☆美波
二十五歳の夏、陸斗から二年ぶりにLINEが来た。
『もう一度会って、話がしたい』
それ……私が二年前に陸斗と別れたばかりの頃、あなたに送ろうとした言葉だよ。まだ未練たらたらだった時。その言葉を打ったけれど、送信ボタンを押せなくて、結局消したやつ。
まるで二年前に消した言葉が、二年間空中にふわふわ浮いたままだったみたい。
今頃になって送ってくるなんて。
まぁ、予想はしていたけれど。
でもね、もう、遅いんだ。
あなたの事を諦められるように、前に進むためにいっぱい泣いたし考えた。
出した結論。
私ね、あなたに依存していたんだと思う。いつの間にかあなたが全てで、あなた以外に何もなかった。
あなたとの綺麗な思い出も汚い思い出も、全部、今でも大切。これからもずっと心の中にしまって、それを糧にして、自分を見つけて生きていくね。
あなたと過ごした日々を思い出しながら一文字一文字丁寧に文字を打った。
これが本当に最後のLINE。
『もう、会うとか、無理なんだ。ごめん。
これだけは約束して欲しいです。次に陸斗が誰かを愛した時、私みたいに慣れないで、相手の愛にちゃんと向き合って。そして、私みたいにわがままで我慢ばっかりして溜めこんでる。そんな人と恋に落ちないでください。最後のわがままに指切りをお願いします。
ありがとう。
さよなら。
ばいばい。』
送信して、すぐに彼の連絡先を全て消した。
彼が返事を書いて、送信を押しても、こっちに届かないように拒否設定にした。返事が来て、心が揺れてしまうかもしれない自分が、怖くて。
お互い別々の道を歩んでも、一緒に幸せになろうね。
あなたの幸せ、心から願ってます。
***
私が陸斗と出会ったのはちょうど今から十年前、十五歳の時だった。
高校に入り、同じクラスになって間もない頃から、私の事が好きなんだなって周りから見ても明らかに分かるような、情熱的なアプローチをされた。
休み時間、他の男子に話しかけられて、話していると必ず彼が近づいてきて、話に割り込んできたり、なんかペンケース持ってきて、中身全部入ってきてるのに、シャープペン貸してとか言ってきたり……。いちいち何かしら褒めてくれていた。髪の毛を三センチだけ切った時とか、誰にも気が付かれないような些細な変化にも気がついてくれて。
あと、視線を感じて振り向くと必ず彼がこっちを見ていた。
私は内気なタイプだったから、そんな彼に少しずつ惹かれていった。
LINEを聞かれた。教えあったその日から毎日夜寝る前に、学校の話とか会話して眠るのが日常になった。
『おはよう』『おやすみ』『今何してる?』なんて、どんな些細な事を送っても、既読になるとすぐに彼から返事は来た。私もすぐに返した。
私は完全、彼に恋をした。
そして彼も私の事、きっと好き。
日がたつにつれ、お互いの“好き”な気持ちも育っていった。
もうすぐ卒業だねって時、告白された。
その時の、天気、状況、景色、今でも鮮明に心の中で刻まれている。
雪が優しく降っていて、でもほのかに暖かい日だった。
学校の帰り道。
彼は門を抜けた所で、無邪気に友達と雪玉をぶつけ合って遊んでいた。なんだか小さい子のような表情をして。
私が通り過ぎようとすると、名前を呼ばれた。それからいきなり「ちょっと来て!」って言われて。
彼はいつも私の歩幅に合わせてくれて、一人で歩く時、他の誰かと歩く時はいつも早歩きなのに、ゆっくり歩いてくれた。この時も。
学校のすぐ近くにある公園に着く。
雪化粧で綺麗に染まった大きな木の下に来る。
彼は周りの目を気にしないタイプだったけれど、気になる私に気をつかい、人がいない場所を選んでくれたのかな?
それから「好き、付き合って欲しいです」って告白された。
改まった様子で珍しく緊張している様子だった。
もちろん返事はOK。
生まれて始めて、恋人が出来た。
ほのかに香る小さな春風と共に、ドキドキやワクワク、色んな気持ちが私を包み込んだ。
卒業して、お互い就職した。
彼は建築のお仕事で、私は携帯ショップの店員。
会える時間は高校の時に比べると減った。
けれど、彼は就職してすぐに一人暮らしを始めて「いつでも来ていいよ!」って言ってくれて、アパートの鍵をくれたから、会えた。
仕事が終わると買い物して、当たり前のように彼の家へ行き、ご飯を作るようになった。
元々料理するのは好きでは無かったけれど、彼が喜んでくれるから、彼が好きな揚げ物、唐揚げや天ぷらとかを多く作った。
彼は洗濯物を溜めがちだったから気になって、彼が少しでも快適に過ごせるように、洗濯物を洗って干して、掃除機もかけて。
うちは社会人になっても門限があったから、二十二時までには帰らないと行けなくて。
離れる瞬間の時間が寂しくて、切なかった。
「一緒に暮らしたいね」って毎回話していて、親からやっと同棲する許可を貰えて、彼と一緒に暮らし始めた。。
ちょうど私が二十歳になった時。
幸せだった。
とにかく幸せだった。
仕事が終わるとふたりはすぐに家に帰る。私がご飯を作っていると、一緒に作ってくれたりもした。
休みの日は、いつも一緒にいた。
二人共、晴れの日の外が好きだったから大体どこかに出かけていた。
「水族館に行きたいな」ってテレビで水族館特集をやっているのを観ながら呟いたら彼はすぐにネットで「いいとこないかなぁ」って調べてくれて、連れていってくれた。たまに言う私の願望を彼は毎回叶えようとしてくれた。
雨の日は「雨が嫌だね」って言いながら布団でゴロゴロしながらくっついていたり。
優しかったな。
行動早くて頼もしかったな。
本当に、本当に幸せだったな。
でもその幸せは、少しずつ崩れ始めた。
環境に、慣れすぎちゃったのかな?
