卒業式は、何事もなく終了した。最後のクラスルームは、満開の桜の前で写真を撮り、涙する先生にお別れの言葉を述べて花束を渡し、お開きとなった。
卒業したくてもできなかった美花。こうして卒業証書を持てていることに感謝しないといけない。
僕が今も空を見上げていることができるのは、美花があのとき僕を生に導いてくれたからだ。
晴天の空を見上げながら、はらはらと桜が散る中を歩いて帰路につく。

「これ……」

家に帰ると、いつも必ずおかえりの挨拶をする姉さんが縁側で何かを持って肩を震わせていた。おだやかな春風が髪を揺らし、頬を撫でて通り過ぎていく。ゆっくりと近寄って、姉さんの手にあるものを覗き込む。そして、目を見張った。

「これ────」
「……美花の絵」

僕が言うよりさきに姉さんがつぶやき、「え」と声が洩れる。
それは、満天の星空の絵だった。淡いタッチも、その絵が放つ儚さも、紛れもなく美花のもの。けれど、そのキャンバスに描かれた絵は、美花がいつも描いてきた普通の絵と少し違う。
その絵は、左右で星空が違っていた。左の空はうっすらと下の方が青みがかり、上の方になるにつれて濃藍の空が広がっていくグラデーション。そして、数えきれないほどの星が散りばめられている。対して右の絵は漆黒の空に光る星と、煌々と光を放つ朧月だけが描かれていた。
そして、真ん中の人物がその星空の境界線に重なるようにして、三人のシルエットが肩を並べてその星空を見上げていた。

「どうして。姉さん、美花のこと知ってるの?」
「知ってるも何も……」

姉さんは悔しげにぐっと唇を噛み締めて目を伏せる。顔を歪めてうつむいた姉さんの目から、涙が落ちた。震える唇から言葉が紡がれる。


「────美花は、私が殺したの」






莉桜(りお)ちゃん。見て、空が綺麗だよ!」
「美花はほんっと空が好きだね。ずっと絵に描いてるし」
「だって空って、全部受け止めてくれそうじゃん。喜びも哀しみも、怒りも惑いも、不安も期待も嫉妬も全部」

美花の髪を風がさらっていく。踊るように絹髪が揺れ、その美しさに思わず目を細めた。

「莉桜ちゃん。今度天体観測しようよ。この屋上で」
「えー、学校に残るの?」
「いいじゃん。思い出づくりにさ」

うーんと考える素振りを見せつつ、私の答えはもうとっくに決まっている。

「しょうがないなあ」
「やったー!莉桜ちゃんだいすき!」
「知ってる」

他愛のない会話をして過ごす放課後の時間が、私はいちばん好きだった。屋上で広げられていく彼女の世界を眺めるおだやかな時間も、私にとってかけがえのない時間だった。

「空はいいなあ、どこまでも続いてて。きっと、終わりなんてないんだろうな」

手を動かしながら、空を見て美花がつぶやく。彼女は毎日、空を見るたびこの言葉を口にする。

「また言ってる」
「だって本当に思うんだもの。人生には終わりが来るでしょ?でも、空にはそれがないんだよ。いつでもどこでも存在していて、誰のものにもなるし、誰のものにもならない」
「なにそれ。矛盾してるじゃん」

迷いなく描かれていく空。美花の瞳を通した空は、こんなにも淡く、儚く、美しく映っているのだ。

「────あれ、美花。また痩せた?」

キャンバスに伸ばされた腕がまた細くなっている気がして声を上げると、美花はゆっくり目を細めた。

「大丈夫?美花は十分小柄なんだから、無理なダイエットはしちゃだめって言ってるでしょう」
「してないよ。大丈夫」

美花は夏場から結構痩せた。それは毎日一緒にいる私でも気付くぐらいに明らかなものだった。もともと華奢な体型なので、痩せると余計に骨が浮くような、変な痩せ方をしている。

「細すぎて心配になる痩せ方だよ。もっとしっかり食べてね美花」
「うん。頑張る」

ふんわりと笑う美花が抱えるものに、どうして私は気付いてあげられなかったんだろう。
なぜ、確かに感じた違和感を流してしまったんだろう。


あとになって後悔しても、遅すぎるというのに。






「天体観測楽しみすぎる!」
「そうだね。私も楽しみだよ」

はしゃぐ美花の隣で、ふ、と小さく息を吐く。

「もう星がいっぱい出てるね。見て、あの星赤いよ!こっちは白っぽい」
「美花、目良すぎ」
「絵描きの視力は馬鹿にはできないからね」
「知ってる」

えへん、と胸を張る美花は、地面に寝転んだ。澄んだ瞳が夜を映す。私も同じようにして瞳に夜を映した。

「卒業まであとちょっとだね」
「うん」

しみじみとつぶやいた美花はうなずく。
それからふと私の方を向いて、私の耳までの髪をそっと撫でた。

「え、なに?」
「莉桜ちゃんの髪はすごく綺麗だね。私、莉桜ちゃんの髪、好きだよ」

ふふ、と目を細くする美花は、女の私でも惚れ惚れするほどに美しくて。
照れていることを隠すように寝返りを打つと、「ごめん」と小さな謝罪が耳に届いた。

「どうしたの」
「勝手に触ってごめんね。でも、一回は触ってみたかったんだ。莉桜ちゃんの髪の毛」
「別に、いいけど」
「予想通り、さらさらだった。ちゃんとお手入れしてるんだね。いつも桜のいい香りがするもん」

