さらさらと風に踊る髪の毛。華奢な肩幅に、細くて白い手足。

「……美花」

フェンスに身体を預けるようにしていた美花は、薄茶の髪を揺らしてくるりと振り返った。僕の姿を認めると、ぱっと花が咲いたように笑う。

「東悟くん、待ってたよ!どうして昨日は来てくれなかったの?ああ……あと、これ。借りてて返しそびれたやつ。学ラン、ありがと」

近くに歩み寄って、学ランを差し出す小柄な彼女と向かい合う。昨日はあれから屋上には行かずに、家へ帰った。事実として理解できなかった。布団に潜り込んで、ただひたすら悶々とするしかなかった。そうしているうちに、きっと全て夢だったのではないかという気さえしてきたのだ。
けれど、決定的に現実だと僕に突きつけるものがあるのは、紛れもない真実だった。静かにその紺青の瞳を見つめる。

「……東悟くん?」

彼女の瞳が、不安げにゆらりと揺れる。

「……東悟くん、顔色悪いよ。熱でもあるんじゃ────」

僕の髪に伸びてきた彼女の細い腕を掴む。そして、流れるように手を滑らせて、そのまま彼女の手を握った。

「どう、したの……?東悟くん」
「冷たい」

目を見張る彼女の手は、雪のように冷たかった。

「見たよ。十年前の、空の絵」

その刹那、美花の碧眼がわずかに見開かれた。

「十年前……って何の話?私、まだ高校生だ────」
「雨の日に撮った写真」

被せるように言うと、美花ははっと目を見張る。そんな彼女をまっすぐに見つめて、重い口を開いた。

「あの写真に、美花は写っていなかった。それからその半袖も。何か理由があるんだろ……?」

問いかけると、美花はゆっくり目を伏せた。長い睫毛が目元に影をつくる。

「……そっか」
「どうして」

口からこぼれた声は、自分でも分かるほどに震えていた。目の前で顔を歪める美花をじっと見つめる。美花はぐっと唇を噛み締めてから、僕を見上げて、へへ、と口角を上げた。

「……端的に言うと、病気、だったんだよね。医師からもう治らないって告げられてさ。だから、もういいやって思って。卒業式の前日に、死んじゃった。ここから空を飛べたら、この空に溶けていけたらどんなにいいだろうって。最後に大好きな空、飛んでみたかったんだよね。夢叶ったっていうか、ほら、なんていうか……」

言いながら、彼女の目から透明な涙が一粒こぼれ落ちた。彼女の手を引いて、その華奢な身体を引き寄せる。手だけではなく、彼女の身体は氷のように冷え切っていた。

「夢叶ったなんて、嘘だよな、美花。本当は悔しくてたまらないんだろ。もう我慢するなよ。無理して笑わなくていいよ」
「……っう」

閉じ込めるように抱きしめた彼女の口から、呻きのような声が洩れた。

「そうだよ。私、死にたくなかった……。どうして病気は私を選んだの?なんで死なないといけなかったの?もっとたくさん絵を描きたかったし、ずっとずっと綺麗な世界を見ていたかった」

泣きたくなるほど切なる声で、彼女の口から溢れ出す心の叫び。それは、いつも明るい彼女が見せた、最初で最後の弱さだった。抱きしめる腕の力を強める。

「私はよくこの屋上と美術倉庫で絵を描いてて。未練、っていうのかな。それが私には一つだけあって。ほら、“ユーレイ"って、思い入れが強いところにとどまるって言うじゃん。だから私はきっと、この屋上と美術倉庫だけには行けたんだよ。私が半袖なのはきっと、病気のことを言われる前の一番元気だったときが、夏だったからだと思う。あの絵を描いたのも、そのときだから」
「……うん」
「あの日、ここの屋上から飛び降りようとしてた君を見た時、気付いたら身体が動いてた。自殺した私が言えることじゃないけど、それでも君に死んでほしくなかった。本当につらくて耐えられなくて、何度も悩んだ末に自分が出した結果なら仕方がないと思ってたけど、もしも一瞬の気の迷いとかだったら止めなきゃ、って」
「……うん」
「君と過ごした二週間は、本当に楽しかった。絵を描いてる時と同じくらい大切で、私にとっての宝物。ありがとう、東悟くん」
「……っ、うん」
「明日は卒業式だね。私は十年前の今日死んだから、もうここにとどまっていられるのは今日が最後なんだ。……嘘つきでごめんね。東悟くんはちゃんと生きなきゃだめだよ────ううん、生きて。私の代わりに」
「……っ」

嗚咽で返事すらできなかった。ふんわりと桜の香りが鼻腔をつく。

「東悟くんなら大丈夫。きっと素敵な写真家になれるよ。たくさん良い写真を撮って、数えきれないほどの写真を撮って、天国で会った時に見せてよ。それまで気長に待ってるから」
「……必ず、行くよ」
「あ、でも早く来すぎないでね?早く来すぎたら追い返すから。よぼよぼのおじいちゃんになるまで来ちゃだめだよ」
「うん、分かった」

