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「ちょっと。起きなさいよ。本当に遅刻するよ!」
身体を激しく揺さぶられて思い瞼を上げると、黒髪の女性が目に入った。
「姉さん……なんで起こすんだよ……」
「お馬鹿。明後日は卒業式でしょう。学校行かないともったいないわよ!」
耳の近くで叫ばれると、どうしても意識が浮上してしまう。ぼんやりとした視界のまま天井を見上げてしばらくぼーっとする。
「呆けてる場合じゃないわ。制服のままで何してたのよ、まったく」
「え」
布団から起き上がって自分が着ている服を確認すると、通っている高校の制服が目に入った。
「あれ……天体観測は……夢?」
昨日の出来事は現実か否か。美花と星空を眺めたのは全て夢だったのか。仮に現実だったとして、どのようにしてここまで帰ってきたのか全く記憶がない。
「とにかく、早く準備しないと遅刻するわよ」
姉さんに急かされて簡単な身支度をし、朝ごはんを食べずに家を出る。
そろそろ満開を迎える桜を見上げながら、出来事を整理しようと試みるけれど、不思議な出来事にただ首を傾げることしかできなかった。一緒に星を見て、夜特有の感情に任せてなにやら恥ずかしいことを口走ったような記憶はうっすらとある。けれど、覚えているのはやはりそれだけで、そこから先はぷつりと糸が切れたように思い出せない。
ふと、風で揺れる桜が何枚かの花弁を散らした。はらはらと舞い落ちてくる桜の花弁は雪のように白く、桜を雪のようだと比喩する人の気持ちが少しだけ分かる気がする。そんなことを考えながら歩いているとあっというまに学校につき、美花に会って昨日のことを確かめるため階段を登る。そうしていると、ふと下の方から声をかけられた。
「水樹。最近何かあったのか」
声の主は担任の先生だった。教員歴は相当長いであろうベテランで、この学校には十年以上勤めているそうだ。担当教科は美術で、水彩画を得意としているらしい。どうやら教室に顔を出さない僕を心配してくれているようだった。
「別に何もないっすよ」
「そうか。お前は優等生だったから、気負いすぎてないか心配だったんだが。元気そうでなによりだよ」
彼の中で、僕は「優等生」に分類されるらしい。
真面目に授業を受けて、校則をしっかりと守り、提出物は早めに出す。当然のことをしているだけだが、全体的な割合で見てみるときっと「優等生」に分類されるのだろう。
にかっと笑う先生は、「どうも」と返す僕に漆黒の瞳を向けた。そして、何かを思い出したように声を上げて、僕に手招きする。
「いきなりですまないが、ちょうどいい。ちょっと手伝ってくれないか」
「今からですか」
「授業で使う画材を運ぶだけだ。授業には出なくていいから」
本当は早く美花に会って確認がとりたかったけれど、先生の頼みなら仕方がない。それに、厄介な仕事ではなさそうだから、すぐに終わるだろう。前を歩く先生の背中を追う。
「最近、何してるんだ?別に怒るわけじゃないから、教えてくれよ」
「遊んでます」
先生は叱るために訊いたのではなく、ただ単純に興味本位だということが分かる。
なぜかと問われれば、そういう先生だから、と答えるしかないだろう。とりあえず、生徒にとって味方に近い側の先生ということは承知していたので、隠すことなく素直に告げる。
「まあ、お前は進路決まってるもんな」
専門学校だっけ、という言葉に頷く。
「好きなことを追い続けるのはいいことだ。先生も美術の世界に飛び込んで、後悔は何一つしていないからな」
にっ、と白い歯が綺麗に並んでいる。それから数秒の沈黙の後。
「なあ、水樹。一つ、訊いていいか?」
悪戯っぽい表情を浮かべた先生は、男性にしては細長い小指をピンと立てる。
「女、か?」
「秘密ですよ、そんなの」
「あー?その反応は絶対女だろ。水樹、お前草食そうな見た目してやるなあ」
「なんですか草食そうな見た目って。それに、今時流行りですよ?草食系男子」
そんな生徒同士がするような他愛のない会話をしているうちに、目当ての場所に到着した。
そこは、美術倉庫だった。
まあ、美術担当が授業で使うものと言ったら、美術関係のものだろうから当然といえば当然か。
「ちょっと待っててくれ。今、探す」
美術倉庫の中で、画材の用意をする先生の背中を見ている間に、周りに置いてある数えきれないほどの画材を見回す。どれも年季が入っていて古い絵ばかりだった。描かれてから四、五年といったところか。
「よし。これでいい。じゃあ、水樹─────」
そう言って振り返った先生の肩が棚にぶつかり、一枚のキャンバスが床に落ちた。周りのものより古いように見えるそのキャンバスを、荷物で手が塞がっている先生の代わりに拾い上げ、瞠目する。