何と返していいのか分からなくて沈黙すると、美花は小さく笑う。

「大切にしてね」

それから二人の間には再び静寂が降ってきた。
何も発することなく夜空を見ていると、そのままぽつりとつぶやきが耳に届く。

「ねえ莉桜ちゃん。人って、死んだら星になるのかな」
「え、急にどうしたの。やめてよ、そんな話。まだ遠い未来の話じゃない」
「私たちのことじゃなくて。人間っていう生物自体がの話。どんな死に方をした人も同じだと思う?」

星あかりが美花の横顔を静かに照らす。淡い光に照らされて、美花の瞳が輝きを深くする。

「そうだな……」

きっと、死というものは私が考えるより美しいものじゃない。だからこそ、人はその出来事を美しくするために"星になる"という言葉を使って必死に美化しようとしてきたのかもしれない。

「……私はね、星になりたいの」

口を開こうとした瞬間、聞こえてきた言葉に言葉を呑む。横を向くと、美花が眉を下げて笑っていた。

「単純に、星って綺麗じゃない?こうやってだいすきな人と見上げたとき、言葉じゃ表せないくらいの幸せを感じてもらえる星って羨ましい。空の一部になって輝けるなんて、素敵なことだと思わない?」

瞬きすると、美花は夜空に向かって手を伸ばした。

「だいすきな人がこの世からいなくなっても、こうやって手を伸ばせば届くような気がする。夜になれば、また会える。たぶん、昔に生きた人も、今を生きる人も、未来に生きる人も、考えることはおんなじだよ。夜は感情を包み隠さず全部溢れさせてくれる。誰かを想って泣く夜もある。そんな夜が、私は好きなの」
「……だったらなれると思うよ。その人が強く願えばなんだって叶うんだから。人生を全うした先にあるのは美しい世界だって、私も信じる」

美花の言葉を聞いているうちに口をついて出た言葉は、小さく響いて夜空に溶けた。美花はゆっくり目を伏せて、それから少しだけ口角をあげる。

「今日の星空、帰ったら絵にする。卒業式の日、莉桜ちゃんに届けにいくから」
「うん。楽しみにしてるね」
「──── 何があっても、絶対に」

ひとりごちる美花をそっと抱き寄せる。

「え……!?莉桜ちゃんからのハグとか貴重!莉桜ちゃんだいすき!」
「知ってる」

────知っている。知りすぎて困るほどに知っている。

だからこのときの私は思いもしなかった。
抱きしめたこのぬくもりが、手の届かないところに消えてしまうなんて。




「美花ー?」

ドアを開けると、晴天が広がっていた。のどかさを感じさせる、あたたかな空の色。そして、フェンスに寄りかかるようにして、美花が一人立っていた。

「こんなところにいた。探したんだよ……美花?」

そばまで近寄り、その顔がひどく切なげに歪んでいることに気付く。

「どうしたの、美花」

美花は困ったように笑って、私の肩に手を乗せた。細い指が私をそっと引き寄せる。目を開く私の耳に一つ、聞こえてきた言葉。

「……ずるいよ」

何が、と問う前に、ぎゅっと身体を抱きしめられる。どっどっと一際大きく鳴り響く鼓動は、いったいどちらのものなのか。なぜだか分からないけれど、嫌な予感が頭をよぎる。

「なんで来ちゃうの」
「え」
「どうして……?神様、ひどいよ」

真っ青な空に、震える吐露が消えてゆく。浅い呼吸を繰り返す美花は、そっと身体を離して、少しだけ背の高い私を見上げた。美花の瞳に涙が溜まっていて瞠目すると、美花は無理やり口角を上げていつものように目を細めた。細まった目から透明な涙が次々とこぼれ落ち、アスファルトにシミをつくる。
私は何も言えないまま、ただその顔を見ていることしか出来なかった。そうして、美花はくるっと回り、フェンスに身を乗り出す。ふわりと広がるスカートが揺れ、痩せ細った足がちらりと覗く。
振り向くことなく告げられる、幾度となく聞いた言葉。