同棲を始めて、一年ぐらいたった頃。
もうその時には、LINEに既読がついても返事が遅かったり、来なかったりしていたかな?
ご飯を作って待っていても、遅くなる連絡が来なくて、帰ってきてから「外でご飯食べてきた」って事後報告をしてきたり。
「心配だから、遅くなる時は連絡ちょうだいね」
「うん」
私の気持ちを伝えると、うん。って彼は言ったのに。同じ事を何回も繰り返した。既読スルーもあたり前になっていった。
彼から何も連絡が来ないまま帰って来ず、日をまたいだ日があった。
何かあったのではないかと心配した。
『遅くなる』って、たった一言でも連絡をくれればいいのに。
最近の彼を思い出していたら、その心配は、怒りでどうしようもない気持ちに変わっていった。
作ったご飯を捨てた。
彼が脱いで裏返しな状態のまま洗濯カゴに入れたTシャツを裏返しのまま洗った。いつもは直していたのに。
それから、干さないで床におもいきり投げた。
怒りと心配の気持ちがいっぱいで眠れなかった。
時間を見たら朝の五時。
ガタンとドアの音が聞こえる。
彼が帰ってきた。
私は急いでベットに入り、眠ったふりをした。
ガタン、バタン。
クローゼットの開け閉めの音。
私の事なんて、一切気にしないで大きな音を立てている。
うるさい。
彼がシャワーに入ってる間、私は声を押し殺して泣いた。
ふたりで出かける時も、昔なら歩幅を合わせてくれたのに、私の事を気にかけてくれずに、先に前に進んでしまうようになっていた。
晴れの日、彼は「疲れた」って言って、ひとりでゴロゴロしている。
以前なら一緒にゴロゴロしていたけれど、彼が横になっていても、隣には行きたくない気持ちになった。
夜、彼の横に眠るのも、ベットがひとつしかないから仕方なくって感じ。
一緒にいるだけで、張り詰めた空気になる事が多くなる。
裏返しのまま洗濯カゴに出された彼のTシャツも、それを見るだけでイライラするようになるし、ご飯も二人分作るのが面倒くさくなってきた。彼が風邪っぽくても、看病も何もしないで、ただ私に風邪を移さないでって、冷たい気持ちになるし。
どんどん自分が嫌な女になっていく。
些細な事で喧嘩も増えていく。
もう、気がつけば、彼との心の距離は遠い。一緒にいるのもお互いの為にはならないと思う。
二十三歳の時。
「ねぇ、別れよう」
私が言った、私にとっては重大だった言葉。彼は一瞬言葉に反応して、ちらってこっちを見たけれど、再びスマホに視線を戻し、「うん」と、たった一言だけの返事をしてきた。
その動作を見て、私達の関係って、もうその程度までいっていたんだね。って、察した。
実家には戻りたくなかったから、安めのアパートをすぐに探した。
同時に少しずつ荷物をまとめ、アパートの鍵をテーブルの上に置き、家を出た。
長い期間をかけて積み上げてきた私達の関係が、あっさりと、一瞬で、全て終わった。
一人暮らしが始まった。
陸斗と暮らしている時はシングルベッドでふたり一緒に寝ていた。くっついて寝られるから、あの時は、あの狭さが心地良かった。
仲が良かった頃は、毎日彼の胸元に顔をうずめて、彼にぎゅっと抱きしめられながら眠っていた。
温もりを思い出すだけで、泣けてくる。
最後はあんなに険悪な雰囲気だったのに、思い出すのは、笑いあった日々の思い出ばかり。
一人で暮らし始めてから二週間後、彼からLINEが来た。
『シュシュと化粧水、家に忘れてるよ? 届けよっか?』って。
『新しいの買ったから、大丈夫』
本当は、会いたくて届けてもらおうかなって気持ちもあったけれど、断ってしまった。
『なんか困った事とかあったら言ってよ?』
彼からの返信が早い。
『大丈夫だよ』
『おやすみ』
『おやすみ』
それから、寝る前に『おやすみ』ってLINEが彼から来た。
彼はきっと、離れた事に後悔し始めている。
私もまだ、後悔や未練……色んな気持ちが心の中でぐちゃぐちゃに絡み合っている。
私は普段あまり思っている事を言えなくて、急に爆発しちゃうタイプの人間だった。しかも言葉じゃなくて態度で。やっかい。
もっと言葉で伝えれば良かったのかなって、今になって反省した。
私から別れを切り出したのに、後悔ばかりしていた。今からでも会ってきちんと話せば、あの頃みたいに戻れる?
『もう一度会って、話がしたい』
私はそう言葉を打ったけれど、送信ボタンを押さずに消した。
送ったら、駄目だ!
