夕暮れ。適度に温かい気温が、夏の終わりを感じさせる。
 路傍にひっくり返って鳴いている蝉が、ひどく耳障りだった。聞こえないふりをするように、早足でその場を立ち去る。
 買い物袋を片手に、帰路に就く。
 十分ほど歩くとアパートが見えた。錆びた階段を登り、額に汗を滲ませて玄関の戸を開ける。
 「ただいま」
 自分の声だけが響く。
 あぁ、そっか。二人は死んじゃったんだ、と思い出す。
 「余計に買ってきちゃったな」
 乾いた笑みで、一人きりの部屋に呟いた。
 カーテンを閉め切り、真っ暗な部屋は玄関から入り込んだ夕陽によって照らされる。そこには散乱した郵便物と、結んだゴミ袋が幾つもあった。心なしか生ごみのような匂いもする。
 ひまりはしゃがんで、散らばったスニーカーを揃えながら言う。
「仕方ないよね、買い過ぎて腐っちゃうんだから」
 そう、これはいつものこと。
 これが日常。
 玄関の戸を閉じた。そうしてひまりは、再び三〇五号室へと入っていく。
 ここはかつての聖域のようなものではないけれど、ひまりにはこの部屋が心地よく思えた。だってここは、家族三人の住まいだから。
 それを嫌に思うなんてことは、反抗期によくある、一時の気の迷いのようなものだろう。

 作りすぎた料理を処理していると、机の上のスマートフォンが鳴った。
 皿を置き、揺れるスマートフォンを手に取る。母親からの着信だった。
 十分近く他愛のない話をした。きっと自分を心配してくれたのだろう。「家に帰ってきていいよ」と言ってくれた。しかし今のところ、特に困ったこともないし、一人でいた方が時間も自由に使えると考え、その提案を断った。
 「本当に大丈夫なの?」と念を押されて訊かれたが、同じように念を押して「本当に大丈夫だよ」と返した。すると母親は心配しつつも「そっか」と言って笑った。
『辛くなったら頼ってもいいんだよ。私はひまりのママなんだからね』
 電話を切る直前の母親の言葉が、残響のように頭の中に残っていた。