日曜日の昼下がり。ひまりは意を決して母親の前に立っていた。
「ママ、今大丈夫?」
「大丈夫だよ、どうしたの?」
「話がしたいの」
 母親はソファに寝転んで顔も合わせずに会話をしていたが、その言葉を聞くと身体を勢い良く起こした。髪には少し寝癖が付いている。
「話って、昨日のこと?」
「そうだよ」
 と言うと母親は笑って、ソファの端に寄った。ぽんぽんと空いた席を叩き、座るよう促す。言われるがままにひまりはソファに腰かけた。会話のノイズになると考えたようで母親はテレビを消した。
 ひまりから口を開くことを待っているのか、母親は黙ったまま真っ黒なテレビ画面を見つめている。そんな時間がしばらく続いた。そしてゆっくりと口を開いた。
「ひまりがさ、話があるって言ったの初めてじゃない?」
「そうなの?」
「そうだよ。だってひまりはいつも一人で出来ちゃうからさ」
「私、不登校だよ?」
「そんなのはどうだっていいの」
 母親は微笑んだ。
「話って、内山さんの事でしょ?」
 返事の代わりにひまりは頷いた。
「ひまりはさ、私に結婚してほしいの?」
「それは……」
 言い淀んでしまった。それはひまり自身の願望ではなかったからだ。
「なら結婚しないな。私はひまりのことが大切だもん」
 そう言われると、ひまりは言い返せなかった。
 そんなひまりを待っていたかのように笑うと、母親は横から顔を覗き込ませた。
「でもさ、何か理由があるんでしょ? たまには私にもママでいさせてよ」
 やっぱりこの人には敵わないと思った。
 自分が母親を幸せにしたいと思っていたはずなのに、気づけば逆に自分が心配かけていた。考えようによっては、ひまりの精神年齢は三十歳なのだ。立派な大人なはずの自分は言葉を詰まらせてしまって、返事すらできない。人間としての格の違いを見せられた気がした。
 それからひまりは諦めたように口角を上げた。
 母親の優しさを前にして、不思議と心が穏やかになっていく。先程までどう動かせばいいか分からなかった口も、今ならば動かせた。
「私は、ママに幸せになって欲しい。私のせいでママが幸せになれないなんて嫌」
「……そっか。別にママはひまりのことを重荷なんて思ったことは一度もないんだけどね。でも、そう思わせてたのなら、ごめん。謝る。ママはひまりと一緒に暮らすことを一番に思ってるの。ひまりが一番大事だから、ひまりが一人で生きていけるまでは、私は全力で支えたいの」
 母親が自分のことを『私』と呼んだ。それはひまりにとって、母親の心からの言葉だという証明になった。
「でも、私のことを考えてくれるのなら、尚更結婚してほしいと思う」
「ひまりは、内山さんが嫌いじゃないの?」
「別に、内山さんは大丈夫なの」
「大丈夫……?」
 言葉の意味が分からないようで、母親は不思議そうな顔をした。
 正確にいつごろから学校に通わなくなったのかを覚えていない。ただ、小学校の半分以上は家にいた。そんなひまりに母親は無理に理由を聞き出そうとはしなかった。嫌がることはしなかった。親としてその行為が正しいのか分からない。しかし絶対に理由を言いたくなかったひまりにとって、何よりそれが嬉しかった。
 ――人殺しだなんて、誰にも言いたくない。言えるわけがない。
 でも、母親の温もりにあてられて、せめてさわりの部分だけでも伝えなければならないと思った。母親はずっと待っていてくれたのだ。
 それが今、自分の出来る最大限の恩返しなのかもしれない。
 色々あった過去を整理するように壁の模様を見つめて、それから口を開いた。
「私は誰かと話すことが苦手なのはママも知ってると思うけど、それが理由で学校に行けないの」
 できるだけ情報を減らして、それでも伝わるように言葉にした。
 母親は続きを聞こうとはしなかった。ただ黙って、相槌もせずに、ひまりの言葉を受け入れるように耳を傾けた。
「理由は言えないけど、私は人と関わることが怖くて。ママとか内山さんは大丈夫なの。でも、人と話せないのはいつまでも治らないかもしれないし、今も人と話せないのかは分からない。少しくらいは良くなってるかもしれないけど。私がいると迷惑になっちゃう。だからこんな私を置いて、ママは自分のしたいようにしていいんだよ?」
 自分がどうしてここまで親を大切に思うかは分からない。ただ、生まれ変わったとき見た母親の表情が知らないものだったから、それが何よりも大切な幸福だったから、自分の人生を犠牲にしても守りたいと思ったのかもしれない。
 親父はどうしようもない人間で、自分もどうしようもない人間だ。なるべくしてそうなった人間だ。でもこれだけははっきりと言える。母親はそんな蚊帳の外にいるような人間に、幸福を害されていい人間ではない。
 ひまりの言葉を聞いた母親は、心底嬉しそうに微笑んだ。それから優しくひまりの手を包み込んだ。
「ひまりが打ち明けてくれて、ママ嬉しい。こうして話し合えば、思ってることも分かるんだね。ひまりがそんな風に思ってること、知らなかった」
 包み込む手が一つ増えた。
「でも、ひまりは一人じゃない。ママがいる。大丈夫だよ」
 欲しい言葉ではなかったのに、どうしてか涙腺が刺激された。そうしてまた、敵わないな、と思う。精神年齢は近しいはずなのに人間として、ここまでの違いが生まれてしまうものなのだろうか。
 ふと頬に手を当ててみると、雫が手を濡らした。
 本当に、こうして母親と話し合ったことが初めてだと気づいた。そんなひまりの心を読んだかのように、母親は「もう少し早く話し合えばよかったね」と笑う。
 話し合ってみれば簡単な事だったのだ。ただ少し、言葉が足りなかっただけで。
 ひまりは、包み込まれた手を握った。そして生前には感じることのできなかった愛情をその手と心にこめて、母親に微笑みかけた。
「ママも一人じゃないよ」
 ほんの少し、前に進めた気がした。