昼休みの中庭で、私の話を聞いたエリはぽつりと呟いた。

『カイ、女の子に人気あるみたいだもんね』

『そうなの?』

 人付き合いが上手なエリは、他の留学生たちともよく話をしていた。私が図書館で本を読んだりしているうちに、彼女は彼女で世界を広げている。

『うん。知らなかった? 多分、今朝ナッちゃんに声をかけたのは、エルザって子じゃないかな。話したことあるけれど、そこまで悪い子な印象はなかったよ』

『そうなんだ……』

 手に持っている大盛りのケバブに目を落とす。サービスだと言って、いつもたくさん肉をのせてくれるのだ。今日はその気持ちが少し胃に重い。

『まぁ、仕方ないよね。カイはナッちゃんのこと、よく気にしてるもん。カイのことが好きだったら、気に入らないって思うかも』

『同じ家に住んでるからじゃなくて?』

『違うと思うよ。カイは本当に、ナッちゃんのことをよく見てる。気づかない?』

 彼が人のことをよく見ていることは知っている。私が好きな物を知っていたり、顔色がよくないことに気がついたり……そういうことは今まで何度もあった。

『でさ、ナッちゃんはどうするの? プロム』

 考え込む私にエリが言う。

『そんなこと考えてなかったよ』

 誰と行こうかなんて微塵も悩んだことがなかった。プロムのことなんか忘れていたほどだ。私はいつも目の前のことに夢中になってしまう。

『少しは考えないと。あまり日にちもないし。私も人のこと言えないんだけどね。ルイはライバルが多そうだよなぁ……』

 溜め息をつきながら空を見上げているエリ。ルイと行きたいと言っているエリの相手も、まだ決まっていない。

 私は誰と行きたいのだろう。

 一瞬、カイの顔が浮かぶ。小さく頭を振って、それをかき消した。人気者にはそれに相応しい相手が良いと思う。魚の骨のようにチクチクと引っかかっている気持ちを、大盛りのケバブと一緒に胃の中に沈めた。



 その日の帰り、教室から出るとカイが待っていた。

「ごめん。今日は一緒に帰れないから、エリ達と帰って」

「あぁ、うん。全然いいよ。わざわざ言いに来てくれてありがとう」

 目の前を通り過ぎるカイの隣に今朝の女の子がいた。私の方を見て勝ち誇ったように笑った後、カイの腕に手を絡めてロビーを出ていく。
 どうしてだろう。なんだか胸が締め付けられるように苦しい。

『ナッちゃん……』

『大丈夫。なんともないよ』

 心配そうに私の手を握るエリに向かって、少し無理やり笑ってロビーを後にした。

 久し振りにエリと二人で下校する。カイと一緒に登校するようになってから、帰りも自然と一緒に帰るのが日常になっていた。ルイが加わることも多くて、最近は特に賑やかだった。
 なんとなく感じる寂しさに、私はみんなで帰るのが好きだったことに気がつく。みんなで喋りながら海を眺めつつ坂を下りて、三階建ての家に帰るまでの時間が楽しかった。すっかり当たり前になっていて、気が付かなかった。

『じゃあね。あまり気にしない方がいいよ。次のレクでたくさん買い物して発散しよう』

『そうだね。エリも頑張って』

 三叉路でエリと別れた後、家の前を通り過ぎて海に向かった。海水浴客が帰り始めたビーチに転がる流木に座って、引いては返す波の音を聞いていた。

 カイが女の子と帰るのを見たときから、ずっと胸が苦しい。息をするのがつらい。泣いてしまいたい気分だ。どうしてこんなに苦しいのか、考える余裕もない。

 ゆっくりと沈んでいく太陽を見ながら、もう何度目になるのかわからない溜め息をついた。暗くなっていく私の気持ちとは裏腹に、夕焼けに照らされた海の輝きが増す。
 太陽が地平線に溶ける時、海に混ざるのかもしれない。だから、こんなに明るく輝くのだ。

