翌日、ようやくメインの花壇の草取りを開始して、わたしは手持ち無沙汰な様子のくまのぬいぐるみへと尋ねる。
「ねえ、どうせなら、綺麗になった花壇に花を植えようと思うんだけど」
「おお、いいねぇ……きっと綺麗なお花が咲くよ!」
「……それで、さ。あんたは、何の花が好き?」
「ボク? ここはメイちゃんのお庭だから、メイちゃんのすきなのでいいんだよ?」
「そうだけど、あんたの家でもあるでしょ。……家って言うか、何だろ、生えてるし、いっそ花壇が親……?」
「親……確かに……。ボク、今お母さんと繋がってる……!? 生命の神秘……!」
「花壇もぬいぐるみも生命カテゴリーでいいのかな……」
わたしのツッコミなどお構いなしに、くまはハッとして、やけに納得した様子だった。土に触れ感動の再会のような真似事をしている。
わたしはもう、このマイペースかつ突飛なくまの生態や思考パターンについて、理解するのは諦めた。
くまのぬいぐるみと時間を共にして分かったことは、やけにわたしについて詳しいことと、わたしに危害を加える様子はないということ。
それから、何だかんだわたしもくまと居る時間は安心して、まるで幼い頃の友達と遊ぶように、変に気を使ったりせず楽しいということだけだった。
「んー、なら、赤いお花が好きかなぁ。メイちゃんは?」
「花……わたしは、……桜? なんか、つい最近、桜を見てた気がする……」
「……春だからねぇ。でも、花壇に桜は植えられないね……」
「そう、だよね……」
庭に当然桜はない。ついでに言えば、コンクリートもなく土と砂利と草の自然な庭だ。
けれどやけに、舞い散る桜の淡い薄紅色と、コンクリートの灰色が、目に焼き付いているような気がした。何処で見たんだったか。
「……あれ、何これ?」
考え込みながら草むしりをしている途中、不意に雑草の隙間から、何か光る物が見えた。
手を伸ばし拾い上げると、それは土にまみれた大きなビー玉だった。
「あー、メイちゃんの宝物だねぇ!」
「? これが?」
無色透明の、五百玉くらいの大きさのビー玉。土汚れを落とし光に翳すように見上げると、硝子の中にキラキラと輝く青空を閉じ込めたようだった。
この小さな宝物のような光景に、見覚えがある。
「……もしかして、わたしが小さい頃好きだったビー玉?」
「せいかーい!」
思い出すと、やけに懐かしく感じた。確か小さい頃とても大切にしていて、花壇の花や青空、あらゆるものを映しては覗いて回っていた。これさえあれば、美しい世界はわたしの手の中だったのだから。
そんなに大切にしていたのに、ある日うっかり転がして失くしてしまい、探しても見つからず大泣きしたことを思い出す。
まさかそれが、こんな所に埋まっていたなんて。
此処も探したはずなのにと不思議に思いつつ作業を進めると、その後も次々と土の中から見覚えのある物が出てきた。
昔好きだった使いかけの香りつき消しゴム、小さい頃繰り返し読んでぼろぼろの絵本、誕生日に買って貰ったキラキラの玩具のネックレス。
それらは記憶の端に追いやられたような、見るまで思い出せなかった物ばかりだった。
成長するにつれ失くしていった、それでもかつて、宝物として大切にしていた物達。
「わたし、こんなにこの花壇で失くし物してた……?」
流石に引っ掛かりを覚え呟くと、発掘作業を眺めるだけだったくまのぬいぐるみは、ふと思い出したように声を上げる。
「あっ、ねえメイちゃん」
「ん?」
「あのね、今日でボクが生えてきて一ヶ月なんだよ」
「えっ、もうそんなに経つ!?」
「経つー!」
突然の話題変換に戸惑うのも一瞬で、結局一ヶ月毎日くまと過ごして来たから、このマイペースさにもいい加減慣れてきた。……が、やっぱり花壇から生えているくまのぬいぐるみなんて謎の物体が何者なのかは、結局分からなかった。
「ってことは、もう引っこ抜ける……?」
「いいよー」
あっさりとしたくまからの許可に、わたしは土に汚れた軍手を脱いであの日と同じようにその丸い頭を鷲掴む。
一ヶ月越しに謎が解けるかもしれないのだ、わたしのテンションはこれまでにないくらい高まった。
「……ねえメイちゃん? もっとこう、他の掴み方、ない?」
「腕でもいいけど、掴んで引っ張ったらもげそうじゃない? ぼろいし」
「……、このままでいこう!」
「よし。せーの……!」
わたしは、そのまま勢いよく土からくまを引き抜いた。
