まず初めにカラスが鳴いた。
 その次に遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
 最後に呼応するように近所の犬が吠えた。


 目を覚ますと外は真っ暗だった。
 大粒の雪は相変わらず降り注いでいて、昼間より積雪が増えたように見える。
 クリスマスイヴは終わったかと時計を見てみれば、全くそんなことは無く、短針は八を指していた。
 どうやら長めの昼寝をしていたようだった。まだ覚めようとしない身体を無理やり起こして、伸びをする。それからテレビとコンシューマーゲームの電源を付ける。
 引きこもりがすることと言えばネットゲームくらいしかない。俺も例外ではなく、一日をただゲームで消費している。そして今日もいつものように、惰性でゲームをしようとしていた、その時だった。
 階段下から声がした。恐らくは親父が俺を呼んでいるのだろう。およそ一年ぶりに親父の声を聞いた気がした。
 しかし残念なことに、ここからでは何を言っているかうまく聞き取れなかった。わざわざ立ち上がって親父の声を聞きにいくのも面倒なので、無視してやり過ごそうかと思ったが、どうしてかその時は重たい腰が上がった。
 どうしてこんなことをしなければならないのだと、自分に何度も問うたが、不思議とその足が止まることはなかった。
 階段を下る。やがて俺は階段下へと辿り着いた。
 そこには親父がいた。白髪交じりで痩せ細っており、顔には疲れ果てたように皴が幾つも刻まれていた。
 親父の顔を見るのが久々だったため、こんなに老けていたことを知らなかった。
 親父も俺の顔を不思議そうな表情で見つめると、ぎこちない笑みを作って俺をリビングへと招いた。
 親父の後をついていくと、リビングは昼間見た時よりも清掃されていた。匂いこそ酷いものの、この部屋ならばまぁ汚い済ませられる程度だった。いつもとは違う姿に、親父が何かするのではないかと警戒した。
 冷蔵庫から小さな白い箱を取り出した親父は、俺の前まで持ってきて立ち止まった。
「さぁ、開けてごらん」
 絞り出すように、微笑んで言った。
 親父の声はそんな掠れていただろうかと記憶を巡らせたが、年に数回しか耳にしない親父の声は、俺の脳みそからは消去されていた。
 ふと、親父が箱の下を右手で抑えるようにして、何かを隠しているのが見えた。
 首元を掻くふりをして箱の下を覗くと、きらりと刃が光って見えた。それはいつも俺が料理に使用している包丁だった。
 まさか俺のことを殺すつもりだろうか。あの包丁は「よく切れる包丁」の謳い文句で売られていたものだ。ブロック肉ですら滑らかに切れるのだから、人の首を断つことも容易にできるだろう。
 俺はこの状況から、親父を抑える方法を考え始めた。しかし箱の中身を見てからでなければ、これからどう動くべきかが分からない。結局俺は親父に従って、箱を受け取り、テーブルの上にそっと置いた。持った限りでは、箱には少し重たいものが入っているようだった。
 すると、隠すものが無くなり親父の包丁が露わになった。しかし右手に握ったまま、俺が箱を開けるのを待っている。
 緊張しながら、ゆっくりと箱を開いた。
 そこにはケーキがあった。
 四号サイズで、大人二人が半分にするには丁度いいショートケーキ。縁取るように生クリームが盛り付けられており、中央には大きなイチゴが四つ、そしてその上に砂糖菓子で作られたサンタクロースがにっこりと微笑んで、「Merry Christmas」と書かれたクッキーを持っていた。
 親父はケーキを見た感想を伺うように、俺に近寄った。
「どうかな?」
 その問いに、身体に力がこもっていく。
 歯を食いしばって、手のひらに爪を立てて、どうにかその感情を抑えようとした。しかし意志とは反対に、頭はそれに支配されていく。
 何を今更。
 どうして今なんだ?
「これは……どういうつもりなんだ?」
「翔太が喜ぶと思って」
 その一言で、俺の中の何かが崩れた。
 十年前からの不満が身体を巡り、何もしてこなかった父親への怒りが身体を巡り、俺を育てることを見限った父親への怒りが身体中に回った。
 ――どうして今なんだ?
 次の瞬間、俺は机に置かれたケーキを右手で薙ぎ払っていた。みちゃりと音がして、ケーキは地面に落下した。ケーキはひっくり返って虚しく潰れていた。
「翔太、喜ぶと思ったんだけどなぁ」
 掠れた声で、心底悲しそうな表情をする。
 今までに感じたことのない怒りが身体を支配した。まるで自分の身体ではなくなっていくような感覚に襲われた。
 今までの全てを無かったことにするように、見るもの全てぐちゃぐちゃにしたい衝動に駆られた。
 その間にも、親父は悲しげな表情で床落ちたケーキを見つめている。すると、しゃがみこんで、落ちたケーキを手で一つ一つ拾い始めた。そんなことをしたところで、まさか食べるわけでもあるまい。
「もうやめてくれよ……」
 心からの声だった。しかし親父はやめようとしない。次第にその左手には、野球ボールほどの大きさのケーキだったものの塊ができていた。腕はクリームで汚れていく。憐れだった。
「やめろって、言ってんだろ!」
 その手を薙ぎ払った。
 怒りは俺の身体を、知らぬ間に動かしていた。
 もう、止まらなかった。

 気づいたときには目の前には、真っ赤に染まった生クリームが広がっていて、その手前には横たわって動かない親父がいた。ケーキは親父の下で潰れて広がっており、俺の手には包丁が握られている。
 その状況は物語っていた。――怒りに任せて親父を殺めてしまった、と。
 握られた包丁に目をやると、銀色の刃が真っ赤に染まっていた。
 あぁ、俺はこれで親父を殺したんだ。
 途端、穴の開いた風船のように怒りがすっと抜けていく。そうして冷静さを取り戻すと、自分の犯してしまったことの重大さに気が付いた。
 なんてことをしてしまったのだろう。
 もう一度親父だったものに目を向けると、先程よりも更に血の池が広がっていた。
「親父……?」
 呼びかけても応答することはない。
 次に考えたのは、自分の事だった。殺人をしてしまった。少年法はもう適応されないこと、死刑かもしれないこと、どうやって逃げようかということ、もし捕まったらどう言い訳しようかということ、死体をどこに隠そうかということ、警察はどうやって逮捕しているのかということ。
 そして――その全ては俺が死ねば解決するということ。
 簡単な事だった。この十年間の苦しみは、ただ俺が死ねば全て解決できたのだ。
 金以外の全てに恵まれず、両親の愛を知らずに生きてきた。
 次に生まれ変わるのならば、どんなに貧しくてもいいから、才能なんてなくていいから。両親がいて、ちゃんと愛を注いでくれて、それで真っ当に生きることのできる環境が欲しい。
 首に包丁をあてて、サンタクロースに身の丈に合わないお願い事をした。
 どうか、真っ当に人生を送れますように。

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