ずっと別れずにいたとしても、もしも会ってまた付き合ったとしても、上手くはいかないと思う。
お互い外から見た性格は正反対に見られてそうだけど、実は二人共、我が強すぎて、反発しあうし、同じ事を繰り返すと思う。
お互いに幸せになれないんだ。
何か、LINEの返事をしたくない気持ちになって、初めて私は既読スルーをした。
二十四歳になった。
あれから彼とは一切連絡を取り合っていない。
少しずつ、彼への気持ちが落ち着いてきた。
でも嫌いになれない。
完全に吹っ切れた訳ではなくて。
誰にも話せなかった、彼との話を、職場の先輩にしてみた。色々気にかけてくれる二歳年上の男の人。
彼から貰った、彼とお揃いでつけていたピンク色のミサンガが腕から外せないでいて、まだ彼への未練が私の心の中で残っているのかもしれない事まで打ち明けた。
話してから数日後、閉店後の業務をしている時「帰り、渡したいものあるから、ちょっと帰らないで休憩室で待ってて」って先輩に言われた。
渡されたのは、ピンク色の紐にハートのチャームがついたブレスレット。
先輩は私の腕のミサンガを指さした。
「それ外せたら、前に進めるかもよ」
私はミサンガを見つめた。
「そうですね! 先輩、私、前に進みます! ありがとうございます!」
先輩は、優しく微笑んでくれた。
私も微笑み返した。
家に帰ると、部屋着に着替えてメイクを落とした後、ミサンガを見つめた。
「糸が切れない限り、ずっと僕達一緒にいれるはず」だとか「もし切れたら、またお揃いの買えばずっと仲良しのままでいられる」だとか言って、ふたりお揃いでつけていたミサンガ。
そのミサンガを……、切った。
切る瞬間は想像よりも冷静でいられて、涙ひとつこぼれなかった。もう過去に涙を流しすぎていたから。
それから私は切れたミサンガを見つめながら、陸斗はミサンガを切れずにいて、今頃後悔しながら付けているのかもしれないなって想像した。
想像しながら、ミサンガをゴミ箱の中に、落とした。
その日、夢をみた。
実際に過去で過ごした風景の夢。
仕事が休みの日。ふたりで朝から散歩をしている。夏の早朝は風が気持ちよくて、ちょうど良い涼しさで気持ちがよい。
「おじいちゃんおばあちゃんになっても、一緒にこうやって仲良しでいるんだろうね!」
「当たり前でしょ! 僕らはずっと一緒だよ」
「ねっ! なんか陸斗といると、外歩いているだけなのに凄く楽しい」
「ずっと幸せでいような」
ふたりは手を繋ぎながら微笑みあった。
―――幸せ!
そんな、懐かしい夢。彼と過ごした日々はもう、懐かしい過去。
過去を糧にしてこれからは、生きていきます。
★陸斗
僕が美波と出会ったのはちょうど今から十年前、十五歳の時だった。
高校に入り、同じクラスになってすぐに彼女に惚れた。
クラスの中でとても静かなタイプで、僕とは正反対。彼女が彼女の友達と話している時に見せるはにかんだ笑顔、授業中、先生に当てられた時、自信なさそうに答える姿、小柄で包みたくなるような可愛さ、全てが愛しくて、守ってあげたくなった。
積極的にアピールすれば好きになってくれるかな?
できる限りの事をした。
「ちょっと使い方まだよく分からないけれど、スマホにLINEを入れてみたよ!」
休み時間、美波は友達との会話でそう言っていた。彼女のLINEを聞く以外の選択はない。
「LINE教えて? 交換しよう!」
すぐに教えてもらった。
交換したその日の夜から、LINEでの会話が始まった。
彼女からも送ってくれるようになって、その時は嬉しくてすぐに返事をした。
卒業する日が近づいてきた。
こんなにLINEをしたりしているけれども、付き合っている訳ではないし、卒業したら疎遠になってしまうかもしれない。
僕は決意した。
告白する。
門を抜けた場所で、友達と雪玉で遊びながら彼女が通るのを待った。
来た!
「ちょっと来て!」
人に見られない場所に、来てもらう事にした。ゆっくり歩く姿も愛おしい。急がせないように、歩幅を合わせた。
告白する時は緊張した。
「好き、付き合って欲しいです」
はにかみながら彼女は「はい」って言ってくれた。
「よっしゃー!」
僕はまだ雪玉で遊んでいそうな友達の所まで聞こえそうな声で叫んだ。嬉しすぎて。
卒業して、僕はすぐに一人暮らしを始めた。仕事が終わると彼女は家に来てくれて、一緒にいられて、幸せだった。
でも彼女には門限があって、ちょうどまったりしている時間に「もう、帰らなきゃ」って彼女が呟くのが日課だった。離れるのが寂しくなった。
「一緒に暮らしたいね」
僕がそう言うと「一緒に暮らしたいね」って。彼女が毎回同じ言葉を返してくれた。
二十歳の時、同棲を始めた。
一緒にいられる時間が増えた。
彼女はめったに自身がやりたい事とか、言わないから、たまに言う彼女の願望は必ず実現させたかった。テレビを見ながら「水族館に行きたいな」って彼女が呟いていた時は、すぐにネットで良い場所がないか検索して、連れていった。水族館に行った時は、物凄く楽しそうで、その姿を見て、ほっとして、幸せだった。
幸せだった。
何もかもが幸せだったのに……。
僕のせいなんだ。
同棲を始めて、一年ぐらいたった頃。
僕は仕事で責任ある仕事を任されるようになり、意識がそっちの方に集中していた。
それはただの言い訳なのかもしれないけれど。
彼女からLINEが来たけど、返さなくなった。昼休みに余裕で返せたけど。なんか、家でどうせ会うんだから返信しなくていいかなって考えるようになって。
彼女は、何か不満があると怒りとかの感情を言葉では伝えずに無口になって、ひとりでムッとするタイプだった。段々と増えていって。その態度に対して僕は「察して 」って言われているみたいで、面倒くさくなった。
「仕事終わったらみんなで飲みに行くんだけど、陸斗は行く?」
「陸斗は、彼女さんが家でご飯作って待ってるんじゃなかったっけ?」
「うーん……大丈夫! 行くわ!」
その後、次の日休みだからって、飲んだ後、カラオケに行った。連絡しないで朝帰り。
彼女の悲しむ顔がぱっと浮かんだ。
ずっと起きて待っているんだろうなぁって。
でも、浮かんで直ぐに消えた。
家に帰ったのは、朝の五時。
少し辺りが明るくなりだした時間
帰ってきたら、ご飯が捨てられていた。
洗い終わった僕のTシャツが裏返しのままリビングに落ちていた。
彼女が荒れていた様子だ。
彼女がベットで眠っているのを確認すると、シャワーに入って、ソファーの上で横になった。
その日から彼女は冷たくなった。
その態度に面倒臭さが増した。
彼女は歩くのが遅い。歩幅も合わせるのが面倒。
休みの日、彼女と出かけるのすら面倒。
一緒にいるだけで空気悪い。
そんな中、彼女から別れの話を切り出された。
二十三歳の時。
「ねぇ、別れよう」
「うん」
日常の一コマに組み込まれたその言葉。
全く違和感を感じなかったその会話。
どうでもいいやって、軽い気持ちで頷いた。
後から物凄く後悔するって、その時は気が付かなかったんだ。
仕事が休みの日。ふたりで朝から散歩をしている。夏の早朝は風が気持ちよくて、ちょうど良い涼しさで気持ちがよい。
「おじいちゃんおばあちゃんになっても、一緒にこうやって仲良しでいるんだろうね!」
「当たり前でしょ! 僕らはずっと一緒だよ」
「ねっ! なんか陸斗といると、外歩いているだけなのに凄く楽しい」
「ずっと幸せでいような」
ふたりは手を繋ぎながら微笑みあった。
―――幸せだ!