「────莉桜ちゃん、だいすき」

次の刹那、フェンスを越えた先の空に消えていく美花の身体。一瞬がスローモーションのように感じられた。フェンスに身を乗り出して、夢中で手を伸ばす。

「……っ!」

かろうじて掴んだ手は、信じられないほど痩せこけて細く、華奢で。この手が、美しい世界を、彩りある世界を(えが)き出してきたのだと思うと、涙が溢れて止まらない。

「何やってるの、美花!早く、上がってきて!」
「……離して、莉桜ちゃん」
「嫌だ!離すわけないでしょう、絶対に!」

握る手に力を込める。この軽さなら、きっと私でも持ち上げられる。
身体を引き上げようとした、その時だった。

「……お願い、莉桜ちゃん」

いつも明るく天真爛漫な美花からは聞いたことがない、弱々しい声が耳に届いた。目を見張ると、紺青の瞳がまっすぐに私をとらえていた。

「もう、しんどいの。……苦しいの。私はどうせもうすぐ死ぬ。だから、ごめんね。莉桜ちゃん」
「もうすぐ死ぬ?何、言ってるの。まだまだ私たちはこれからでしょう?未来はまだ続いているんだよ……!」
「違うの、莉桜ちゃん。私は病気でもうすぐ死ぬの。もう、辛い。生きてるのが辛い。こんな苦しいだけの世界に、生きる意味なんてない。だから」

風の音も、校内から聞こえてくる部活動の声も、全てが消えた。ただ、美花の声だけが、私に届く。

「────私はもう、星になりたい」

その瞬間、雷に打たれたような衝撃が身体に走る。どっどっと速まる鼓動は、残っている冷静さの欠片さえ吹き飛ばしていく。じわりと手に汗が滲んで、美花の手がゆっくりと滑っていく。

「どうして、美花!お願いだから、生きて。私と一緒に生きようよ。空の絵をもっと見せてよ。私、美花の描く世界が大好きだから!」
「……」
「生きる意味がないなら、私が一緒に探すから。病気なんて吹っ飛ばしちゃうくらい、楽しいこといっぱいしようよ!生きる意味、見つけようよ、私と。だからお願い、美花……!」

叫んだ刹那、紡がれた柔らかな響き。


「───ごめん。だいすき」



すっと離れた手は宙を切って、力なく垂れる。

「……星になんて、なれないよ。美花」

最後に残ったのは、彼女が好きだと言っていた、満開に咲く桜の香りだけだった。







「じゃあ、美花は姉さんの……?」

問いかけると、弱々しい肯定が返ってきた。肩が小刻みに震えている。

「私は、美花を助けてあげられなかった……。だから、私が美花を殺したの」
「っ、違うだろ」

それは違うよ、姉さん。美花は、そんなふうに思っていない。
だって、美花はいつだって楽しそうに笑っていた。

───美花の"だいすきな人"は、姉さんだった。

唐突に理解した瞬間、涙が溢れて止まらなくなる。


『生きる意味、見つけようよ。私と』


これは、姉さんの言葉だった。
姉さんの想いは、ちゃんと美花に届いていた。

「会いたいよ、美花……」

ぽたり、と姉さんの涙がキャンバスに落ちる。

「だめだね、せっかくの絵が汚れちゃう」

姉さんがそう言ってキャンバスを裏返した。そして、そこに彫られていた言葉に、心臓をぎゅっと掴まれたような感覚になる。

【ごめん。だいすき】

丁寧に彫られたその言葉は、美花が何度も口にしていた言葉だった。
"ごめん"に秘められた意味は一つじゃない。
謝罪の言葉を述べてもなお伝えたかった"だいすき"という言葉。

「……っ、知ってる」
「僕は愛してる」

キャンバスに向かってつぶやき、溢れる涙を拭う。姉さんは口許を手で押さえて、何度も美花の名前を呼んでいた。

「私こそ、ごめんね美花。助けてあげられなくて……」

空に視線を向ける姉さんの頭に、ひらひらと一枚の桜の花弁が、風に吹かれて舞い落ちてきた。

「桜……?」
「近所に、桜はないはずだけど」
「きっと、美花が運んできてくれたのね」

花弁を手のひらに乗せて、もう一度姉さんは空を見上げた。

「私、もう前に進むから。見ててね、美花」

姉さんの黒髪が踊るように風に揺れる。そろそろ髪の短い姉さんを見ることができるのかもしれない。
姉さんだけじゃない。僕も前に進むんだ。

深呼吸をして、清々しい表情をする姉さんに向き直る。

「姉さん。実は、僕」

ぐ、と手に力を込めて言葉を紡ごうとする僕を、姉さんはあたたかな眼差しで見つめてくる。
自分のやりたいこと、なりたいものを、はっきりと言えるような人になりたい。
才能の有無に関係なく、努力することの大切さを教えてくれた彼女は、今も空で大好きな絵を好きなだけ描いているに違いないから。
今の僕から卒業して、一歩前に踏み出すために。

「写真が好きなんだ。将来は写真を撮る職業に就きたいと思ってる」

一息で告げると、姉さんはゆっくり目を細めて「知ってる」と呟いた。
……ああ。きっと初めから姉さんには気付かれていたんだ。
やはり僕は姉さんに隠し事はできないらしい。

「美花。僕、きっと写真家になるから。見守っててくれよ」

姉さんと同じように空を見上げると、どこからか香る桜の香り。
柔らかな春風がそっと頬を撫でるように優しく吹いた。

『ありがとう。だいすき』

その刹那、少しハスキーな声が、柔らかい声音で耳朶に響いた────気がした。