春は新たな季節の到来を感じさせる。
 先週まで満開だった桜が散り始め、風が花びらをどこかへ運ぶ。地面の半分を桃色の花びらが覆っている。そこを歩くと、花びらが少し動き、今まで隠れていた地面がひょいと顔を出す。
 そんな光景に春を感じながら、ひまりは駅を目指していた。
 一時間に一本のバスに乗り、揺られること二十分。数年前に改装したばかりの綺麗な駅に到着した。その向こうには、現在建設中の病院が見える。
 せわしなく聞こえる重機の音で、あの高い建造物は人間の手で作られているのだと実感する。
 駅の時計を見て、時間を確認する。『九時二十八分』。待ち合わせより十二分前に到着したらしい。まだ彼の姿は見えないので、時間を潰そうとコンビニへ向かう。
 並んでいるペットボトルから吟味して、お茶を手に取る。そして同じものをもう一本、手に取った。これは彼の分だ。
 電子決済を済ませ、駅の小さなホームに戻ると、丁度向こうから歩いてくる凛の姿を発見した。ひまりは笑って手を振り、凛に近づく。
 すると凛も気づいたようで、小さく格好つけたように小さく手を挙げて、ひまりのもとへと向かってきた。
「おはよう」
「おはよう。悪い、待たせたか?」少しばかり申し訳なさそうな表情をする。
「ううん、今来たとこ」
 少し嘘をついてみた。ほんの少しの気遣いだった。
「よかった」
 申し訳なさそうな表情は、安堵の表情へと変わった。
「さ、行こっか」と言って手を繋ぐ。
 どうやら今日は、ひまりが先導する日らしい。
 一時間ほど電車に揺られて到着したのは、百貨店や服屋などが幾つも立ち並ぶ商業施設だ。
 そんなところに何をしに来たかと言えば、デートだ。
 付き合ったのが高校一年の秋で、今が二十歳の春。およそ四年の付き合いだ。毎週のように顔を合わせている二人だが、どこかへ出かけるということはあまりしない。
 ひまりは顔を合わせるだけでも十分良かったのだが、凛がカップルらしいことをやりたいと言うので今日はここに来た。
 初めに映画を見て、それから互いの服を購入した。
 一般的なカップルがどんなデートをしているかはよく分からないが、見かけたカップルは皆腕を組み、幸せそうな表情をしていたので二人も真似をして腕を組んで歩いてみた。
 四年が経過しても、まだまだ初々しい。
 腕を伝って彼の心臓の鼓動が聞こえる気がした。それと同時に、自分の心音も彼に伝わっているのではないかと不安になる。
 恥ずかしさのあまり、気づけば二人は黙って歩いていた。
 ひまりたちはきっとどんなカップルよりも仲はいいが、それ以上先には進んでいない。だからこその初々しさではあるのだろう。
 あまりにも初々し過ぎるのは、自覚していた。
 
 デートは終始緊張して、よく覚えていない。しかし楽しかったことだけは覚えている。
 両手いっぱいの荷物を持ち、再び電車に一時間ほど揺られて帰宅する。
 その頃には空は真っ暗になっていた。楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
 暗い夜道を二人で歩いた。
 仕事帰りの夜道は怖いのに、二人でいれば怖くない。黙っている時間でも、そんな時間こそが愛おしく感じた。
「そうだ、少し寄って行かないか?」
「別にいいけど、どこに行くの?」
「大丈夫。変な所には連れて行かないから」
「なら、大丈夫かな」
 そうして連れていかれたのは、見覚えのある児童公園だった。
 あの時よりも随分と色褪せてしまったように見える。しかし置かれている遊具やベンチは今も変わらずにそこにある。
 ここはひまりが、凛から告白の受けた公園だ。
 ひまりたちはあの日のように、ベンチに腰を下ろした。そこから見える風景も、何一つとして変わりない。町は変わっていない。
 しかし自分たちだけは変わってしまったのだと、否応なしに叩きつけられた。
 ひまりは保育士になり、凛は大学三年生になった。自分たちはもう子供ではなく、大人にならなければならない。
 空を見上げる。
 昼間とは異なり、空は雲一つ見えない。月の大きな夜だった。
「大三角形は見えるかな?」凛が訊いた。
「夏のやつは流石に見えないでしょ」
「そっか」と、空を見たまま笑った。
「北斗七星とか見えるんじゃない?」
「あれは冬の星座だよ」
 へぇと頷いた。
 それから知りもしない星座について語り合った。
 しばらくそうしていて、時間はあっという間に過ぎていく。