目を覚ました。
……夢だった。
実際に過去で過ごした風景の夢。
時計を見ると朝の五時。
「あっ、そっか」
目を開くとこっちをじっと見つめていて、目が合った瞬間微笑んでくれた彼女が目に浮かんでくる。
ベットの隣に美波がいないのを確認する。
一気に現実へと気持ちが引き戻された。
彼女は家を出ていった。
もう僕の隣には彼女がいない。
心の中で彼女の存在が大きくなる。
彼女のありがたさに気がつく。
裏返したまま出していたTシャツを戻すのがひと手間。
部屋が散らかってゆく。
美波のご飯が食べたい。
もう、他にも色々ありすぎた。
ひとりで外を歩いた。
小さな歩幅でゆっくり歩く美波の姿に愛しさを感じていた頃の気持ちを思い出す。
一緒にどこかに行くの、楽しかったな。
彼女の笑顔、優しさ……彼女の全てが愛しかった。
ムッとする姿も、悲しそうな顔も。
全てを可愛いと感じていた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
いなくなってしまってから、彼女に対しての気持ちを思い出すなんて。
いなくなってしまってから彼女が僕にくれた沢山の事に気がつくなんて。
僕は、今も彼女の事を愛しているんだなって、自覚した。
もう気軽に「おはよう」とか、「おやすみ」だとか、LINEを送りあえる雰囲気でもない。LINEを送るきっかけを探した。
洗面所に置きっぱなしの彼女のシュシュや化粧水を見つめた。
連絡してみよう。
『シュシュと化粧水、家に忘れてるよ? 届けよっか?』
新居の住所も教えられなかったから、これをきっかけに教えて貰って、また会えたらなって考えながら寝る前にLINEを送った。
『新しいの買ったから、大丈夫』
断られたけど、返事が来たのが嬉しくて直ぐに返信をした。
『なんか困った事とかあったら言ってよ?』
『大丈夫だよ』
『おやすみ』
『おやすみ』
それから毎日、寝る前に『おやすみ』ってLINEを送った。
最初は『おやすみ』って彼女から返信が来ていたけれど、既読はつくのに返事は来なくなった。
彼女から返事が来ないのが、こんなにも寂しい気持ちになるなんて。寂しかったけれど、しつこく一方的に送って、これ以上嫌われるのが怖くなったから、LINEを送れなくなった。
一緒にいた頃、彼女からLINEが来ても、返事を返さなかった事に後悔した。もう、彼女を悲しませてしまった全ての行為に後悔しかない。
二十五歳の夏、僕はまだ美波が好きだった。勇気をだして、久しぶりに美波へLINEを送った。
『もう一度会って、話がしたい』
別れてからもずっと、彼女の事が忘れられなかった。
もう一度やり直したい。
スマホの音が鳴る。
すぐにLINEを開いた。
『もう、会うとか、無理なんだ。ごめん。
これだけは約束して欲しいです。次に陸斗が誰かを愛した時、私みたいに慣れないで、相手の愛にちゃんと向き合って。そして、私みたいにわがままで我慢ばっかりして溜めこんでる。そんな人と恋に落ちないでください。最後のわがままに指切りをお願いします。
ありがとう。
さよなら。
ばいばい。』
返事が来た。
心が痛い内容。
あの頃は気が付かなかったんだ。
いや、気がついていたけれど、気が付かない振りをしていた。
美波が我慢していた事に。
後悔している。
後悔しかしていない。
すぐにLINEを返した。
『真剣に向き合えなくてごめん。美波が僕にしてくれた沢山の優しさに気がつけなくてごめん。美波をもっと大切にすれば良かった。もう後悔しかしていない。これだけは約束して、そんな話は聞きたくない。次の愛なんて知りたくないから。美波との約束をこの胸に秘めたまま何年だって美波が好きなままで、その約束を果たす相手はまた同じ人でも、美波でも別にいいでしょう? 最後のわがままなんて言わないで。これからもわがまま言って? 慣れないし、美波の愛にちゃんと向き合うし。てか美波はわがままじゃない。我慢させない、溜めこませないから。だからお願い、もう一度だけでいいから、会って話がしたいんだ。もう一度だけ、チャンスを下さい。本当にごめん』
紙に殴り書きをするような速さでLINEの文章を打った。すぐに送信ボタンを押した。
こんなに長い文章で、こんなに早い返信をしたのは初めて。どん引きされそうだけど、思いの全てを伝えたかった。
けれど、この文章は既読になる事はなかった。
読んでもらえる事はなかった。
向かい合おうとする気持ちが遅すぎた。
伝えるのが、遅すぎた。
何もかもが遅すぎた。
今の彼女との繋がりはこのミサンガだけ。
腕にずっとつけている、彼女とお揃いのピンクのミサンガを見つめた。でもきっと、彼女はもう、つけていないだろう。
僕の頭の中は、日が経つにつれて美波への想いが溢れてくる。
涙で滲む、目の前の景色が。
二十五歳の夏、陸斗から二年ぶりにLINEが来た。
『もう一度会って、話がしたい』
それ……私が二年前に陸斗と別れたばかりの頃、あなたに送ろうとした言葉だよ。まだ未練たらたらだった時。その言葉を打ったけれど、送信ボタンを押せなくて、結局消したやつ。
まるで二年前に消した言葉が、二年間空中にふわふわ浮いたままだったみたい。
今頃になって送ってくるなんて。
