呼び鈴が鳴る。しかし応答はない。もう一度呼び鈴を押す。それでも応答はない。
 やはり何かあったのではないかと、思案を巡らせる。葬式で平気そうにしていたときから、どこか異変を感じていたのだ。ひまりは大丈夫だと言ったが、それでも心配なものは心配だ。
 母親として、娘が苦しんでいたら手を差し伸べなくてはならない。
 もし何もないならそれでいい。それが一番だ。しかし何かあってからでは手遅れなのだ。
 もう一度呼び鈴を押しても何もない。扉をドンドンと叩く。
「ひまり? いたら返事して?」
 その声にも応答がない。時刻は午後七時を回ったところ。買い物に行っている時間帯でもないだろうし、仕事を休んでいるひまりなら、今の時間は家にいるだろうと予想してアパートを訪れた。
 何度も呼び鈴を鳴らすが、それでも応答がないので、やはり何かあったのではないかと思ってしまう。
 ポケットから合鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。思っていたより焦っていたらしく、鍵を差し込むのにも苦労した。そうしてひまりの部屋へと入っていく。
 今は一人暮らしのはずなのに、玄関の靴は綺麗に三人分用意されていて、それが妙に不気味に思えた。部屋にはごみが散乱している。ほんの少し生ごみの香りがして、思わず顔をしかめた。
 「ひまり、いるの?」
 手探りで電気を付けた。しかしひまりの姿はどこにも見当たらない。やはりどこかに出かけているのではないかと、一瞬安心したが、三人分の靴があるということは家の中にいるのだろう。
 あと考えられる場所は、トイレか風呂の二択だ。
 ふと、空気が湿っていることに気づいた。それだけではない。どこか鉄臭いような、いいや、それは血の匂いだ。
 嫌な予感がした。風呂場の扉は閉まっていた。
「ひまり!」
 勢いよく開ける。風呂場には水が張られており、その水は赤く変色している。床には包丁が落ちている。そしてひまりが浴槽に倒れこむようにして、力なくもたれかかっていた。
 急いで駆け寄る。足元は水に濡れていて、靴下が染みた。
「マ、マ……」消え入りそうな声で言う。
 少し笑った。薄っすらと開いた目が、こちらを見ていた。表情からは感情を読み取れない。
「何してるの!」
 ひまりの身体を、浴槽から引き揚げる。左手首には横に赤い線ができていて、ひまりが何をしようとしたかを物語っていた。
 水を含んで重たくなったひまりを、五十代近い女性一人で持ち上げるなんて、少し無理があった。それでもひまりは大切な娘だ。力を振り絞って、どうにか洗面所まで運んで、小さな子供のように介抱して横にした。
 ひまりは「ごめんなさい」と、何度も謝った。
「やっぱり、死にたくない」
 涙を流して言う。
 今まで寂しさや悲しさを感じることのできなかった分、何かの拍子で一気に襲い掛かってきたのだろう。ひまりには耐え切れなかったのだ。
 それから救急車を呼んだ。
 幸い傷は浅く、致命傷に至るほどではなかった。しかし跡は残るらしい。可愛い我が子に一生の傷が残るのは嫌だったが、ひまりの命が助かっただけで十分だ。
 今は大切な娘の無事に感謝をしよう。