ぬいぐるみのサイズから予想していた以上の重みと手応えに動揺しつつ、一気に引き上げたくまの足には、何故かわたしが部活で使っているシューズの紐が巻き付くように括られていた。
「えっ」
「わあ!?」
思わず、くまを投げ捨てるように土の上に落とす。くまは顔面を土に埋もれさせ悲鳴を上げるけれど構っていられない。
よく見ると、くまの居た穴の中には、画面のひび割れたスマートフォンや汚れたスクールバッグが埋まっていた。あれらはすべて、わたしの物だ。
慌てて掘り起こしたスマホを確認すると、そこには最後に撮った写真が表示されていた。
「……、桜?」
「メイちゃん、桜に夢中で車に気付かなかったんだねぇ」
「え……?」
ずるずると汚れたシューズを引きずり歩く土まみれのくまの姿を見て、ぎょっとすると同時に締め付けられるように頭が痛んだ。
先程引き抜く際に頭を鷲掴みにされたことで僅かに歪な形状になったくまは、土に汚れた顔でわたしをじっと見上げる。そのつぶらな瞳を見詰めていると、何故だか動けなくなった。
足に括りつけられたシューズがあらぬ方向に放り出されて、それを引き摺りながら近付いてくる。
先程投げ飛ばされたくまの動きと、歪な今の姿が、とあるイメージと重なった。
車に轢かれ、頭をぶつけ、地面に転がされ、土にまみれながら折れた足を引きずる、わたし。
そんな光景を鮮明にイメージしてしまったわたしは、思わず自身の姿を確認した。
「あ……わたし……?」
「……花壇が綺麗になって、思い出した?」
「どういう、こと……?」
「花壇は、記憶を埋めるところだからねぇ」
「記憶を……」
再び頭が、ずきんと痛む。
そうだ、わたしは、あの日下校途中、車に跳ねられたのだ。それなのに気が付くと、無傷でこの庭に居た。
車に轢かれた後の記憶が、全くない。それどころか、今までそのことすら忘れていた。
最後に視界の端に見上げた桜と、身体を投げ出されたコンクリート。くまのリボンのような赤と茶色の間の色をした液体が視界を覆い、意識を手放した。
けれどあるはずの全身の激しい痛みも、今は感じない。あの事故は、いつのことなのだろう。
「もしかして、……わたし、死んだの……?」
そうだ、そもそもこの空間はおかしかった。見た目は紛れもなく、わたしの家と庭。
けれどこの一ヶ月間、家の敷地の外には出られなかったし、出ようとも思わなかった。
両親の居ない家に違和感も覚えず、日課だった走り込みだって一度もしなかった。部活の大会が近いのに、学校にだって行かなかった。
「……っ!」
わたしは、咄嗟に家の門へと向かう。嫌な予感を払拭したかった。けれど庭から続く門まで辿り着けず、外界から見えない壁で断絶されたように、庭から一歩も出ることが出来なかった。
「やだ、なんで……!」
「大丈夫。死んでないよ? ボクがメイちゃんを死なせるもんか」
「え……」
重たいであろうシューズを引きずりながら必死に追い掛けてきたくまのぬいぐるみは、そっとわたしの手を握る。
指がないから、握るというよりも手を押し付けてくる。それはいつまでも触れていたいくらい柔らかくて、無機物のはずなのに、少しだけ温かく感じた。
こんな謎の空間で、正体不明のこのくまが正直一番怪しいのに、不思議と怖いとは感じなかった。
「前に言ったでしょ? 花壇が綺麗になったら、帰れるよって。ボクも花壇から出られたしね」
「え……?」
「あのねメイちゃん。向こうは痛いも苦しいもあるけど、本当はずっと、一緒にここに居たいけど……」
そう言って、くまはわたしの身体をとんと押した。それは見た目からは想像出来ない強い力で、わたしはよろけて、押し戻され花壇へと尻餅を付く。
そしてそのまま、くまの埋まっていた穴へ落っこちた。
「メイちゃんなら、きっと大丈夫。昔の『大切』も、忘れてなかったもん。形が変わっても、辛くても、大切は大切って、ちゃんと思えるもんね」
「え、う……わあ!?」
わたしの混乱や驚きを他所に、昔好きだった絵本の少女みたいに、抗う術もなく穴の中へと深く深く落ちていく。
「メイちゃん、赤いお花、約束だよー」
わたしは手を振りながら遠ざかるくまを、やがて何も見えなくなるまで、呆然と見上げ続けるしか出来なかった。
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