まぁ、予想はしていたけれど。
でもね、もう、遅いんだ。
あなたの事を諦められるように、前に進むためにいっぱい泣いたし考えた。
出した結論。
私ね、あなたに依存していたんだと思う。いつの間にかあなたが全てで、あなた以外に何もなかった。
あなたとの綺麗な思い出も汚い思い出も、全部、今でも大切。これからもずっと心の中にしまって、それを糧にして、自分を見つけて生きていくね。
あなたと過ごした日々を思い出しながら一文字一文字丁寧に文字を打った。
これが本当に最後のLINE。
『もう、会うとか、無理なんだ。ごめん。
これだけは約束して欲しいです。次に陸斗が誰かを愛した時、私みたいに慣れないで、相手の愛にちゃんと向き合って。そして、私みたいにわがままで我慢ばっかりして溜めこんでる。そんな人と恋に落ちないでください。最後のわがままに指切りをお願いします。
ありがとう。
さよなら。
ばいばい。』
送信して、すぐに彼の連絡先を全て消した。
彼が返事を書いて、送信を押しても、こっちに届かないように拒否設定にした。返事が来て、心が揺れてしまうかもしれない自分が、怖くて。
お互い別々の道を歩んでも、一緒に幸せになろうね。
あなたの幸せ、心から願ってます。
***
私が陸斗と出会ったのはちょうど今から十年前、十五歳の時だった。
高校に入り、同じクラスになって間もない頃から、私の事が好きなんだなって周りから見ても明らかに分かるような、情熱的なアプローチをされた。
休み時間、他の男子に話しかけられて、話していると必ず彼が近づいてきて、話に割り込んできたり、なんかペンケース持ってきて、中身全部入ってきてるのに、シャープペン貸してとか言ってきたり……。いちいち何かしら褒めてくれていた。髪の毛を三センチだけ切った時とか、誰にも気が付かれないような些細な変化にも気がついてくれて。
あと、視線を感じて振り向くと必ず彼がこっちを見ていた。
私は内気なタイプだったから、そんな彼に少しずつ惹かれていった。
LINEを聞かれた。教えあったその日から毎日夜寝る前に、学校の話とか会話して眠るのが日常になった。
『おはよう』『おやすみ』『今何してる?』なんて、どんな些細な事を送っても、既読になるとすぐに彼から返事は来た。私もすぐに返した。
私は完全、彼に恋をした。
そして彼も私の事、きっと好き。
日がたつにつれ、お互いの“好き”な気持ちも育っていった。
もうすぐ卒業だねって時、告白された。
その時の、天気、状況、景色、今でも鮮明に心の中で刻まれている。
雪が優しく降っていて、でもほのかに暖かい日だった。
学校の帰り道。
彼は門を抜けた所で、無邪気に友達と雪玉をぶつけ合って遊んでいた。なんだか小さい子のような表情をして。
私が通り過ぎようとすると、名前を呼ばれた。それからいきなり「ちょっと来て!」って言われて。
彼はいつも私の歩幅に合わせてくれて、一人で歩く時、他の誰かと歩く時はいつも早歩きなのに、ゆっくり歩いてくれた。この時も。
学校のすぐ近くにある公園に着く。
雪化粧で綺麗に染まった大きな木の下に来る。
彼は周りの目を気にしないタイプだったけれど、気になる私に気をつかい、人がいない場所を選んでくれたのかな?
それから「好き、付き合って欲しいです」って告白された。
改まった様子で珍しく緊張している様子だった。
もちろん返事はOK。
生まれて始めて、恋人が出来た。
ほのかに香る小さな春風と共に、ドキドキやワクワク、色んな気持ちが私を包み込んだ。
卒業して、お互い就職した。
彼は建築のお仕事で、私は携帯ショップの店員。
会える時間は高校の時に比べると減った。
けれど、彼は就職してすぐに一人暮らしを始めて「いつでも来ていいよ!」って言ってくれて、アパートの鍵をくれたから、会えた。
仕事が終わると買い物して、当たり前のように彼の家へ行き、ご飯を作るようになった。
元々料理するのは好きでは無かったけれど、彼が喜んでくれるから、彼が好きな揚げ物、唐揚げや天ぷらとかを多く作った。
彼は洗濯物を溜めがちだったから気になって、彼が少しでも快適に過ごせるように、洗濯物を洗って干して、掃除機もかけて。
うちは社会人になっても門限があったから、二十二時までには帰らないと行けなくて。
離れる瞬間の時間が寂しくて、切なかった。
「一緒に暮らしたいね」って毎回話していて、親からやっと同棲する許可を貰えて、彼と一緒に暮らし始めた。。
ちょうど私が二十歳になった時。
幸せだった。
とにかく幸せだった。
仕事が終わるとふたりはすぐに家に帰る。私がご飯を作っていると、一緒に作ってくれたりもした。
休みの日は、いつも一緒にいた。
二人共、晴れの日の外が好きだったから大体どこかに出かけていた。
「水族館に行きたいな」ってテレビで水族館特集をやっているのを観ながら呟いたら彼はすぐにネットで「いいとこないかなぁ」って調べてくれて、連れていってくれた。たまに言う私の願望を彼は毎回叶えようとしてくれた。
雨の日は「雨が嫌だね」って言いながら布団でゴロゴロしながらくっついていたり。
優しかったな。
行動早くて頼もしかったな。
本当に、本当に幸せだったな。
でもその幸せは、少しずつ崩れ始めた。
環境に、慣れすぎちゃったのかな?
