吐き気がした。身体の内側から不快な何かを感じた。
 その症状は、人生で体験した病気のそれとはどこか異なっており、今の自分が何らかの異常な状態にあることを知らせた。
 耐え切れず、道端にしゃがみ込む。持ち歩いている鞄に無造作に手を入れる。するといつも使っているエコバックを見つけ、急いで開いた。そしてそのままエコバックの中に吐いた。
 仕事帰りの夜道。車が交差することができないくらい細い小道だった。
 吐けるだけ吐いて、地べたに座り込んだ。辺りを見回してみる。手を差し伸べてくれるような人は周囲には見当たらない。
 とりあえず吐き気は収まった。もう少し休んでから帰ろう。
 いつもの吐き気とはどこか異なるその吐き気と、最近の体調不良。そして生理不順。雑誌やネット記事などでしか聞かなかった情報ではあるが、思い返してみればそれはその状況と酷似していた。
 自分は妊娠しているかもしれない。
 そう思うための証拠は揃っていた。
 ややあってひまりは立ち上がる。今日は凛に報告したいことができた。三か月前、凛は「子供が欲しい」と言ってくれた。もしかするとこれから家族が増えるかもしれない。
 そう言ったらきっと喜んでくれるに違いない。
 そう思うと、自然とひまりの表情は緩んだ。
 
 保育園から徒歩三十分のところにある、築十二年の二階建てアパートの二〇二号室の扉を、慣れた手つきで開く。
 扉を開いてすぐに「ただいま」と元気よく言った。凛の元気のいい「おかえり」が返ってくる。
 靴を脱いでいると、凛が玄関まで出迎えてくれた。壁に手をついて、ラフな格好でいる。その左手の薬指にはきらりと光る指輪が着けられていた。
 いつもは彼から何か話しかけてくれるのだが、今日は話しかけてくれない。不思議に思い、彼の顔を覗き見るようにして訊いてみる。
「なんかあった?」
「いや、何かひまりが嬉しそうだなって。ひまりの方こそなんかあった?」
「あーそうね、えっと。言いたいことがあるから後にしようか」
 「えー」とは言いつつも、凛は分かったと頷いた。
 今日はアルバイト先が休みなようで、凛は家にいた。大学の授業も真面目にこなして、インターンにも行っている。この様子では就職難の現代でもそれなりに戦えそうだ。
 凛はひまりのために食事を作ってくれる。社会人のひまりと大学生の凛では、時間の余裕が違う。そのため、凛もアルバイトはするものの、基本的にはひまりを主夫のような形でサポートしていた。
 同棲してすぐのこと、彼の料理は驚くほどに下手だった。
 しかしこの数か月で随分と腕を上げ、今では何が出ても美味しいと思えるようになった。動画サイトで料理を研究したらしい。
 今、ふたりが口にしているほうれん草の胡麻和えや中華春雨スープは、全て彼が作ったものだ。好きな人が作ってくれた料理だからかもしれないが、高級なレストランのものよりも美味しく感じた。
 だから素直に「美味しい」と伝えると、凛はいつも喜んでくれる。別に美味しくなくても美味しいと伝えたくなってしまうほど、彼の笑顔は素敵だ。
 それから風呂に入る。凛は仕事で疲れたであろうひまりを気遣って先に入れてくれる。ありがたく頂いた後、入れ替わるように凛が風呂に入る。風呂掃除と洗濯は凛の仕事だ。その間にひまりが食器を洗う。
 凛が風呂を出ると、洗濯機を回す。洗濯機が終了の合図を出した頃には二人は一休みしていて、面倒に思いながらも立ち上がって洗濯物を干す。
 そうして一日が終わる。
 明日も仕事があり、凛も大学がある。夜十一時半ごろになるとテレビを消し、消灯して、二人は並んで布団に入る。
 新婚夫婦らしく、身体を寄せ合って眠る。
 ひまりは眠りにつこうとする凛の肩を、軽く二回叩いた。
「どうした?」
「さっきさ、言いたいことがあるって言ったじゃん?」
「あぁ、そうだったね」
「もしかしたらかもしれないけどさ。私、妊娠したかもしれない」
「えっ、ほんと?」
息を大きく吸って驚いた。
「え、あ。嘘じゃないよね。ね」
 言葉を上手く繋げられていない。凛が珍しく取り乱していた。
「うん、嘘じゃない」
 冷静さを取り戻すために、凛はしばらく黙った。その後、ひまりの目を見つめた。
「……めちゃくちゃ嬉しい」
 そう言って、凛はひまりの身体を抱きしめた。
 その温もりを味わうように彼の背中に手を回すと、二人の身体は更に密着した。
 しばらくその沈黙を楽しむ。
 そしてひまりは、その雰囲気を崩さないように、小さな声で伝えた。
「週末に、産婦人科予約するね」
 その日は二人、手を繋いで眠った。