うなずくと、美花は少しだけ身体を離して、「じゃあ、約束」と小指を差し出してくる。

「最後まで人生を全うしてから、会いにきて」
「うん」

細い指に、自分の指を絡める。彼女は「約束」ともう一度つぶやいて、綺麗な顔をわずかに歪めた。

「……っ、最後にひとつだけ、いい……?」

星屑のごとく小さな声の後、肩に置かれた細い手が、ぐいと僕を引き寄せた。突然のことに思わずよろけると、その刹那、唇にぬくもりが触れた。目を見張ると、彼女はいつものように口角を上げ、大きな目を細める。

「……ごめん。だいすき」

苦しげにつぶやいた美花は、もう一度僕に身体を預ける。小刻みに震える華奢な身体を抱きしめ返す。

「ありがとう、東悟くん。この二週間、東悟くんといられてとっても幸せだった。これから東悟くんはたくさんの人と恋愛をして、結婚して、また会った時に奥さんを紹介してね」
「……ばか、僕の好きな人は生涯通して美花だけだよ」

彼女の嗚咽さえ閉じ込めるように、強く強く抱きしめる。そのとき、辺りが目を開けていられないほどの眩い光に包まれた。無意識に、目を細める彼女にカメラを構える。

「東悟くん。どうせ撮っても写らないよ」
「……任せてよ。僕は君のお墨付きをもらった、カメラマンなんだから」

この美しい瞬間を、彼女が描いた美しい世界を、彼女が生きた証を、遺したい。
たとえ彼女が透明でも。
それでも僕は、この永遠のような刹那を写真に収めたい。

そうだ。僕はこの一瞬を撮ることに、二度とない刹那を逃さないよう写真という形で遺すことに魅力を感じて、写真を撮ることが好きになったのだ。
僕の生きる意味は、もうすでに存在していたのだ。
この世界は決してつまらないものではなかった。クラスメイトと談笑することも、空を見上げることも、花火をすることも、死んでしまえば何一つできない。生きているからこそできることばかりだ。

僕の生きる意味。
それは、生きたくても生きられなかった、愛する人のために生きること。
そして、その人が深く愛した空を撮り続けることだ。

「東悟くん、生きる意味、見つけられた?」
「ああ。僕の生きる意味は────だよ」

言葉を紡いだ瞬間、美花の顔が歪んで、今までで一番切なげに、それでいて柔らかく綻んだ。

「助かった命、絶対に無駄にしないでね」
「ああ。約束する」

黄金色に輝く世界に、美花がうっすらとぼやけていく。
すっと一筋の涙が彼女の頬を伝って、地面に落ちる。

「東悟くん、だいすき」

ファインダー越しに、泣き笑いを浮かべる彼女と目が合う。心臓の鼓動が耳の奥深くで鳴り響くのを聞きながら、僕はシャッターを切った。
その瞬間、美花の身体の輪郭が景色に溶けるように消えていく。

「っ、行くなよ、美花……」
「ごめんね、東悟くん」

美花の身体はあっというまに半透明になり、足元からまるで星屑の如く小さな断片になって、ふんわりと空に舞い上がっていく。黄昏の空に溶けていく彼女の姿は、息を呑むほど幻想的だった。

「────愛してる」

ふと唇からこぼれ落ちた愛の言葉。美花は何も言わず、ただ眉を下げて微笑むだけだった。身体の半分以上が溶けて、空に戻っていく。やがて、美花の顎のあたりも空に溶け始める。

「生きる意味を見つけてくれて、ありがとう。僕の二週間をもらってくれて、ありがとう」

視界が滲んで美花の顔がぼやけて見えなくなるのも構わず叫ぶ。強引に目元を拭うと、あとからあとから余計に涙が溢れてくる。

「東悟くん。もう、お別れだよ」
「……っ、やだよ、僕。やっぱり、美花と生きていたいよ……」

すがるような視線を向けても、美花は首を横に振るだけだった。紺青の瞳は揺らぐことなくまっすぐに僕に向けられている。

「私も。でも、それは無理なんだよ。だから、後悔しないように、限りある今を生きて」

唇を噛み締めながら、最後の言葉が紡がれるのを待つ。
美花の全てが消えてしまうその刹那、また注がれた柔らかな笑み。
そして、ふんわりと桜の香りが鼻腔をついた。

「だいすきだよ、東悟くん。それと────莉桜(りお)ちゃんに、よろしくね」

美花は、星屑のように淡い光を放ちながら、空に溶けて消えていった。それと同時に鮮烈な光を放っていた太陽が沈み、夜の闇がおとずれる。
光が消えた空をゆっくりと見上げると、すでに姿を現した一番星が輝いていた。己の存在を主張するように、強い光を放っている。

いつか必ず夢を叶えて会いにいく。
だからどうか、ずっと笑っていてほしい。僕が迎えにいく、その日まで。

確かな生きる意味を心に刻んで、これからも僕はこの彩りある世界を生きていく。
僕に与えられた全ての刹那のその先で、星になった彼女と再び巡り会えると信じて。