同棲を始めて、一年ぐらいたった頃。
もうその時には、LINEに既読がついても返事が遅かったり、来なかったりしていたかな?
ご飯を作って待っていても、遅くなる連絡が来なくて、帰ってきてから「外でご飯食べてきた」って事後報告をしてきたり。
「心配だから、遅くなる時は連絡ちょうだいね」
「うん」
私の気持ちを伝えると、うん。って彼は言ったのに。同じ事を何回も繰り返した。既読スルーもあたり前になっていった。
彼から何も連絡が来ないまま帰って来ず、日をまたいだ日があった。
何かあったのではないかと心配した。
『遅くなる』って、たった一言でも連絡をくれればいいのに。
最近の彼を思い出していたら、その心配は、怒りでどうしようもない気持ちに変わっていった。
作ったご飯を捨てた。
彼が脱いで裏返しな状態のまま洗濯カゴに入れたTシャツを裏返しのまま洗った。いつもは直していたのに。
それから、干さないで床におもいきり投げた。
怒りと心配の気持ちがいっぱいで眠れなかった。
時間を見たら朝の五時。
ガタンとドアの音が聞こえる。
彼が帰ってきた。
私は急いでベットに入り、眠ったふりをした。
ガタン、バタン。
クローゼットの開け閉めの音。
私の事なんて、一切気にしないで大きな音を立てている。
うるさい。
彼がシャワーに入ってる間、私は声を押し殺して泣いた。
ふたりで出かける時も、昔なら歩幅を合わせてくれたのに、私の事を気にかけてくれずに、先に前に進んでしまうようになっていた。
晴れの日、彼は「疲れた」って言って、ひとりでゴロゴロしている。
以前なら一緒にゴロゴロしていたけれど、彼が横になっていても、隣には行きたくない気持ちになった。
夜、彼の横に眠るのも、ベットがひとつしかないから仕方なくって感じ。
一緒にいるだけで、張り詰めた空気になる事が多くなる。
裏返しのまま洗濯カゴに出された彼のTシャツも、それを見るだけでイライラするようになるし、ご飯も二人分作るのが面倒くさくなってきた。彼が風邪っぽくても、看病も何もしないで、ただ私に風邪を移さないでって、冷たい気持ちになるし。
どんどん自分が嫌な女になっていく。
些細な事で喧嘩も増えていく。
もう、気がつけば、彼との心の距離は遠い。一緒にいるのもお互いの為にはならないと思う。
二十三歳の時。
「ねぇ、別れよう」
私が言った、私にとっては重大だった言葉。彼は一瞬言葉に反応して、ちらってこっちを見たけれど、再びスマホに視線を戻し、「うん」と、たった一言だけの返事をしてきた。
その動作を見て、私達の関係って、もうその程度までいっていたんだね。って、察した。
実家には戻りたくなかったから、安めのアパートをすぐに探した。
同時に少しずつ荷物をまとめ、アパートの鍵をテーブルの上に置き、家を出た。
長い期間をかけて積み上げてきた私達の関係が、あっさりと、一瞬で、全て終わった。
一人暮らしが始まった。
陸斗と暮らしている時はシングルベッドでふたり一緒に寝ていた。くっついて寝られるから、あの時は、あの狭さが心地良かった。
仲が良かった頃は、毎日彼の胸元に顔をうずめて、彼にぎゅっと抱きしめられながら眠っていた。
温もりを思い出すだけで、泣けてくる。
最後はあんなに険悪な雰囲気だったのに、思い出すのは、笑いあった日々の思い出ばかり。
一人で暮らし始めてから二週間後、彼からLINEが来た。
『シュシュと化粧水、家に忘れてるよ? 届けよっか?』って。
『新しいの買ったから、大丈夫』
本当は、会いたくて届けてもらおうかなって気持ちもあったけれど、断ってしまった。
『なんか困った事とかあったら言ってよ?』
彼からの返信が早い。
『大丈夫だよ』
『おやすみ』
『おやすみ』
それから、寝る前に『おやすみ』ってLINEが彼から来た。
彼はきっと、離れた事に後悔し始めている。
私もまだ、後悔や未練……色んな気持ちが心の中でぐちゃぐちゃに絡み合っている。
私は普段あまり思っている事を言えなくて、急に爆発しちゃうタイプの人間だった。しかも言葉じゃなくて態度で。やっかい。
もっと言葉で伝えれば良かったのかなって、今になって反省した。
私から別れを切り出したのに、後悔ばかりしていた。今からでも会ってきちんと話せば、あの頃みたいに戻れる?
『もう一度会って、話がしたい』
私はそう言葉を打ったけれど、送信ボタンを押さずに消した。
送ったら、駄目だ!
