呼吸が止まった。
包み込むような淡いタッチも、繊細な筆遣いも、その中から感じられるたしかな強さも。一目見ただけで、美花の絵だと分かった。右下に視線を落とすと、そこには『Mihana』とサインが記されていて、確信する。
「これ……」
震える声を洩らすと、先生は「ああ」と目を細めて荷物を横にあった机に置く。そして、腕を組んでゆっくりと口を開く。
「ぐっと人の目を惹きつける魅力があるだろう。初めてこの絵を見たとき、本当に圧倒されてね。本当は五年以上経ったものは捨てないといけないけど、これだけは十年間捨てられずにずっとここにとってあるんだ。彼女が使うキャンバスは水彩用の特別なキャンバスで、本人が絶対にスケッチブックじゃなくてキャンバスに描くこだわりがあってね」
先生は眼鏡の奥で、静かに目を細めた。大切にそのキャンバスを手に取り、「でも、そろそろ潮時かな」と小さく洩らす。
「どういうことですか」
どっどっ、と心臓がいやに速く鼓動している。"あった"という過去形や"潮時"という言葉に違和感を覚えて問い返す。先生の言っていることが上手く理解できず、こめかみを冷たい汗が伝うのが分かった。
先生は額に手を当て、記憶を掘り起こすように重々しく口を開く。
「──── 十年前に亡くなったんだよ。この学校の屋上から飛び降りて」
すうっと背筋が冷たくなり、周囲の雑音が消える。先生の目をまっすぐに見つめながら、先程の言葉を頭の中で反芻する。
十年前に、亡くなった?屋上から飛び降りて?……美花が?
「彼女が命を絶ったのは、卒業式の前日だった。本当に良い絵を描く子だったんだ。性格も、素直で明るくて、気さくで。それなのに、どうして……」
悔しげにうつむく先生の姿を呆然と見つめる。
「賞とるから楽しみにしててね、って何度も口にしながら真夏の暑い中没頭していた。美術部のなかで一番楽しそうに描いていた。彼女はよくここで絵を描いていてね。この窓から、空を眺めて毎日毎日描いていた。だから、この窓はずっと、傷ひとつなく綺麗に保とうと思ったんだ。彼女がもう一度ここに戻ってきたとき、いつでも絵が描けるように」
あまり使われていない割には、違和感を感じるほどものすごく綺麗だった窓ガラス。
けれど。
美花が十年前に亡くなったなんて、ありえない。
だって現に美花は僕の前に現れているし、それに、存在を証明するものだってあるじゃないか。
彼女を撮った一枚が、彼女の存在の証明になる。
それなのに、なんだ。この落ち着かない胸騒ぎは。なにがこんなに僕を不安にさせる?
ばくばくといやな鼓動を続ける心臓を静めて、肩にかけていたカメラを持ち、撮った写真を見返す。
空の写真。一緒にした鮮やかな花火の写真。そして。
傷ひとつない綺麗な窓と、降り注ぐ雨をバックに。
─────透明な彼女が、写っていた。
包み込むような淡いタッチも、繊細な筆遣いも、その中から感じられるたしかな強さも。一目見ただけで、美花の絵だと分かった。右下に視線を落とすと、そこには『Mihana』とサインが記されていて、確信する。
「これ……」
震える声を洩らすと、先生は「ああ」と目を細めて荷物を横にあった机に置く。そして、腕を組んでゆっくりと口を開く。
「ぐっと人の目を惹きつける魅力があるだろう。初めてこの絵を見たとき、本当に圧倒されてね。本当は五年以上経ったものは捨てないといけないけど、これだけは十年間捨てられずにずっとここにとってあるんだ。彼女が使うキャンバスは水彩用の特別なキャンバスで、本人が絶対にスケッチブックじゃなくてキャンバスに描くこだわりがあってね」
先生は眼鏡の奥で、静かに目を細めた。大切にそのキャンバスを手に取り、「でも、そろそろ潮時かな」と小さく洩らす。
「どういうことですか」
どっどっ、と心臓がいやに速く鼓動している。"あった"という過去形や"潮時"という言葉に違和感を覚えて問い返す。先生の言っていることが上手く理解できず、こめかみを冷たい汗が伝うのが分かった。
先生は額に手を当て、記憶を掘り起こすように重々しく口を開く。
「──── 十年前に亡くなったんだよ。この学校の屋上から飛び降りて」
すうっと背筋が冷たくなり、周囲の雑音が消える。先生の目をまっすぐに見つめながら、先程の言葉を頭の中で反芻する。
十年前に、亡くなった?屋上から飛び降りて?……美花が?
「彼女が命を絶ったのは、卒業式の前日だった。本当に良い絵を描く子だったんだ。性格も、素直で明るくて、気さくで。それなのに、どうして……」
悔しげにうつむく先生の姿を呆然と見つめる。
「賞とるから楽しみにしててね、って何度も口にしながら真夏の暑い中没頭していた。美術部のなかで一番楽しそうに描いていた。彼女はよくここで絵を描いていてね。この窓から、空を眺めて毎日毎日描いていた。だから、この窓はずっと、傷ひとつなく綺麗に保とうと思ったんだ。彼女がもう一度ここに戻ってきたとき、いつでも絵が描けるように」
あまり使われていない割には、違和感を感じるほどものすごく綺麗だった窓ガラス。
けれど。
美花が十年前に亡くなったなんて、ありえない。
だって現に美花は僕の前に現れているし、それに、存在を証明するものだってあるじゃないか。
彼女を撮った一枚が、彼女の存在の証明になる。
それなのに、なんだ。この落ち着かない胸騒ぎは。なにがこんなに僕を不安にさせる?
ばくばくといやな鼓動を続ける心臓を静めて、肩にかけていたカメラを持ち、撮った写真を見返す。
空の写真。一緒にした鮮やかな花火の写真。そして。
傷ひとつない綺麗な窓と、降り注ぐ雨をバックに。
─────透明な彼女が、写っていた。