簡単な事ではなかった。
 たった一枚壁を隔てた向こう側に、つい二日前まで自分はいた。
 しかし今は、その壁の向こうが怖い。カーテンを開ければ誰かが見ている気がして、どうしようもなく不安に襲われる。
 自分でもどうしてこうなるのか分からない。だからこそ怖い。自分が変わる瞬間を知ってしまったから、何も考えていなかった時間にはもう戻れないのだと思ってしまう。
 アルバイト先には母親に頼んで、長期の休暇を取ってもらった。彼らは皆優しい人で、負担を増やしてしまうことは物凄く申し訳なかったが、今の自分と触れ合うことで彼らを傷つけるよりはましだと考えた。
 中学時代、家に引きこもっていた時は読書ばかりをして時間を潰していた。
 しかし今はそんな気も起きない。ただ受け身になって観ることのできる、テレビ番組や動画サイトしか視界に入れられなかった。もっとも、その情報は一切頭に入ってくることはないのだが。
 家には母親と灯花がいたから、一人ぼっちで寂しさを感じることは少なかった。それでもどこかへ出かける時は、ひまりは人に恐怖を抱いているため、家に取り残される。そうすると、孤独感に襲われる。
 今もそうだった。一人の時間が早く終わるように願って、ひまりはソファでテレビ番組に目線を向けていた。しかし耳はその音を取り入れていない。
 ただ流れる映像をその瞳に移しているだけ。
 もし画面の向こうにいるタレントが唐突に家に来たのなら、自分はまたあの時のように吐いてしまうのだろうか。なんて番組とは全く関係ない不思議なことを考えている。
 すると玄関の扉が開いた。母親たちが帰ってきたのだろう。ソファから起き上がらなかったが、内心喜んだ。
 ややあって、どたどたと足音が家中に響いた。そのあとに、母親の窘めるような声が聞こえた。そんな二人の姿を音から想像して、ひまりは微笑んだ。
 すると足音がどんどん近づいてきた。十秒もしないうちに、寝転がっていたひまりの上には、灯花が乗っていた。
「お姉ちゃん!」
「おかえり」
「ただいま!」
 灯花は元気よく言った。
 二歳と半年が経過して、随分と大きくなった。日々お腹の上に乗る灯花の体重も増加しているのが分かる。少しだが重たく感じた。
 ひまりは灯花のことを持ち上げると、そのまま体を起こしてソファに座った。そして灯花をたかいたかいしてあげる。
 灯花は笑って喜んだ。五回ほどして二の腕の筋肉がぴりぴりと痛んできたので、灯花をソファの上に降ろす。
「えー、もっとやってよー」
「腕が痛いからまた後でね」
「前はもっとやってくれたじゃん」
「灯花が重くなったからだよ」
「えー」
 口を膨らませて不満を露わにする。そんな愛らしい表情を見ていると、もう一度たかいたかいをしてあげたくなってしまう。しかし二の腕が悲鳴を上げていて、どう頑張っても出来そうにはない。
 「ごめんね」と頭を撫でる。すると灯花の膨らんだ頬からは空気が抜け、目を細めてにこっと笑った。心が癒されていくようだった。
 灯花は何も言わずに走ってリビングを出ていった。数秒ほどして、両手が塞がるほどの買い物袋を持った母親と共にリビングに戻ってきた。
 そしてまたひまりの元へと来て、「たかいたかいして!」と言う。
 「また後でね」と言って、ひまりはソファから立ち上がった。隣で拗ねる灯花をよそに、ひまりは母親の元へと向かう。
「ママ、おかえり」
「ただいま」
「重そうだね。手伝おうか?」
「頼める? これ、冷蔵庫入れておいて」
「分かった」
 ひまりは灯花の体重くらいある買い物袋を受け取った。母親の支えが無くなった途端、買い物袋は重みを増して、重力に負けて身体ごと倒れこみそうになった。
 中のものを傷つけないようにゆっくりと地面に買い物袋を置くと、たかいかたいで使った筋肉が更に痛めつけられた。後ですると言ったものの、だいぶ先の話になりそうだ。
 冷蔵庫を開けて、果物や野菜を入れる。大量に買い貯めをしたためか、買い物袋の底には穴が開いていた。
 すると足元に何かが触れた。灯花だった。
「わたしもやりたい!」
 小さな灯花には冷蔵室は手が届かない。そのため、どうにかしてやらせてあげる方法でもないかと考えながら作業を進めていく。
 その時、ひんやりとした感触が手の甲に触れた。見てみると、アイスクリームだった。
「じゃあ、アイスを入れよっか」
「うん!」
 灯花は元気よく言った。
 アイスクリームは溶けてしまうため、一番に入れなければならなかっただろうが、ひまりは気づかずに野菜から入れてしまった。カップアイスは汗をかいたように水滴が付着していた。
 しかし灯花が入れるには丁度いい。冷凍室は冷蔵庫の一番下にあるため、灯花であっても手が届くからだ。
 灯花はアイスクリームの入った袋を床にひっくり返すと、カップアイスはころころとリビングの方へと転がっていった。それを灯花が取りに行く。
 冷蔵庫前には幾つかのカップアイスとスティックアイスとひまりが残された。
 ひまりはそれを拾い上げて、再び袋の中にしまう。冷凍庫に入れてしまえば、灯花のことだから駄々をこねるだろうと考えたのだ。
 少しして灯花が戻ってくる。その手には転がっていったカップアイスが握られており、歩くたびにアイスクリームがかいた汗が部屋中に飛び散った。
 ひまりは冷凍室を開く。
「はい、入れて。ここだよ」
「分かるもん」
 ぽいと投げ捨てるように入れた。それをひまりは拾い上げて、もう一度灯花に手渡す。
「投げちゃだめだよ。もう一回」
「はーい」
 今度は丁寧に置いた。冷気が顔に当たって楽しそうに笑っている。
 そして床に置かれているアイスクリームの入った袋を拾い上げた。先程まで置かれていた場所はじわりと湿り気を含んでいた。
 灯花は次々とアイスクリームを入れていく。その手つきは随分と手慣れていた。いつもやっているのだろう。
 そうして素早く入れていると、灯花の手が止まった。袋の中からアイスクリームを取り出すと、そのパッケージをひまりに見せつけた。
「これ、わたしの!」
 それは小さな木の実のようなアイスクリームが十個ほど入ったものだった。いくつか味があるようで、パッケージには様々な果実の絵が描かれていた。
「買って貰えてよかったね」
 目線を合わせて微笑みかける。すると、灯花はひまりにアイスクリームの入った袋を「はい」と手渡した。
「あとはやっておいて!」
 ひまりは「待って」と声を掛けたが、その時には灯花は自分勝手に走り出して、ソファに勢いよく飛び込んでいた。そしてアイスクリームを一つずつ、丁寧に口に入れては幸せそうな顔をしている。
 ひまりは受け取った袋をひっくり返して冷凍室に入れた。冷凍室はアイスクリームで溢れた。
 やれやれとは内心思いつつも、表情は緩んでいた。
 そんなひまりと灯花のやりとりを、端で見ていた母親も表情を緩ませる。
 ゆったりとした時間が流れていた。やはり家族はいいものだと思う。現実を忘れて、この時間がずっと続けばいいのにと願った。