ずっと別れずにいたとしても、もしも会ってまた付き合ったとしても、上手くはいかないと思う。
お互い外から見た性格は正反対に見られてそうだけど、実は二人共、我が強すぎて、反発しあうし、同じ事を繰り返すと思う。
お互いに幸せになれないんだ。
何か、LINEの返事をしたくない気持ちになって、初めて私は既読スルーをした。
二十四歳になった。
あれから彼とは一切連絡を取り合っていない。
少しずつ、彼への気持ちが落ち着いてきた。
でも嫌いになれない。
完全に吹っ切れた訳ではなくて。
誰にも話せなかった、彼との話を、職場の先輩にしてみた。色々気にかけてくれる二歳年上の男の人。
彼から貰った、彼とお揃いでつけていたピンク色のミサンガが腕から外せないでいて、まだ彼への未練が私の心の中で残っているのかもしれない事まで打ち明けた。
話してから数日後、閉店後の業務をしている時「帰り、渡したいものあるから、ちょっと帰らないで休憩室で待ってて」って先輩に言われた。
渡されたのは、ピンク色の紐にハートのチャームがついたブレスレット。
先輩は私の腕のミサンガを指さした。
「それ外せたら、前に進めるかもよ」
私はミサンガを見つめた。
「そうですね! 先輩、私、前に進みます! ありがとうございます!」
先輩は、優しく微笑んでくれた。
私も微笑み返した。
家に帰ると、部屋着に着替えてメイクを落とした後、ミサンガを見つめた。
「糸が切れない限り、ずっと僕達一緒にいれるはず」だとか「もし切れたら、またお揃いの買えばずっと仲良しのままでいられる」だとか言って、ふたりお揃いでつけていたミサンガ。
そのミサンガを……、切った。
切る瞬間は想像よりも冷静でいられて、涙ひとつこぼれなかった。もう過去に涙を流しすぎていたから。
それから私は切れたミサンガを見つめながら、陸斗はミサンガを切れずにいて、今頃後悔しながら付けているのかもしれないなって想像した。
想像しながら、ミサンガをゴミ箱の中に、落とした。
その日、夢をみた。
実際に過去で過ごした風景の夢。
仕事が休みの日。ふたりで朝から散歩をしている。夏の早朝は風が気持ちよくて、ちょうど良い涼しさで気持ちがよい。
「おじいちゃんおばあちゃんになっても、一緒にこうやって仲良しでいるんだろうね!」
「当たり前でしょ! 僕らはずっと一緒だよ」
「ねっ! なんか陸斗といると、外歩いているだけなのに凄く楽しい」
「ずっと幸せでいような」
ふたりは手を繋ぎながら微笑みあった。
―――幸せ!
そんな、懐かしい夢。彼と過ごした日々はもう、懐かしい過去。
過去を糧にしてこれからは、生きていきます。
★陸斗
僕が美波と出会ったのはちょうど今から十年前、十五歳の時だった。
高校に入り、同じクラスになってすぐに彼女に惚れた。
クラスの中でとても静かなタイプで、僕とは正反対。彼女が彼女の友達と話している時に見せるはにかんだ笑顔、授業中、先生に当てられた時、自信なさそうに答える姿、小柄で包みたくなるような可愛さ、全てが愛しくて、守ってあげたくなった。
積極的にアピールすれば好きになってくれるかな?
できる限りの事をした。
「ちょっと使い方まだよく分からないけれど、スマホにLINEを入れてみたよ!」
休み時間、美波は友達との会話でそう言っていた。彼女のLINEを聞く以外の選択はない。
「LINE教えて? 交換しよう!」
すぐに教えてもらった。
交換したその日の夜から、LINEでの会話が始まった。
彼女からも送ってくれるようになって、その時は嬉しくてすぐに返事をした。
卒業する日が近づいてきた。
こんなにLINEをしたりしているけれども、付き合っている訳ではないし、卒業したら疎遠になってしまうかもしれない。
僕は決意した。
告白する。
門を抜けた場所で、友達と雪玉で遊びながら彼女が通るのを待った。
来た!
「ちょっと来て!」
人に見られない場所に、来てもらう事にした。ゆっくり歩く姿も愛おしい。急がせないように、歩幅を合わせた。
告白する時は緊張した。
「好き、付き合って欲しいです」
はにかみながら彼女は「はい」って言ってくれた。
「よっしゃー!」
僕はまだ雪玉で遊んでいそうな友達の所まで聞こえそうな声で叫んだ。嬉しすぎて。
卒業して、僕はすぐに一人暮らしを始めた。仕事が終わると彼女は家に来てくれて、一緒にいられて、幸せだった。
でも彼女には門限があって、ちょうどまったりしている時間に「もう、帰らなきゃ」って彼女が呟くのが日課だった。離れるのが寂しくなった。
「一緒に暮らしたいね」
僕がそう言うと「一緒に暮らしたいね」って。彼女が毎回同じ言葉を返してくれた。
二十歳の時、同棲を始めた。
一緒にいられる時間が増えた。
彼女はめったに自身がやりたい事とか、言わないから、たまに言う彼女の願望は必ず実現させたかった。テレビを見ながら「水族館に行きたいな」って彼女が呟いていた時は、すぐにネットで良い場所がないか検索して、連れていった。水族館に行った時は、物凄く楽しそうで、その姿を見て、ほっとして、幸せだった。
幸せだった。
何もかもが幸せだったのに……。
僕のせいなんだ。
同棲を始めて、一年ぐらいたった頃。
僕は仕事で責任ある仕事を任されるようになり、意識がそっちの方に集中していた。
それはただの言い訳なのかもしれないけれど。
彼女からLINEが来たけど、返さなくなった。昼休みに余裕で返せたけど。なんか、家でどうせ会うんだから返信しなくていいかなって考えるようになって。
彼女は、何か不満があると怒りとかの感情を言葉では伝えずに無口になって、ひとりでムッとするタイプだった。段々と増えていって。その態度に対して僕は「察して 」って言われているみたいで、面倒くさくなった。
「仕事終わったらみんなで飲みに行くんだけど、陸斗は行く?」
「陸斗は、彼女さんが家でご飯作って待ってるんじゃなかったっけ?」
「うーん……大丈夫! 行くわ!」
その後、次の日休みだからって、飲んだ後、カラオケに行った。連絡しないで朝帰り。
彼女の悲しむ顔がぱっと浮かんだ。
ずっと起きて待っているんだろうなぁって。
でも、浮かんで直ぐに消えた。
家に帰ったのは、朝の五時。
少し辺りが明るくなりだした時間
帰ってきたら、ご飯が捨てられていた。
洗い終わった僕のTシャツが裏返しのままリビングに落ちていた。
彼女が荒れていた様子だ。
彼女がベットで眠っているのを確認すると、シャワーに入って、ソファーの上で横になった。
その日から彼女は冷たくなった。
その態度に面倒臭さが増した。
彼女は歩くのが遅い。歩幅も合わせるのが面倒。
休みの日、彼女と出かけるのすら面倒。
一緒にいるだけで空気悪い。
そんな中、彼女から別れの話を切り出された。
二十三歳の時。
「ねぇ、別れよう」
「うん」
日常の一コマに組み込まれたその言葉。
全く違和感を感じなかったその会話。
どうでもいいやって、軽い気持ちで頷いた。
後から物凄く後悔するって、その時は気が付かなかったんだ。
仕事が休みの日。ふたりで朝から散歩をしている。夏の早朝は風が気持ちよくて、ちょうど良い涼しさで気持ちがよい。
「おじいちゃんおばあちゃんになっても、一緒にこうやって仲良しでいるんだろうね!」
「当たり前でしょ! 僕らはずっと一緒だよ」
「ねっ! なんか陸斗といると、外歩いているだけなのに凄く楽しい」
「ずっと幸せでいような」
ふたりは手を繋ぎながら微笑みあった。
―――幸せだ!
