教室へ戻ると、学級委員の女子生徒がひまりを待っていた。昼休みの最中であるため、教室には他クラスの生徒も多くいた。そんな中、学級委員長はひまりに近寄ってきた。
「鍵、借りてきた?」
「うん、借りてきたよ。これだよね」
 握りしめていた鍵を学級委員に見せた。そこにはラベルが張られており、「数学準備室」と書かれている。数学に準備することなんてあるだろうか。
「そう、それそれ。ありがとうね」
 ひまりは照れくさそうに頷いた。感謝されることに慣れていない、ひまりらしい反応だった。
「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「ひまりちゃん、船山先輩に会ってきたでしょ。どうだった?」
 学級委員はにやにやと口角を上げながら訊く。
 船山先輩にはいい印象を持たなかった。誰かを蔑む視線、誰かをそういう目で見ているのがひまりには分かったから。彼は決して皆が求めるような人間像ではないのだろう。
 しかし皆はひまりのように思っていない。彼はその容姿だけで人気者になったのだ。そのため、濁して言った。
「顔はよかったけど……人柄はちょっと苦手だったかな」
「えーそうなんだ。どこが、どこが?」
 興味ありげに訊いてくる。
「なんか見下されてる感じがして、少し嫌な感じがした」
「へぇ、そんな人なんだね。ありがとう」
 そこまで言ったところで、教室の扉が勢いよく開いた。その音に教室中の視線が一か所に集まる。教室は静寂に包まれた。それは次第に歓声や耳打ちで囁く声に変わっていく。
 そこに船山がいたからだ。
「ひまりちゃんいる?」
 教室の誰に向けたわけでもなく、ひまりに向けて少し大きな声で言った。
 彼の一言で、船山に集まっていた教室中の視線は全てひまりに向けられた。今まで向けられたことのない視線の数に、ひまりはたじろいでしまう。
 すると、学級委員がぽんと肩を叩いて意識を現実に引き戻してくれた。
「ほら、船山さんだよ。用があるんじゃない?」
「あ……うん」
 そうしてひまりは、入り口付近で待つ船山のもとへと向かう。
「あ、いたいた」そう言って、船山は教室の中へとずかずかと入ってきた。一年の教室に三年の先輩がいる姿は異様だった。
「せ、先輩。何か用ですか?」
 少し距離をとって、船山に話しかけた。
「別に怖がらなくていいよ。ひまりちゃんと少し話がしたかったんだ」
「話って、文化祭の事ですか?」
「いやいや。そうじゃない。今日の放課後、一緒に遊ばないかっていう話」
 途端、背筋が何者かに撫でられたかのように寒気がした。やはりこの人は近づいては行けない人だと悟った。
 しかし教室にいる女子はそうではなく、ひまりがあの船山先輩に誘われたという事実に嫉妬や興奮している様子が見られた。「どうしてひまりが」という声も聞こえてきた。
「わ、私はバイトがあるんで、無理です」
「その後でもいいからさ。あ、もしかして人と話せないのを気にしてる?」
「……それをどこで、聞いたんですか……」
 鳥肌が立った。今すぐにでも彼の元から逃げ去りたかった。その事実を知っていてたとしても、実際にひまりに対して言った人物はこれまで一人もいなかった。
 自分のトラウマを掘り返されている感じがして、少しずつ胃の奥に込み上げるものを感じた。久々の拒絶反応だった。しかしこの程度なら、どうにかできる。初めて中学校に行った時はもっと酷かったのだと、自分に言い聞かせた。
「いや、噂だよ。昔、友達を傷つけちゃったんでしょ? でもそんなの大丈夫だよ」
 無責任に、ひまりのことなんて一切考えずに言った。彼の目に入っているのは、「高木ひまり」という人物の皮だけなのだろう。
「別に傷つけただけなんでしょ? まさか――人を殺したわけでもあるまいし」
「い、いや……」胃の奥から込み上がってくる。
「大丈夫だよ、さぁ――」
 船山はひまりの細い腕に手を伸ばした。
 瞬間、物凄い圧迫感に襲われた。
 どうしようもないくらいに全身が苦しい。針地獄に堕ちたような。それでいて身体の中をぐちゃぐちゃに搔きまわされるような。
 ひまりに対してその言葉だけは、絶対に言ってはならなかった。
 次の瞬間、ひまりの足元には吐瀉物が溢れていた。ぴしゃぴしゃと音を立てて、それは留まることなく増えていく。
「うわ……」
 船山は心から蔑んだ目で、ひまりから離れる。その足で教室から立ち去った。
 その間にも足元を覆う吐瀉物は増していく。もう、何も吐き出すものがないくらいに長い間吐いていた。次第に物体を出すことをやめて、苦しみや恐怖が身体の中から湧いてきた。
 生徒たちはひまりに蔑みの目を向けた。

「人に触られて吐くなんて最低」
「それもあの船山先輩でしょ?」
「こいつ、まじ汚ねぇ。折角遊びに誘って貰ったのに、更に可愛がってもらおうとしたんだろ?」
「きも」
「近寄んな」
「クズが」

 ひまりは頭を抱えて、吐瀉物の海にうずくまった。
 ブラウス越しに、自分から出た吐瀉物の温かさを感じる。
 耳を塞いで、その声を聞こえないようにした。誰にも触れられないようにした。幸か不幸か、その吐瀉物はひまりだけの結界の代わりを成した。
 あぁ。私、だめだ……。
 悲しいのか悔しいのか自分でも分からない。ひまりの目からは涙が溢れていた。溢れて、止まりそうになかった。
 怖い。周囲の目が、声が、怖くて堪らない。
 私、どうしていつもこうなるんだろう。

 なんで、なんで、なんで……。
 もう嫌だよ……。

 嘔吐か嗚咽かも分からない。何度も息を吸い上げて、ひまりの苦しそうな呼吸音だけが教室中に残っていた。
 誰一人として、ひまりには近寄ろうとしなかった。
 その後のことはよく覚えていない。