"という言葉。

「……っ、知ってる」
「僕は愛してる」

キャンバスに向かってつぶやき、溢れる涙を拭う。姉さんは口許を手で押さえて、何度も美花の名前を呼んでいた。

「私こそ、ごめんね美花。助けてあげられなくて……」

空に視線を向ける姉さんの頭に、ひらひらと一枚の桜の花弁が、風に吹かれて舞い落ちてきた。

「桜……?」
「近所に、桜はないはずだけど」
「きっと、美花が運んできてくれたのね」

花弁を手のひらに乗せて、もう一度姉さんは空を見上げた。

「私、もう前に進むから。見ててね、美花」

姉さんの黒髪が踊るように風に揺れる。そろそろ髪の短い姉さんを見ることができるのかもしれない。
姉さんだけじゃない。僕も前に進むんだ。

深呼吸をして、清々しい表情をする姉さんに向き直る。

「姉さん。実は、僕」

ぐ、と手に力を込めて言葉を紡ごうとする僕を、姉さんはあたたかな眼差しで見つめてくる。
自分のやりたいこと、なりたいものを、はっきりと言えるような人になりたい。
才能の有無に関係なく、努力することの大切さを教えてくれた彼女は、今も空で大好きな絵を好きなだけ描いているに違いないから。
今の僕から卒業して、一歩前に踏み出すために。

「写真が好きなんだ。将来は写真を撮る職業に就きたいと思ってる」

一息で告げると、姉さんはゆっくり目を細めて「知ってる」と呟いた。
……ああ。きっと初めから姉さんには気付かれていたんだ。
やはり僕は姉さんに隠し事はできないらしい。

「美花。僕、きっと写真家になるから。見守っててくれよ」

姉さんと同じように空を見上げると、どこからか香る桜の香り。
柔らかな春風がそっと頬を撫でるように優しく吹いた。

『ありがとう。だいすき』

その刹那、少しハスキーな声が、柔らかい声音で耳朶に響いた────気がした。

***


「先生って、星空は撮らないんですか。先生のお写真拝見しましたが、一枚も星空の写真がないのはどうしてなんでしょうか」


訊ねると、先生は目を線にして柔らかな笑みを浮かべた。

ゆっくりとその唇から言葉が紡がれる。


「……写ってくれないからね」

「何を言ってるんですか。先生ほどの腕がある写真家なら、星空を撮ることなんて容易いことでしょう」

「肉眼で見るからこそいいものもあるんだよ」


それきり口をつぐむ彼は、静かに窓の外に視線を遣った。

そろそろ太陽が沈む時間なのだろう。だんだんと眩い光が街を染め上げ始めている。


「先生。今日は僕これで失礼します。さようなら」


時計を見ながら挨拶をすると、先生は何も言わずに、窓を見たまま片手を上げた。

それが先生なりのさようならの合図だということを僕は知っている。


「生きる意味、か……」


僕は今写真を撮ることが趣味だし、生きがいと言っても過言ではない。

若い頃は天才写真家と言われた先生を顧問とし、写真部としての活動ができていることは奇跡に等しいと思う。

いつか僕も先生のような写真家になりたい。世界の美しさを収める先生のような写真家に。






写真部顧問─────水樹東悟(みずきとうご)は、生涯の最高傑作にそっと手を寄せた。


「美花。君が僕の生きる意味だよ」


そっと額縁を指でなぞる。


その瞬間、窓から鮮烈な赤が飛び込んできた。


倉庫内が眩い光に包まれ、目を瞑りたい衝動に駆られる。


けれど、しっかりと目を開けて黄昏の写真に視線を向けた。


ふ、と笑みが溢れる。



『東悟くん。愛してる』



そんな言葉と共に、黄昏の世界の中に、彼女の姿が浮かんだような気がした。





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