「あれ、もしかしてナツ?」

 声に振り返った視線の先に、ルイが手を振っているのが見えた。

「やっぱりナツだ。こんなところでどうしたの? 隣、座ってもいい?」

「どうぞ。ルイは何してたの?」

 流木の真ん中に座っていたのを少しずれて、ルイが座るスペースを作る。

「僕は少し散歩してた。良かったらこれ飲む? まだ口をつけてないから」

 差し出された紙カップを受け取る。じんわりと手に伝わる暖かさに、憂鬱だった気持ちが少しだけまぎれる。

「ホットチョコレートだよ。今さっき買ったんだ」

「ありがとう。でも、いいの? ルイの分がなくなっちゃう」

「いいよ。僕はこれがあるから」

 手に持っていたビニール袋から、ルイが水のペットボトルを取り出た。

「あ。ナツはこっちの方がいい? 水、欲しがってたでしょ?」

 初めて会ったときのことを話すルイに、思わず笑い声が漏れてしまう。なんだか随分前のことのように感じてしまうが、あれから二か月も経っていない。

「今日は水じゃなくても大丈夫。でも、やっぱりルイがこれを飲んだら?」

「冗談だよ。美味しいから飲んでみて」

 紙カップを返そうとする私の手を、ルイがそっと押し返した。
 白い湯気をたてているトロリとした液体に、そっと口をつける。すぐにねっとりとした強い甘さが口の中に広がった。誕生日に用意してもらったチョコレートケーキを思い出す。
 あの日はすごく幸せだった。

「どう?」

「美味しい。初めて飲んだ」

 ホッと息を吐くと、胸を締め付けていた物が和らいだ気がした。イギリスは日本よりも味が強いものが多くて少し嫌だと思っていたが、今はその強い甘さに救われた。

「それで、何してたの? 考え事?」

「何もしてないよ。海を見てただけ」

「本当にそうかなぁ。そんな風には見えなかったけど」

 私の心を見ようとするように、ルイが目を覗き込む。本当に見透かされそうな気がして、慌ててカップに口をつけた。

「良かったら、僕に話してみない? もちろん無理にとは言わないよ」

 ルイにだったら話しても良いかもしれない。
 より一層輝きを増す海を見ながら、私は今日の出来事をぽつぽつと話し始めた。



「あぁ、その女の子はエルザだね」

 私の話を聞き終わったルイは、自信ありげにそう言った。やっぱり、エリが言っていた子で合っているようだ。

「そんなに嫌な子じゃないんだけれど、スクールカーストの最上位にいるような子だからちょっと女王様気質なところはあるかも」

 スクールカースト。その上位であればあるほど、イケてる組だ。何がイケていると判断されるかは、国によって違うのだと思う。この国だと、何か一つでも秀でていて活発なことが重要視される気がする。意思表示や立ち振る舞いが堂々としていることも大切だろう。それから、家柄による階級社会も根強く残っているのが現実だ。
 短期留学生である私はあまりスクールカーストを意識したことがない。でも長期留学をしているルイたちは、感じるところがあるのかもしれない。

「エルザはカイのことがとても気に入ってるみたい。ただ、僕はエルザじゃないから、本当のところはよくわからないな」

「そう、だよね……」

 思わず視線を落とした私を見て、ルイが慌てたように言う。

「そんなつらそうな顔しないでよ。あ。そうだ」

 何か思い出したようにルイがポケットの中に手を入れた。

「プロミスリング、知ってる?」

 黒とオレンジ色の糸で編まれた紐が目の前で揺れた。
 それなら私も知っている。足や手首につけるお守りだ。自然にそれが切れた時、願い事が叶うといわれている。確か、サッカー選手がつけているのがかっこいいと話題になって、日本でも流行していた時期があった。

「これからの生活がうまくいくように願い事をかけて作ったんだ。だから、きっと大丈夫。何もかもうまくいく。本当は自分のために作ったんだけど、ナツにあげる」

 私の足首にプロミスリングをつけながらルイが言う。

「はい。これですべて解決」

「解決しないよ」

 プロミスリングをつけて悩みが解決するなら、私は百本でも千本でもつける。絶対それだけじゃ解決しないのに、なぜか自信有り気なルイが可笑しくてつい笑ってしまった。

「うん。やっぱりナツは、笑った顔が素敵だ」

 急に褒められて驚く私に向かって、ルイはもっと驚くようなことを続けた。

「ねぇ、僕と一緒に、プロムに行かない?」

 首を傾げながら聞いているルイを見ながら、何も言えなくなってしまう。

「僕じゃダメ?」

 黙り込んでしまった私に追い打ちをかけるように、ルイがふんわり笑う。
 ルイが良いと悪いとかいう以前に、エリの気持ちを知っている私がここで頷くわけにはいかない。張り付いた喉の奥から絞り出すように声を出す。

「……エリは? エリはどう?」

「え? 僕がエリを誘うの?」

 眉を少しひそめながら、ルイが困った顔で笑った。

「僕は今、キミを誘ってるんだけど……。もしかして、遠回しに振られてる? 僕」

 何も言えなくなっている私を見て、クスッと笑いながらルイが立ち上がる。

「また誘うから、考えといてよ。じゃあね。あまり色々と気にしない方がいいよ」

 遠くなっていくルイの足音を聞きながら、すっかりぬるくなった紙カップを握る。足首につけられたプロミスリングが『どうするんだ』と聞いている。

「どうしよう……」

 私の小さな呟きは、波の音に紛れて海に吸い込まれていった。