「ねぇ、凛」
「どうした?」
「提案なんだけどさ」そう前置きしたうえで、ひまりは言った。
「――私たち、結婚しようか」
 風が吹く。
 たった一つの電灯に照らされた桜の花びらが、ひらりと膝元に舞い落ちた。
「お金は二人合わせればどうにかなる。結婚式は挙げなくてもいい。私は凛と、もっと同じ時間を過ごしたい。二人でずっといたい」
 向こうの景色を見たまま言った。
 そこにはおどけた雰囲気なんて一切なく、真剣なひまりの表情は未来を見据えていた。彼との二人の未来を。
「ねぇ、駄目かな」
「……正直言って、めちゃくちゃ嬉しい。嬉しいけど、でもまだ俺たちにはまだ早いんじゃないか」
「そうかな。結婚すれば二人の時間も増えると思う。私は凛と、これからもずっと一緒にいたい。二人だけの帰る場所が欲しい。帰ってきて、『おかえり』って言って欲しい」
 凛は空を見上げた顔を下ろして、視線を地面にやった。
「俺はさ。これから先の人生でひまり以上の人には出会えないと思う。だからこそ、大切にしたい。もっと時間をかけてもいいんじゃないか」
 それはそうかもしれない。ひまりは結婚を急いでいるのかもしれない。
 しかし結婚相手は彼以外に考えられないし。それは未来でも変わらないだろう。それならば今結婚したところで別に構わないではないか。
 そして何より、結婚することで親を安心させたいと思っていた。
「凛は、私意外と結婚するつもりは無いんだよね。お金の事とかは分かっている。でも、結婚したいの」
「俺たち二人じゃあまだ何もできないんじゃないか」
「それでも私は、凛と二人でいたい。家族になりたいの!」
 少し張り上げた声が、児童公園にこだました。
「俺たちは世間からみればまだまだ子供だ。俺は責任を取れる自信がまだ芽生えてない。それに家族を養えていける自信がない」
 少し沈黙が降りた。そしてひまりがねぇ、と強気に言った。
「ちょっと待ってよ。凛だけが責任を負わなくちゃいけないと思ってない?」
 え、と言う凛に更に言葉を重ねる。
「責任ってのはさ、私たちが二人で分け合うもんじゃないの? 養うとか養えないとかじゃない。男だからとかいい。女だからとかはいい。関係ない。確かに結婚は大変だよ? でも責任が凛だけに掛かると思ってない? 私は凛と二人で人生を歩んでいきたい。責任も幸せも、ずっとずっと半分こにしたいの」
 想いを伝えると、凛は時間をくれと言って、黙った。そしてわかった、と言った。
「確かにその通りだ。責任は俺だけが負うものじゃない。それに俺はひまりと生きていきたい。これから先も。好きになる人はたった一人だろうな」
 だから、と言う。
「うん。結婚しようか」
 ひまりは口に手を当てて、目を潤ませる。
「ありがとう」
 ひまりは心の底から言った。
 学生結婚をするということ、遊ぶことが出来なくなるというのに、それに目もくれず首肯した凛は、ひまりに一途なのだと理解した。
「プロポーズとか指輪とか。改めて俺からやらせてくれ。男なんだからさ」
「そんな時代遅れな事言わなくていいよ。それに、私は凛と一緒にいたいだけなんだから。指輪とかはあってもなくてもいいよ。二人でいられるならさ」
 ひまりの部屋と同じような六畳半くらいの部屋で、二人で暮らす。きっと想像したよりもずっと不便ではあるだろうが、そんな切り詰める生活も悪くない。
 顔を見合って、微笑んだ。凛も微笑み返す。
 それから付き合った日のように、互いの手に手を重ね合って、それから指を絡ませた。
 自分たちは大人になった。けれど町の風景は変わらない。
 それは当たり前のことで、皆が経験することだ。きっと自分たちの身体だけは大人になっても、しかし心はまだまだ若い。
 四年が経過した今でも二人の愛の新鮮さは色褪せない。
 大人にならなければならないのに、心はいつまでも若いままで。
 しかし歳だけは勝手に重なっていく。
 だけどそれはそれで、二人にとってはいいことなのかもしれない。
 こんなにも愛し合うことができているのだから。
 目と目が合った。一瞬、恥ずかしそうに視線を外したのを、ひまりは見逃さなかった。
 触れられる距離まで、顔を近づける。
 体温や息遣いが肌で感じられるほど、彼は目の前にいる。
 瞳を閉じた。
 ひまりの唇に優しく、彼の唇が触れる。
 その日、二人は初めて唇を重ねた。
 どんなキスよりも忘れられないものになると、この幸福感が告げていた。