文化祭の日がやってきた。
 気づかなかったのだが、どうやら思った以上に自分は凛が来てくれることに期待しているらしい。心の奥に、むず痒い感覚を覚えた。
 いつもよりも一時間ほど早く目覚めたひまりは、カーテンの向こうから漏れる光から、まだ空に日が昇りきっていないことに気づいた。
 軋むベッドから身体を起こし、久しぶりにカーテンの向こうを覗いてみる。右に見える秋村家は視界に入らないよう、左の空を見た。
 淡い水色と朱色が混ざった空は、今が早朝だということを示している。今日の文化祭は雨が降らなそうだ。自分には関係ないことのはずなのに、どこか安堵を覚えた。
 少しだけ開いたカーテンを再び閉める。
 それからベッドに入り、また眠りにつこうとしたが、意識はずっと現実にいたままだった。
 身体が眠ろうとはしてくれず、そのままベッドから立ち上がった。
 まだ皆が眠っている家を一人で歩いてみる。今までずっと引きこもり生活を続けてきたが、夜中に目覚めることはあっても、早朝に目覚めることはあまりなかった。
 階段を下ると、家の中ではあるが早朝の新鮮な空気を感じる。
 そのすぐ先には玄関がある。
 もしも今日、八時頃に彼が来て、この手を取って文化祭に連れて言ってくれるのなら、きっと自分は嬉しさに舞い上がってしまうだろう。
 この玄関の向こうに連れて行ってくれるのなら。
 少し浮き立つ心を抑えて、リビングへと向かった。そしてそのままソファに寝転んだ。
 自分は平常心であると言い聞かせるため、いつも家で過ごしている時間と変わらない動きをした。つもりだったが、早く目覚めたことが何より期待している証拠だと言うことに、ひまりは気づかなかった。

 騒がしい声で目を覚ました。
 いつの間にか眠っていたらしく、家族の声がした。今日は休日だから、父親の声もした。
 体を起こして、家族におはようと言う。両親からはおはようと返ってきて、灯花からは元気のいい「こんにちは」が返ってきた。
「朝だから『おはよう』だよ」
 朝だからとは言ったものの、今の時間がよく分からない。
 テレビから朝のバラエティ番組の音声が聞こえていたので、そちらに目を向ける。そこにはタレントが食レポをする姿が映し出されており、その上には『八時四十分』と表記されていた。
 ……今の時間が「おはよう」かどうだとか、どうでもよくなった。
 その時間はホームルームが終わる時間で、一限の準備の時間でもある。今日に限っては詳しく知らないが、始業の時間が遅くなることは決してないだろう。
 つまり、ひまりは凛に嘘をつかれたのだ。
 「ねぇねぇ」と健気に身体を揺する灯花がうっとおしく思えて、ソファの背もたれ側に向けて、再び身体を倒した。
 「朝ごはん、食べないの?」と言う母親にも、「要らない」と、冷たく言った。
 裏切られた気分だった。
 いや、初めから凛は冗談を言っていたのかもしれないが、それでも少しくらい自分に都合のいい夢を見てみたかった。
 しかし凛は来なかった。
 そんな現実から目を背けるように、ひまりは再び目を瞑る。
 眠りになんて、つけるはずがなかった。

 眠ったふりをしていると、インターホンが聞こえた。
 あの音は否応なしに意識が向けられてしまうため嫌いだった。インターホンに応じるため、内山さんが玄関に向かう。
 目を開いた一瞬を逃すまいと、灯花が耳元までやってきて、大きな声で「おはよう!」と言う。目を覚まさざるを得なくなり、ひまりは煩わしそうに身体を起こした。
 テレビ番組は先程と同じように流れており、時間表示を見てみれば『九時三十二分』と表記されていた。
 今頃は文化祭が始まっているだろう。しかし自分には関係のないことだ。
 不満をぶつけるように、手前にいた灯花の髪をくしゃくしゃにしてやると、灯花はいつも以上に喜んだ。
 遅めの朝ご飯でも食べようかと、母親のいるキッチンへと向かおうとすると、リビングの入口から顔を覗かせる内山さんに呼び止められた。
「ひまりちゃんにお客さんだってさ」
「えっ?」
 想定外の一言に、素っ頓狂な声を上げてしまう。
 もしもクラスメイトだったら断ってもらおう。いいや、そもそも学校の生徒がこの時間に来るはずがない。なにせ今は文化祭が催されているのだから。
 そうなると尚更、来客者に心当たりがなかった。
「その人って、どんな人?」
「齋藤君って言ってたよ」
 その言葉の意味を理解できないまま、ひまりは玄関へと向かった。
 そこにいたのは、アルバイト先でよく見る男の子で、ひまりが引きこもっていた間、唯一心配をしてくれて、家まで来てくれた男の子だった。
 「よ」と、凛はいつも通り軽い挨拶をした。
 ひまりは挨拶を返さずに、そのまま凛の元へと向かう。
「なんでいるの?」
「そりゃあ約束したし」
「でも今の時間って、文化祭始まってるんじゃ」
「だから迎えに来たんだよ」
 その言葉の意味が理解できず、ひまりは言葉を発することを忘れてしまった。
「俺はひまりと二人で文化祭を回りたいんだ」
 そう言って、凛はひまりに手を差し伸べた。その姿はまるで舞踏会にて「一緒に踊りませんか」と誘う王子様のように見えた。
 ひまりは驚いて言葉を失いながらも、その手をゆっくりと掴む。
 掴んだ手を握られ、ひまりは凛の顔を見た。彼が顔を真っ赤にして恥ずかしそうな顔をしていたから、急に今の状況が恥ずかしいものだと感じてしまい、自分の顔まで真っ赤になる。
「あ、その格好じゃ文化祭行けないから、着替えてきて」
 折角のロマンチックな雰囲気をぶち壊す凛の言葉にきょとんとしながらも、その言葉が何だか馬鹿らしく思えて、ひまりは声に出して笑った。
 そんなひまりを見て、凛も同じように笑う。
 緊張が解けて、凛はお客様として誘ってくれたのだと気づく。
 そして、自分は心の支柱が欲しかったのだと気づいた。家族以外の誰かを欲していたのだ。学校という社会で一人ぼっちで頑張ってきた。でも、もう見栄を張るのは限界だった。
 彼と一緒なら、そのままの自分を曝け出せる気がする。
 もしも自分の罪を問われている感覚に陥り、自らを拒絶してしまっても、彼がいるだけで「大丈夫」と支えてもらえる気がする。
 彼と一緒なら、私は決して取り繕わない、「高木ひまり」として生きていける気がする。
 彼と一緒なら、私は私であれる気がする。
 彼と一緒なら、私はこの先の人生を真っ当に生きていける気がする。
 随分と使い古された表現だけれども――彼こそが運命の人だと思った。