目を覚ました。
……夢だった。
実際に過去で過ごした風景の夢。
時計を見ると朝の五時。
「あっ、そっか」
目を開くとこっちをじっと見つめていて、目が合った瞬間微笑んでくれた彼女が目に浮かんでくる。
ベットの隣に美波がいないのを確認する。
一気に現実へと気持ちが引き戻された。
彼女は家を出ていった。
もう僕の隣には彼女がいない。
心の中で彼女の存在が大きくなる。
彼女のありがたさに気がつく。
裏返したまま出していたTシャツを戻すのがひと手間。
部屋が散らかってゆく。
美波のご飯が食べたい。
もう、他にも色々ありすぎた。
ひとりで外を歩いた。
小さな歩幅でゆっくり歩く美波の姿に愛しさを感じていた頃の気持ちを思い出す。
一緒にどこかに行くの、楽しかったな。
彼女の笑顔、優しさ……彼女の全てが愛しかった。
ムッとする姿も、悲しそうな顔も。
全てを可愛いと感じていた。
どうしてこうなってしまったのだろう。
いなくなってしまってから、彼女に対しての気持ちを思い出すなんて。
いなくなってしまってから彼女が僕にくれた沢山の事に気がつくなんて。
僕は、今も彼女の事を愛しているんだなって、自覚した。
もう気軽に「おはよう」とか、「おやすみ」だとか、LINEを送りあえる雰囲気でもない。LINEを送るきっかけを探した。
洗面所に置きっぱなしの彼女のシュシュや化粧水を見つめた。
連絡してみよう。
『シュシュと化粧水、家に忘れてるよ? 届けよっか?』
新居の住所も教えられなかったから、これをきっかけに教えて貰って、また会えたらなって考えながら寝る前にLINEを送った。
『新しいの買ったから、大丈夫』
断られたけど、返事が来たのが嬉しくて直ぐに返信をした。
『なんか困った事とかあったら言ってよ?』
『大丈夫だよ』
『おやすみ』
『おやすみ』
それから毎日、寝る前に『おやすみ』ってLINEを送った。
最初は『おやすみ』って彼女から返信が来ていたけれど、既読はつくのに返事は来なくなった。
彼女から返事が来ないのが、こんなにも寂しい気持ちになるなんて。寂しかったけれど、しつこく一方的に送って、これ以上嫌われるのが怖くなったから、LINEを送れなくなった。
一緒にいた頃、彼女からLINEが来ても、返事を返さなかった事に後悔した。もう、彼女を悲しませてしまった全ての行為に後悔しかない。
二十五歳の夏、僕はまだ美波が好きだった。勇気をだして、久しぶりに美波へLINEを送った。
『もう一度会って、話がしたい』
別れてからもずっと、彼女の事が忘れられなかった。
もう一度やり直したい。
スマホの音が鳴る。
すぐにLINEを開いた。
『もう、会うとか、無理なんだ。ごめん。
これだけは約束して欲しいです。次に陸斗が誰かを愛した時、私みたいに慣れないで、相手の愛にちゃんと向き合って。そして、私みたいにわがままで我慢ばっかりして溜めこんでる。そんな人と恋に落ちないでください。最後のわがままに指切りをお願いします。
ありがとう。
さよなら。
ばいばい。』
返事が来た。
心が痛い内容。
あの頃は気が付かなかったんだ。
いや、気がついていたけれど、気が付かない振りをしていた。
美波が我慢していた事に。
後悔している。
後悔しかしていない。
すぐにLINEを返した。
『真剣に向き合えなくてごめん。美波が僕にしてくれた沢山の優しさに気がつけなくてごめん。美波をもっと大切にすれば良かった。もう後悔しかしていない。これだけは約束して、そんな話は聞きたくない。次の愛なんて知りたくないから。美波との約束をこの胸に秘めたまま何年だって美波が好きなままで、その約束を果たす相手はまた同じ人でも、美波でも別にいいでしょう? 最後のわがままなんて言わないで。これからもわがまま言って? 慣れないし、美波の愛にちゃんと向き合うし。てか美波はわがままじゃない。我慢させない、溜めこませないから。だからお願い、もう一度だけでいいから、会って話がしたいんだ。もう一度だけ、チャンスを下さい。本当にごめん』
紙に殴り書きをするような速さでLINEの文章を打った。すぐに送信ボタンを押した。
こんなに長い文章で、こんなに早い返信をしたのは初めて。どん引きされそうだけど、思いの全てを伝えたかった。
けれど、この文章は既読になる事はなかった。
読んでもらえる事はなかった。
向かい合おうとする気持ちが遅すぎた。
伝えるのが、遅すぎた。
何もかもが遅すぎた。
今の彼女との繋がりはこのミサンガだけ。
腕にずっとつけている、彼女とお揃いのピンクのミサンガを見つめた。でもきっと、彼女はもう、つけていないだろう。
僕の頭の中は、日が経つにつれて美波への想いが溢れてくる。
涙で滲む、目の前の景色が。