休日が過ぎると保育園に向かう。
 この仕事は毎日が大変だけれども、確かにやりがいの感じる素晴らしい仕事だ。いつか仕事から離れることになっても、復職するなら保育士しかない。
 徒歩二十分の道のりを進む。
 季節の移ろいを感じさせる地面一色の桃色は、風が吹くたびにコンクリートを覆い隠す。視線を道端の木々に移してみると、桜はほとんど散っていて、遠くの野山は一足先に新緑の季節を迎えていた。
 成長するにつれて、時間の流れが加速していくように感じる。
 中学校の頃は、毎日が読書と睡眠で終わり、二十四時間がまるで一年のように感じていた。しかし今は時間という概念自体に意識を向けることが少なくなり、ふと気づいたときに、一か月が過ぎていたということをよく感じるようになった。
 大人になると時間の体感速度は上昇すると言うが、それは実際にあるのだろう。ひまりも同じく、成長の過程で体感速度の変化を味わっていた。
 足元に散った桜も、気づいたときにはまたあの木々の元へと還っているのだろう。
 その頃には、ひまりは凛と結婚しているだろうか。
 一年後の自分はどんな自分なのだろう。きっと今とさほど変わらない生活をしているのだろうけど、凛と結婚していたらいいなと思う。
 しかし何も変わらないまま大人の時間も過ぎていったらどうだろうか。
 あっという間に過ぎていく時が、少し恐ろしかった。

 今日も元気よく、事務室の扉を開いた。
 ひまりの挨拶を返してくれたのは、いつもとは異なり二人だけだった。室内の時計に目をやってみると、普段到着する時刻よりも二十分も早く到着していた。
「ひまり先生、今日早いですね」と、向こうで話していた先生が遠くから声を掛けた。
「少し気分が良くて早く来ちゃいました」
 笑って冗談のように言う。
 それから慣れた動きでロッカーに荷物をしまい、制服に着替えてからデスクに着席した。
 事務室にいたのは瑞穂先生と、もう一人、瑞穂先生と仲のいい先生だ。彼女らはコーヒーを飲みながら、かつての恋バナに花を咲かせていた。
 おはようございますと、声を掛ける。
「おはよう」
 瑞穂先生は挨拶をしながら立ち上がると、ケトルからお湯を注いで、ありがたいことにひまりにインスタントコーヒーを作ってくれた。
 瑞穂先生からコーヒーを受け取り、席に戻る。
 ふぅと深く息を吐くと、部屋中にコーヒーの芳醇な香りが漂っていることに気づいた。まるで都市部にあるおしゃれなカフェのようだ。
 ひまりは卓上のラップトップを開いた。お遊戯会の案内プリントの作成をしなければならない。提出期限は随分先だが、どれだけ大変な事かは分からないため、早めに手を付けておくのが吉だ。
 十分ほど作業をしたところで、隣で恋愛談義をしていた瑞穂先生が、ひまりの肩を叩いた。ラップトップを優しく閉じて、応じる。
「ところで、例の彼とのデートはどうなったの?」
 やれやれ、この歳の女性というものは若い子の恋愛話ばかりに興味を示すものだな、とは思いつつも、内心喜んで話す。
「四年くらい付き合ってるんですけど、初めて遠くにデートで出かけました」
「うそー!」瑞穂先生は口に手を当てて驚く。「四年も付き合ってるのに、デートもまだだったの?」
「いや、デートは流石にしたことはありますよ」とは言うものの、瑞穂先生は隣にいるもう一人の先生とはしゃいで、ひまりの言ったことは耳に入っていないようだった。
「じゃあまさか、『ちゅー』もまだなの?」口を吸盤のようにすぼませて言う。
 『ちゅー』なんて言うものだから、キスが何か後ろめたい行為に思えた。
「それは……まぁ、したことありますけど」
 危なかった。つい先週まではキスまで到達していなかったため、この質問を先週に投げかけられていたら恥ずかしい思いをしていたに違いない。
「まぁその彼と結婚したら、産休を取りなさいよ」
「産休ですか……」
 最近になってよく聞くようになった単語ではあるものの、つい数か月前までは学生の身分だったひまりにとっては身近ではない言葉だった。しかし結婚をするというのなら、当然子供を作ることもあり得る。思っているほど、産休は身近なものなのかもしれない。
 そんな風に考えていると、瑞穂先生が文句ありげに言い始めた。
「別にこれまでだってどうにかなってきたんだから、そんなに声を大にして言わなくたっていいと思うのにね。まぁこの考えも古いんだろうけどさ」
「瑞穂先生ってお子さんいましたよね。その時ってどうしたんですか?」
「どうだったかな。よく覚えてないなぁ」と、後ろ頭を掻く。
「でも、一回仕事を辞めたのは覚えてるな。出産して育児にある程度のめどが立ってから復職したよ」
「そうなんですね。私も――」
「『私も』ってことは、近々子供を産む予定でもあるの?」
 瑞穂先生が身を乗り出して訊いた。
「どうでしょうかね」と、笑ってはぐらかす。
 「そしたら、例の彼は学生結婚だねー!」瑞穂先生は向こうの先生と、手を叩いてはしゃぎ合っていた。
 その通りになればいいなとひまりは思う。
 二人だけの暮らし、日常を想像する。それは二十年前の生まれ変わったばかりの自分の想像とはかけ離れたビジョンではあるけれど、「高木ひまり」としての幸せよりも、今求めている幸せの方がひまりにとってはずっと幸せだ。
 だからこそ、結婚したい。
 誰の人生でもない、自分の人生であるのだから。自分にとっての幸せを掴むことが、何よりそれの証明になる。
 ひまりはコーヒーを一気に飲み干し、ジョッキのように勢いよくコップを置いた。
「さ、仕事しましょう」
 話を打ち切り、再びラップトップに向かう。
 ひまりの口角はほんの少し上がっていて、それを見た瑞穂先生はまるで自分のことかのように微笑んでいた。